HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第37号)

発行日:平成15年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. ある小学校への提案(1) 保護者調査 −「どんな子どもに育てたいか」

2. 保護者調査 −「どんな子どもに育てたいか」 続き

3. 保護者調査 −「どんな子どもに育てたいか」 続き

4. 第31回生涯学習フォーラム報告 「小学生を対象とした英語教育」

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

31回生涯学習フォーラム報告 「小学生を対象とした英語教育」

   今回のテーマは最近あちこちで始まった小学生の英語教育を取り上げることになった。国際化とグローバリゼーションの大波は、保護者の意識を変えつつある。10年後、15年後の子ども達は、地元就職はもとより、国内就職も覚束なくなることは、周りを見ていれば分かることである。世界に出て行かなければ成らないとすれば、世界語となった英語は不可欠である。わが町の英語学校には数百人の児童生徒が学んでいるという。子どもを思う保護者の切なる願いこそ驚くべき洞察力を伴っている。

こうした状況に背中を押されて、学校も社会教育も小学生を対象とした英語教育をスタートさせているわけである。  

  第1事例の発表は福岡県瀬高町で、「国際社会に「生きる力を育む教育活動の創造」を目標に「英語活動」を通したたくましい「南風っ子」の育成に取り組んでいる瀬高町立南小学校の実践をお聞きした。発表者は同校の馬場英二さんと猿渡邦彦さんである。第2事例は、福岡県教育委員会生涯学習課が実施した「地域ですすめる子ども外国語学習の推進」事業に関わった池田博文さんと事業の一部を受託した英会話学校NOVAの大阪本社から中島善成さんのお二人である。論文参加は「巨大な浪費・巨大な徒労−学校英語は変えられるか」(三浦清一郎)である。

1   最先端の実践

   社会教育総合センター事業課のお骨折りで今回も最先端の事例発表を聞くことができた。瀬高町の南小は学校教育の事例、他のひとつはNOVAが委託を受けた社会教育事業である。もちろん、研究の焦点は日本の英語教育は機能するか、の一点である。二つの発表を聞いていると、日本の英語教育は変わったのではないか、と錯覚に陥る。それはわれわれが体験し、われわれの子どもが体験した英語教育とは方法、考え方において根本的に違っていたからである。

   瀬高町の場合もNOVAの場合も、英語はコミュニケーションの手段である。したがって、コミュニケーションを形成する要素を重要視していることはいうまでもない。コミュニケーションの80%は非言語的なコミュニケーションである、という中島氏の発言がそれを象徴している。瀬高町の場合も「英語学習」とは呼ばない。「英語活動」と呼ぶ。基本は活動なのである。ところが、中学校も変わって行くのでしょうか、という質問に対しては両者とも歯切れが悪い。小学校英語のあり方が従来の中学以降の英語教育に影響を与えることはあるとしても、方法を一変するような影響とは思えない。相変らず中・高はもちろん、時には大学の教員でさえ、英語の授業を英語だけで行なう能力はないであろう。そうなればNOVAのいう「ダイレクトメソッド(英語のみで行なう教授法)」は願うべくもない。

2   教科調査官の説明矛盾

   瀬高町南小学校の参考資料の中に偶然、南小の研究大会を指導した宮崎大学の影浦氏の説明冊子(*)があった。影浦氏は前文科省教科調査官である。注目すべきは影浦氏が要約する中学校英語と小学校英語のアプローチの違いである(p.2)。小学校英語は瀬高やNOVAが目指した方向である。すなわち、理念的には、遊びを忘れず、音声と身近な生活を素材として楽しむことであり、方法としては身体を使って遊びに訴える。内容的にはゲーム感覚で、子どものニーズを教材化する、というのである。ところが、中学校へ行くと一変する。理念的には、系統性を中心とし覚えること、音声には文字を加えることとなる。したがって、方法は知に訴えて、説明やドリルが中心になる。内容は、ご存じ学習指導要領が定める覚えるための言語活動になる、というのである。なぜ、一変するかの理由は説明がない。小学校の英語は、影浦氏も「英語活動」と呼ぶ、しかし、中学英語を「英語活動」とは呼ぶまい。しかも、影浦氏によれば、「英語活動」の目的は、「子どものやる気をおこし」、「英語嫌いを作らない」(p.1)ことにあるという。それが正しいとすれば、「英語活動」と訣別する中学英語はこの両方が期待できない。影浦氏は自らの説明の矛盾に気付いていないかのようである。また、残念ながら、現行の中学英語のやり方で日本人が英語コミュニケーション能力を育てることが出来るか、否か、についての影浦氏のコメントはない。英語教育を担当して来た行政の責任者としてコメント出来るはずはないからである。何よりの証拠は、学校英語によって学んで来たわれわれ日本人のコミュニケーション能力の現状である。

(*)影浦 攻、福岡県瀬高町立南小学校研究発表大会(2002年11月8日)資料「小学校における英語活動のねらいと進め方」、p.1-2

3   NOVAの提案

   NOVAの提案は明快である。英語教育の目的は「コミュニケーション能力の育成」、方法上の目標は「楽しい、生きた外国語学習」である。したがって、講師は外国人講師を採用し、指導法は英語のみで行なう「ダイレクトメソッド」である。この時英語は「手段」である。外国人講師の意義は子どもの吸収力、模倣力の特性に注目している。特に発音である。外国語コミュニケーションの体験を重視し、コミュニケーションの姿勢を育てようとしている。何故なら、言語によるコミュニケーションの土台は、非言語によるコミュニケーションであり、さらにはコミュニケーションの積極姿勢であるという基本認識に立っているからである。言葉を学ぶ順序は、英語であろうと日本語であろうと基本的に変わるはずはない。NOVAはその順序性を指導の中に取り入れている。当然のことである。順序は次の通りである。

「見る」→「聞く」→「まねる」→「使う」→「話す」→読む」→書く」→「文法」の順である。(*)日本の英語教育界は、なぜこれほど単純明快な原理が分からないのか?

(*)  中島善成、(株)NOVA、社会教育事業としての小学生対象異文化体験プログラム、p.2-5

4   巨大な浪費

   英語を学ぶ目的が話す能力(コミュニケーション能力)の開発であるとするならば、日本の英語教育は明らかな失敗であろう。それは、何年にもわたって日本の英語教育を受けて来た私たち自身が証明している。 英語のコミュニケーション能力が育たない原因は単純である。正しかろうと、間違っていようと英語を使わないからである。

   学習者が習った英語を使えない以上、現行の学校英語教育は誰が見ても成果を生んでいない。換言すればコスト(費用)とべネフィット(効果)の対比があまりにも低いのである。それを社会的浪費という。浪費とは意味のないものに資源を投入することである。投入した時間と資源に比して、学校の英語教育はほとんど成果を上げていない。それは社会にとって巨大な浪費であり、個人にとって巨大な徒労である。浪費と徒労を回避しようとすれば、現行の学校英語を廃止するしか方法はない。

5   キーワードはコミュニケーションの道具:−『Communicative Approach』−

   数ある参考書の中で東後の指摘がもっとも論理的である。彼の結論は、道具として英語を使うのであれば、「使うこと」から始めるべきである、という。これまでの英語教育は「知識」から始めたことに最大の誤りがあったと言うのである。東後によれば、「覚える→練習する→使う」という過程は一見論理的であるが、人間の本性を見落としている。知識は簡単に実践には結びつかない。英語教育は、「使う=練習している=身に付く」の論理で行なうべきである。(*)上記の引用で「矢印」は「順序」を示し、「等記号」は「同時進行」を示している。言葉の習得に於ては、使うこと」と、「練習すること」と「身につくこと」が同時進行すると言うのが東後の画期的視点である。日本はこの簡単な誤りを100年以上にわたって続けて来たのである。知識から始めるから、「正しい知識」と「間違った知識」に分けることになる。「間違った知識」には×をつける。学習者は「間違えること」をひたすら恐れるようになるのである。そこでは使えるか否かより、正しい知識を有しているか否かだけを問題にする。学習者は一方で畏縮し、他方で学んだ知識を実際に使うことは出来ない。東後の分析は明快であり、誠に同感である。

(*)  東後勝明、子どもの英語いま、こんなふうに、BL出版、1998年、pp.13-16 

6 子どもの英語の最大の危険

   日本人の英語学習の最大の難所は二つある。ひとつは「楽しみ」、他のひとつは「発音」である。「楽しみ」は受験英語が初めから殺してしまう。ひたすら間違えることを恐れ、コミュニケーションのためではなく、知識のため、試験のための学習が楽しい筈はない。第二の鬼門は聞き取りである。聞き取りが出来ないことは、発音が出来ないことに直結している。それは50音の言語の宿命である。

 それゆえ、聞き取り能力の最大の問題は、ヒアリングの能力を開発する幼少期の環境である。中学生の多くはすでに曖昧母音の音を聞き分けることは出来ない。こと、発音の習得に関しては、小学生から始めることが望ましいのはいうまでもあるまい。しかし、問題は日本人教員である。50音の発音しかできない日本人教師に習うのは致命的な失敗である。教師の側もまた幾つかの音を聞き分けることが出来ず、当然、発音することも出来ない。日本人中高年の英語の現状を見れば明らかであろう。子どもの英語教育は英語の発音のできる外国人教員によらなければならない。話す英語に重点をおくならば、ポイントは、楽しみとヒアリングと発音である。東後は英語学習の観点から子どもの特質を次のように要約している。東後はこれを「天性」と呼ぶ。天性を英語学習に活用しない方はない。

⑴   子どもは素直

⑵   子どもは耳が敏感

⑶   子どもは物まねの天才

⑷   子どもは恥ずかしがらない

⑸   子どもは好奇心のかたまり

⑹   子どもは人の言葉をよく聞く

⑺   子どもはすぐに行動に移す

⑻   子どもは身体で覚える

⑼   子どもは外国語を意識しない

⑽   子どもはくり返しを嫌わない(*)

(*)  東後勝明、子どもの英語いま、こんなふうに、BL出版、1998年、pp.20-21

7   根本解決

   教員の失業問題や大学の学部の改廃の問題など、社会的問題を一切考慮せずに言えば、改善のための答は簡単である。少なくとも、初めの数年間の英語授業をすべて外国人教員にまかせ、すべての指導を英語で行なうことである。それだけの覚悟が国際化時代の日本にあるか、ここでもまた政治のリーダーーシップが求められる。

*  参加論文:「巨大な浪費・巨大な徒労−学校英語は変えられるか」(三浦清一郎)は若干の予備があります。ご希望の方は90円切手を同封の上、事務局までお知らせください。

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002, Seiichirou Miura ( kazenotayori@anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文等の転載についてはこちらからお問い合わせください。