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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第43号)

発行日:平成15年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 学社連携−Paper  Marriageの行方

2. 「主人」は遅れているか?:言語の二重機能とカルチュラル・ラッグ −「符牒」と「符牒の意味」−

3. 『潜在光景』

4. 「生涯学習とグループ・サークル」(第36回生涯学習フォーラム報告)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

学社連携−Paper  Marriageの行方

1   Paper  Marriage

   日本の法制度上も、教育行政の指針上も、学校教育と社会教育は「車の両輪」と言われ、家庭における父と母のように両者が相補って子どもを健全かつたくましく育てるベきものであった。少なくとも、学校と社会教育は理念的かつ紙の上では「結婚」しているのである。しかし、この結婚は近年30年を振り返れば、行政内「別居」か、行政上の「協議離婚」の危機に直面して来た。「生きる力」が育たない一因は両者の連携の欠如にある、という指摘は常に存在したが、現実の連携は全く進まなかった。

  ところが、不登校、非行、引きこもり、学級崩壊など子どもが引き起こす社会問題が注目され、子どもにおける「欠損体験の認識」と体験プログラムの重要性が論じられるようになり、再び学社の「連携」論−さらには「融合」論が浮上した。「体験プログラム」の導入を巡って、はからずも学校と社会教育の「結婚」の意味を問う機会が再び巡って来たのである。その一例が「地域教育力・体験活動推進協議会」である。

2   「協議会」の趣旨

   「協議会」では、社会教育を指導する社会教育主事と学校を指導する指導主事が一同に会した。協議テーマは「生きる力」を育むための体験プログラムの推進と充実である。その制度上の目標は学校と社会教育の連携のモデルの創出であり、連携の共通基盤を作り出すことであった。そのために学校と社会教育が協力してあるべき「教育力」を実現したいという願いが背景にある。要は、両者の「結婚」の意味を見直し、家庭における両親のように、子どもの健全なる成長のために連携し、共同・協力のプログラムを組めるか、否かを問い直したいという趣旨であった。

3   経験者の総括

   基調提案には長く社会教育行政を担当した穂波町の森本教育長が招聘された。提案の具体的事例は「学校選択制」と「土曜教育力」のための事業プログラムであった。しかし、二つの事例を背景にして、森本教育長が問うたことは、教育改革の意味であり、学校と社会教育の連携の意味であり、そして指導主事の指導への具体的注文であった。提案の骨子は以下の通りである。

(1)   熱意は結果に結びついていない

   教育関係者は家庭を含めて熱心かつ一生懸命に子どもの向上を願って頑張って来た。→しかし、子どもの問題は拡大こそすれ、解決に向かう結果は出ていない。

(2)   施策とプログラムの蓄積は必ずしも成果を意味しない

   学校も、社会教育も、教育行政も、それぞれにおいて主観的には一生懸命やった。両者の連携のために、お金も、時間も、エネルギーもかけて様々なプログラムを実施した。当然、ある程度の成果は認められる。

    →しかし、ここでも目標とした問題の解決にはほど遠い。

(3)   改革の連続は改革の失敗を意味する

   中央の教育行政は次々と新たな教育改革を提案している。改革の連続的提案は、社会状況の変化だけを意味しているのではない。現場の混乱と改革の失敗を反映している。教育改革が常に現場に下ろされ、世間を賑わすということは、従前の制度と教育実践が効果を発揮していないということを意味する。失敗しているから新しい手直しが必要になるのである。

(4)   学校にとって社会教育は必要か?

   本「協議会」は体験を重視したプログラムを学社が連携して拡充・推進することを目的にしている。しかし、両者の連携が一向に進んでこなかった現実に鑑みて、学校は本当に社会教育を必要としているのか?社会教育に何を期待しているのか?

(5)   生涯学習の原理は選択である

   学校選択制にしても、土曜プログラムにしても、子どもや保護者が「選択する」のは当然の前提として発想した。重要なものこそ市民が主体的に選択すべきであるからである。選択に際して選択基準を明確にするため、学校の指針も土曜プログラムのあり方もすべて公表した。公表は「公約」である。社会教育においては、義務教育のように、全員が一律に参加するわけではないので、「選択」原理を有料制(100円のプログラム参加料)に象徴した。結果的に、活動の継続率が高まるという結果を得ている。しかし、他方では、不可避的に、参加する子どもと参加しない子どもの「生涯学習格差」も発生する。

   土曜プログラムについては、残念ながら、町の学校関係者の応援が今一つ稀薄である。生涯学習の原理は「選択」である。指導主事や学校は教育における選択原理を支持できるであろうか?

   土曜スクールは学校週5日制に対応する折角の試みである。先生方がたった一言、”面白そうなものを選んで行ってみたら”と子どもに勧めて、背中を押してくれるだけでプログラムの成否が変わると思う。指導主事にはそういうところの指導もお願いしたい。現状では、学社連携もそういうレベルから始めるべきである。

4   司会者の総括

  協議は森本教育長の基調提案と事例発表を巡って行なうはずであった。しかし、司会をしてみると「学校選択制」と「学校週5日制」に対応する「土曜スクール」のプログラムはほとんど議論の対象とはならなかった。指導主事のみなさんにとって社会教育は余りにも遠い別の世界であったろう。Paper  Marriageが機能しない現実を目の前にして、二つの事例は、おそらくは、多くの参加者にとって、いまだ具体化を考えるにほど遠い、手の届かない実践であったに違いない。 

協議を終って筆者のまとめは以下の通りである。

(1)   多忙な学校

   学校は現行のスケジュールの枠の中で社会教育と連携する余裕はない。必ずしも連携の必要も感じていない。年間スケジュールに縛られた多忙な日常に新しいものを持ち込む余裕はないのである。

(2)   モデルの不在

   学校は専門機関として相変らず自己完結的である。それが年間計画の作成に反映されている。中央行政の指導でゲストティーチャーなど地域の人材の活用を始めたが、それは個別の学校の意志ではない。地域との連携については、社会教育が蓄積して来た資源とノウーハウを学校が活用する方法論もモデルも確立されるに至っていない。現状で、社会教育と連携すれば、おそらく、学校のスリム化とは反対の方向に進むという怖れを感じている。

(3)   教科教育の限界

   学校は教科教育の専門機関であるということを重視している。それゆえ、どこかで授業を充実すれば「生きる力」は向上すると錯覚している。現に、教科指導の前提となる体力や耐性など子どもの発達要素の順序性や、重要度の違いについての認識は薄い。それゆえ、なぜ子どもの「体験」が問われれているかが席上あまり議論にならない。工夫さえすれば、授業の中でも「生きる力」が向上できるという発想には、「学習」と「体得」の概念も識別されていない。不登校も、学級崩壊も、問題の根本は授業や教科指導以前の問題であることが必ずしも正確に認識されていない。教科教育にはおのずとその限界があるのである。

(4)   余計な事はしたくない?

   おそらく、実際問題として、学社連携の構想は、学校の「専門機関意識」にも、「スリム化原則」にも反している。学校にとって、今後、体験プログラムの重視を図るにしても、「連携事務」のような「煩わしい」手続きを避けて、できれば学校単独で問題の解決ができればそれに越したことはない。総合的学習のプログラムの現状はそれを物語っている。余計なことはしたくない、のである。

(5)   生み出すべきものを想定しない「融合論」

   教育行政の理念上、学校と社会教育は紙の上では結婚している。協力して子どもを育てる事に誰も疑問を抱いてはいない。しかし、両者の実質的連携はほとんど出来ていない。学校施設を初めとして学校資源はほとんどコミュニティや放課後の児童の利用には提供されていない。はやりの「学社融合」論が意味のないうたい文句になっているのは、融合して何を生み出すかについての方針や展望を全く欠いているからである。学校と社会教育を「融合」すれば、他の先進国の事例からも、着地点は「コミュニティスクール」になる。しかし、中央行政には、コミュニティ・スクールに限らず、融合して「新しいもの」を生み出すという発想も、実践も存在しない。「融合」は空論にすぎない。したがって、県レベルの教育行政もスローガンだけが躍っているに過ぎない。

   学社の実態は、連携すらも可能ではない。学校と社会教育は、離婚、別居の危機に瀕してきたのである。「融合」論は、論理的な根拠の全くない空しい架空の話である。両者の結婚が、体験プログラムの推進を契機に見直され、名実共に充実する展望はいまだ感じられない。

(6)   学校の錯覚

   学校は教科教育の専門機関である。教科教育は家庭や地域社会では出来ない。専門家である教師集団にお任せするしかない。そこに学校の専門性と閉鎖性の原因がある。おそらく指導主事は教科指導を担当する授業の「名人」なのであろう。それゆえ、授業へのこだわりと教科教育の過度の重視が発生する。教科指導の授業が受け持つのは基本的に知識と考え方である。しかし、知識と考え方だけでは一人前は育たず、「生きる力」も育たない。授業だけで「生きる力」は育つはずはない。育つと考えているのであれば、現状の教育行政のように「生きる力」の概念規定が間違っている。子どもが、「問題を発見して、主体的に解決する」のが「生きる力」である、などという抽象的、恣意的な解釈を許す定義は具体性、現実性に欠けている。それゆえ、「定義」に基づいて指導計画は立てられない。立てた指導計画は恣意的な解釈でバラバラになる。総合的学習の実態がその証拠である。

   文科省の定義では、子どもの生活場面に即して何をどうすれば良いかが想定できない。想定するにしても各人の主観によって中身と方法がバラバラになるのは目に見えている。

(7)   授業「名人」の死角

   「生きる力」は社会生活の基本能力である。人が生物であり、かつ社会的動物である以上、体力と耐性が基本である。二つの土台を確立した上でなければ何一つ指導は出来ない。当然、授業も出来ない。学力や道徳性も大事であるが、生きる力の要素には「順序性」がある。教科指導だけで一人前が育つというのは、学校が陥り易い錯覚である。それは教科に囚われた「名人」の死角である。学社が連携した体験プログラムの重要性が強調されなければならない理由がここにある。総合的学習が意味ある体験プログラムにならない原因も「名人」の死角にある。

(8)   全員が「名人」にはなれない

   学校には限られた人材しかいない。指導主事は授業のあり方を教師集団に指導するが、授業だけで「生きる力」のすべてを向上させることは出来ない。同時に、すべての教師を「名人」の段階まで引き上げることも不可能である。それゆえ、授業にこだわり、授業を過信すれば、おのずと教育の方法においても、人材においても、学校の限界は明らかである。限られた人材ではその範囲の指導しか出来ない。しかも、全員が「名人」にはなれないのである。子ども達は極めて制約された人的、方法論的環境の中で成長することになるのである。地域の教育力とは、主として地域で行なわれるプログラムのことであるが、子どもが学習し、体得する源は、雑駁にいえば、プログラム半分、人半分である。優れた活動、優れた人に巡り会えば、子どもの可能性は一気に開花する。学校にも優れた人がいるが、そうでない教師もいる。同様に地域にも優れた人もいれば、そうでない人もいる。しかし、人的資源は地域の方が圧倒的に多い。母集団の大きさが違うからである。地域の資源を活用する方法を確立できれば、学校は一気にその可能性を向上させることができる。もちろん、地域が受け持つのは教科教育ではなく、体験のプログラムである。子どもを取り巻く限られた人材を補うためにも、学社の連携は不可欠である。

5   「感想」の感想

  以上の「感想の概略」を7月の「生涯学習フォーラムの企画委員会」で説明してみた。二人の元教員から別の次元の「感想」の感想が出た。結論は「学社連携」なんて今のままでは「無理よ!」ということになる。

  1. 組織としての学校も、個々の教員も「学社連携」などという四文字熟語はほとんど聞いた事もない。

  2. 教員時代には社会教育と一緒にやるなどと考えたこともない。「学社連携」という発想自体、自分達が社会教育に入って初めて聞いた用語である。従って、学校時代の同僚に話しても”それどういう事?”という反応が出るのがおちである。 

  3. 学校は日々の教科教育の準備と生徒指導、保護者対応で忙殺されている。自分達の知る限り、教員のほとんどは毎日9時、10時まで帰宅することは出来ない。教員は文字どおり疲れ切っていて、物理的ゆとりも、心理的余裕もない。このような状況では、学校に「学社連携」の思想や実践は入らない。教員の余裕を取りもどすことが先決である。

6   システム内悪循環

  おそらく学校及び教員の実態は、ふたりの元教員の指摘の通りであろう。しかし、教科教育に囚われ、生徒指導に追われ、保護者対応に疲れているのは、学校が自ら己の守備範囲を狭めて、そもそも子どもの「生きる力」が育っていないところに遠因がある。指導の基礎が培われていない時、あらゆる指導は不可能である。体力や耐性の育成に失敗すれば、学習の前提となる「構え」が整わない。学習の「構え」が存在しないところ学校が理想とする教科教育も、教員が想定した授業もできないのは当然である。以下は、システム内に発生する「悪循環」の一例である。

「体力と耐性は指導の前提」である→

「学校は専門機関として教科教育を重視するが、体力や耐性を格別重視することはない」→

指導の前提条件が整っていないので教科教育も実際には多くの困難に当面する」→

「体力と耐性は教科教育の学習では形成できない」→

「授業を頑張っても成果は出ない」→

「結果的に、あらゆる指導が困難になる」→

「学校は教科教育の準備に追われ、生徒指導に追われ、保護者対応に追われる」→

「教員は毎日遅くまで頑張っても追い付かない」→

「組織体としての学校も、個別の教員も時間と心のゆとりを失う」→

「『学社連携』などという余計な仕事に耳を貸さなくなる」→

「再び、子どもの体力と耐性を培う機会を逸する」

 かくして、学校システムの悪循環が続いて行くのである。

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