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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第43号)

発行日:平成15年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 学社連携−Paper  Marriageの行方

2. 「主人」は遅れているか?:言語の二重機能とカルチュラル・ラッグ −「符牒」と「符牒の意味」−

3. 『潜在光景』

4. 「生涯学習とグループ・サークル」(第36回生涯学習フォーラム報告)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「主人」は遅れているか?

 言語の二重機能とカルチュラル・ラッグ −「符牒」と「符牒の意味」−

   筆者が関わっているある町の男女共同参画の委員会で、複数の委員からある種の戸惑いと困惑が吐露された。別の町の方々との共同研修をしたあとの反省会の席であった。それは言語表現における「符牒」と「符牒の意味」を巡る古くて新しい問題である。筆者にも心当たりのある”戸惑い”であった。「呼び名」の慣習と「呼び名の意味」が乖離してしまった時、そこには文化的遅滞と言語の二重機能がもたらす葛藤が生じるのである。

 非難と攻撃

   「奥様」、「家内」、「主人」など男女共同参画の思想と相容れない表現がわれわれの日常にある。これらの用語に夫婦や男女関係の意味を求める人は、言葉の使用そのものを、「遅れている」、「分かっていない」と「目くじら」をたてる。男女共同参画の時代に「主人」とは何ごとか、というのである。意味の上では、確かに「男女共同参画」の理念に反している。しかし、実際には、これらの言葉を使用する多くの人々が、「遅れている」わけでも、「分かっていない」わけでもない。そうした言葉にこだわって、鬼の首でもとったように言い立てる運動論者よりは、地道に家族を変えようとしている真面目な「奥様」の方が遥かに優れた実践をしている場合もある。

   農業経営において男女の対等な「家族協定」を一生懸命推進して来た女性は、”いまだ「主人」と言っている”、と「目くじら」を立てられて面喰らう。非難は不快でもあろう。彼女にとって、「主人」は単に夫を表す「符牒」に過ぎないからである。言葉には意味を離れた「符牒」だけの機能もあるのである。

   「主人」も、「家内」も、夫や妻の符牒に過ぎないと思っている人は、それぞれの「呼び名」を語源に遡って使っているわけではない。だから、いちいち「目くじら」を立てられることに戸惑い、苛立つ。日常の人間関係の中で、これらの言葉を、格別気にしないのは、「符牒」に過ぎないからである。当然、「主人」と呼んだからといって、妻は夫に仕えて、言葉の意味を実践している分けではない。「家内」と呼んでいる夫達も、妻を家の中に閉じ込めているわけではない。

   もちろん、語源通りに、「主人」の意味を、「主人」と「従者」、あるいは、「あるじ」と「あるじに仕えるもの」の人間関係を表す言葉として解釈した場合、多くの「符牒」論者の妻は「納得」しないであろう。日常、妻は夫の「家来」ではないからである。「主人」は夫を表す「符牒」であって、現実の夫婦関係を表すものでも、あるべき夫婦関係を表すものでもない。「家内」についても同じである。現実は、家にいるどころか、「家外」であっても、「家内」は妻の符牒に過ぎない。「主人」も、「家内」も、語源の意味を付与しないかぎり、本人にとって「符牒」に違和感はないのである。

   この世が難しいのは「呼び名」を「単なる符牒」として使っている人と、「呼び名」の意味を価値付けして使っている人が同時に存在することである。言葉には、もともとの語源があり、そこから解釈される現代の意味・価値がある。それゆえ、どんな言葉にも「意味」があり、どんな「符牒」にも一定の価値付けが可能である。従って、意味にこだわる人は使用する日々の「呼び名」や「符牒」にこだわるのである。

 

言葉と行為

   「呼び名」には「意味」があり、「意味」には「価値」が付与されている。「呼び名」の意味や価値を重視する人は、「呼び名」は単なる「符牒」ではあり得ないと主張する。おそらく、実際には、「呼び名」に意味を込めている場合と意味には関係ない場合の両方がある。それゆえ、現実の対応は決して簡単ではない。「意味」論者は「符牒」論者を認めない。確かに、あらゆる「言葉」が政治的意味を持つからである。ビルマの民主化指導者;アウンサン・スー・チーが自分の国を「ビルマ」と呼び、その首都を「ヤンゴン」ではなく、「ラングーン」と呼び続けるのは、「呼び名」に意味をこめて、ミャンマーの軍事政権に抵抗と不服従を表明しているからである。

   表現に対する「めくじら」や「反発」は、そもそも「呼び名」が作られた時の語源の意味に対する反発である。当該の「呼び名」を使用することは、「呼び名」の語源の意味を承認していることであると直接的にしか理解しないからである。思想にこだわれば、すべての言葉に思想を読もうとする。そこから時に「言葉狩り」が始まる。「意味」論者にとっては、問題の「呼び名」や「言葉を使うこと」が「侮蔑」や「差別」と同じことになるからである。他方、「符牒」論者からは、当然、攻撃的で、非難を込めた「言葉狩り」に対する反発が出る。単なる符牒に特別の「意味」は付与していない。意図しない事をあたかも意図したかのように言われるのは心外である、という事である。「主人」と呼び慣わしていたとしても、単なる「符牒」である。家来のように仕えているわけはない。いちいちこだわって、馬鹿馬鹿しい!、という反発である。

   「符牒」論者に対する攻撃や非難は、攻撃された当人を苛立たせる。苛立ちや反発は本来の理念や思想を浸透させるのにマイナスである。しかし、言葉の意味にこだわって、用語そのものを敵視する運動論者は納得しない。言葉は本当に難しい。

   行為の変更を求めるよりは、言葉の変更を求める事は相対的に簡単である。それゆえ、安易に「言葉狩り」に走るのであろう。しかし、どんなに問題の言葉を狩り出して禁止しても、人間の感性や思想は最終的に行為によってしか変わらない。言葉を変えるだけで差別的な行為を変える事ができるのであれば何よりであるが、そんな手品のような事はできる筈がない。差別的な言葉を使わない人間が、差別的である事は可能であり、新しく改められた差別的でない言葉を「侮蔑的」に使うことも当然可能である。言葉と行為は一致する場合もあるが、一致しない場合もある。理論と実践は原理的に異なったものである。男女共同参画もまた、「言葉」よりは「行為」、「言葉」よりは、「人々の参加」や「システム」を変えることである。言葉はその言葉が作られた当時の時代を引きずっている。したがって、「意味」の上で問題のある言葉は沢山残っている。しかし、文化的遅滞(カルチュラルラッグ)を引きずった言葉は、「行為」と「制度」の改革に合わせて、気付いたところから徐々に修正して行くしかない。性急な「言葉狩り」を行なえば、みんなが沈黙する。しかし、人々が沈黙したからと言って平等が実現したわけではない。委員会の方々と付き合ってみた限り、戦闘的な「ジェンダーフリー」論者に比べて、「主人」や「家内」がすべて遅れて、分かっていないわけではない。

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