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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第36号)

発行日:平成14年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「危機」を「危機」としない −2002年の総括−

2. 「武器」としての概念

3. 365キロの日課  −生涯スポーツの効用−

4. 第30回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「危機」を「危機」としない −2002年の総括−

   5年先は予測できない。変化は急流のごとき勢いである。にもかかわらず教育界の変化は遅い。生涯学習は立国の条件にかかわるのに、 そのことの自覚も薄い。日本を支えて来た「終身雇用制」が変化を妨げていることは明らかである。大学から幼稚園まで、労働者派遣法を 適用して契約雇用を可能にすれば、すべてが一変するはずである。やる気と能力を認知するためにはそれ以外の方法はない。しかし、自らの 組織の構造改革を教育界自らが実施する筈はない。別稿において「外からの改革」、「上からの改革」を論じた所以である。「危機」を「危機」として 認知しないことが日本の特徴であるとウォルフレンは警告した。すでに10年も前の事である。以下は、2002年に論じた事柄の一部である。

1   ボランティアの時代に活動の舞台を作れないボランティア論

    日本のボランティア論は、活動に「労働の対価」を求めないという理念を、「無償性の原則」として紹介してきた。 「無償制」は「ただ」と置き換えられた。それゆえ、ボランティアは「ただ」だという理解が蔓延してしまったのである。通常、 受け入れ側や第3者が「活動経費」を準備するボランティア活動は、「有償ボランティア」と呼ばれる。実に単純な論理の錯角 である。第一、「有償」ならば、それは「ボランティア」ではない。「有償」とは「無償」の反対、即ち、「労働の対価」を 求める事だからである。「活動経費を保証するボランティア」は、決して「有償」の活動ではない。「礼儀正しい」ボランティアの 依頼である。ボランティア活動に限らず、どんな人間の活動にも、活動の経費と時間とエネルギーが必要になる。活動は「ただ」では 出来ない。仮に、一時はできても継続は難しい。「活動の負担」に耐えられず、挫折したボランティアの多くは「チョイ・ボラ」と 揶揄される。挫折の大部分は、ボランティアに期待する関係者が、経費を含めた「活動の必要条件」に配慮してこなかったことが主要な原因である。
  ボランティアは「ただ」であるという浅薄な理解は、挫折者への配慮も、反省も ない。恐らく、依頼する側は自らのボランティア体験もない。特に、社会福祉や生涯 学習関係者の配慮の欠如は、この国のボランティアを窒息させ、その精神の浸透を大い に妨げている。労働の対価は払わなくても、活動の経費を払わなければ、この国のボラ ンティアは成り立たない。「ただ」でやって欲しい、と社会が個人の善意だけに” 甘ったれれば”、ボランティアが生活に余裕のある富裕階層の特権になってしまうこ とは明らかである。

2   「体得」を忘れた少年教育

  問題の根本は、学力の大部分は「学習」が可能であるが、「生きる力」の多くは
「体得」せざるを得ない、ということである。
   それゆえ、「生きる力」の要素は「学力」を除いて、体力も、耐性も、道徳性も、感受性も、論理的に「学習」するものではない。身体的、感覚的に「体得」するものである。それゆえ、学力の教授を専門として来た学校にとっては苦手な分野である。学力の大半は授業と演習で学習することが出来るが、「生きる力」の残りの要素は論理的な学習のみでは学ぶことが出来ない。「体得」することが不可欠である。
   体得するためのプログラムの基本は「体験」である。「学習」と「体得」の質的な違いを余り吟味せずに、体験と学習をくっつけて「体験学習」と呼んだことが混乱のはじまりである。「体験学習」という表現ではあたかも「体得」と「学習」が同じであるかのような誤解を招きやすい。「体験学習」は体験を通して「体得」するという意味であるから、正確には「体験体得」(体験を通して、肉体的・感覚的に理解する)でなければならない。「体得」を司る器官は、文字どおり、全身全霊、肉体の全部である。これに対して、「学習」は頭脳が司る。学習の大半は頭で理解することである。現代の子どもが頭でっかちで、実行力を伴わないのは、「学習」ばかりしていて、「体得」していないからである。野外教育のような体験を基本とした学び方が必要になる理由がここにある。

3   全員主義の陥穽ー「一律主義」の矛盾

 一律主義は、町内会に始まり、PTAや子ども会に見られる。「役員の回り持ち」シ ステム、奉仕作業や貢献活動の「順番負担」制度と同じ発想である。「今日の草取り に来ていないのはどこだろう」などと聞こえよがしにいうのは、「全員参加の空気」 が不参加者を恫喝しているのである。共同体行事のほとんどの役割分担が順番であり、「まだ役をやっていない人は誰か」、と言って次なる当番を探し回る文化は、その役割を果たせない人にとっては、さぞ肩身のせまい、辛いことであろう。「一律主義」、 「一斉主義」、「全員参加」の文化を信じて疑わない人々は、正しいことをやっているつもりでも、時に、残酷なのである。全員ボランティアはボランティアではない。 教育活動はいやいややるならやらない方がましの場合が多い。「一律主義」の文化には、考え直すべきことが山積している。

4   教育の迷信

  学校教育法は株式会社に学校の設置を認めない。理屈の上では、利益を教育に再投資する保証がないとか、株主の意向で教育が左右されるなどというものであろう。しかし、ことの根本は、教育行政が、株式会社は信用出来ない、あるいは、株式会社に教育は出来ないという世間の「迷信」を作ったに過ぎない。株式会社の参入を拒む理由とされている、「教育への再投資」にしても、株主の意向による「教育内容の変更」にしても、法律をもって運営方法に条件をつければ済むだけの話である。
   実際問題、予備校は教育をしているのではないのか?語学学校は教育をしているのではないのか?塾は教育も保育も担当しているのではないのか?しかも世間の評価を得て、存続が可能になっているのではないのか?これらはすべて民間の教育活動であり、時に株式会社の教育活動である。指導者に対する学習者やその保護者による評価は厳しい。運営についても、おおやけの予算も、補助金もなく、「親方日の丸」の安逸からは遠い。経営努力の点で、恐らく既存の学校は私塾の足下にも及ぶまい。

5   男女共同参画推進施策の錯覚

   佐賀県神埼町は「子ども条例」を制定した。「女性」の子育てを支援して今より相対的に楽にして上げたいというのが主たる動機である。もしそれが少子化の防止策を想定したものであるなら「条例」は大きく「的」を外している。発想は、小泉内閣の保育政策と類似している。保育所の待機児童を無くせば少子化が止まるというような単純な話ではない。
   政策が的外れになる理由は単純である。「嫁不足」の解消も、「少子化」対策も、女を「楽にする」事がポイントではない。女性は別に苦労を厭っているわけではない。男性が「苦労を分かち合わないこと」が問題なのである。男と女が「対等に暮らす」事がポイントである。現状の女性が、かならずしも参画する意欲や能力を持ち合わせていないのは、役割も責任も与えられたことがないからである。試しで良いから、国は期限を区切って、各種「委員会」の男女比を対等にしてみたらいい。女性の意見が多くの政策に浸透するはずである。DVの男達も、女性への「接近禁止」などと言う生温いことをやらずに、刑務所へ1〜2年放り込んで見ればいい。論理的には実に簡単なことであるが、男は自らを優位に置く既得権を手放さない。神埼町議会も男支配なのであろう。的を外したのはそのためである。

6   教育の選択制

   あらゆる選択制にはコストがかかる。副作用も予想される。教育の場合には「生涯学習格差」の発生である。しかし、選択制のメリットが平等に行き渡らないということをもって、選択制を否定することは出来ない。問題は、機会の公平と選択の自由を取るか、それとも格差の拡大に繋がるものはすべて拒否するかである。かたくなな結果の平等主義が日本の教育を窒息させて来たことはすでに明らかであろう。結果の平等を前提とすれば、多様性も、個性も、能力ですらも、否定せざるを得ない。
   すくなくとも、学校選択の制度は、現在の学校を否定するものではない。子どもの就学権は当然保証されている。制度改革の目的は、現在定められている学校に加えて「より良い」選択肢を増やすことである。通学という選択コストの負担の故に、不幸にして遠い学校を選ぶことができない子どもが残念であろうことは言うまでもないが、現在の条件を失うものではない。難しい問題を残すが、完璧な制度は存在しない。


7   痴呆と人権
   精神の衰えぬ高齢者が、自己決定・自己責任の重要性を主張すればするほど、それが不可能な痴呆老人は人間から遠くなる。「主体性」こそが人間の証しだという時、「主体性」を失った痴呆老人は人間の証しを証明できない。赤ん坊の場合は、いずれ近い将来、自らの意思を持つであろうという想定のもとに、その人権に「距離感」を持つ者はいない。しかし、痴呆の老人は今後自らの意思を持つであろうと想定する事が難しい。何が「人間の証し」かを問う時、意思を表明できない人間に対する共感が遠くなる。痴呆老人に対する虐待の根源はそこにある。


8   高齢者の「生きる力」ー「厄介老人」の増大を止める方法

   「定年」は活動と元気の関係をひっくり返す。定年は高齢者から活動を奪い去る。「労働」という特別な形態の活動を奪い去るのである。しかも、現状では、定年者の多くが、「労働」に代わる新しい「活動」を自ら発明するに至っていない。活動の不在こそが熟年に危機をもたらすのである。この事実に注目すれば、高齢者のための生涯学習政策の根拠が明らかになる。高齢者の生涯学習は、「学習」より「社会的活動」が先である。活動を始めれば、必ず学習や交流の必要が生じるからである。それゆえ、高齢者に対する生涯学習政策の力点は社会参加プログロムの拡充でなければならない。地域の教育力とは、高齢者が社会的に活躍できる「活動プログラム」の拡充にある。ゲートボールや趣味の老人大学から出発した高齢者教育は、その原点において、大きな誤りを犯したのである。
   生涯学習はいまだ未熟である。それゆえ、活動のメニューは少なく、魅力もない。特に高齢者の活動メニューは市民の生活に浸透していない。しかも、活動も、学習も、個人の選択が原理である。選ぶ自由もあるが、選ばない自由もある。豊かな社会は基本的に「パンとサーカス」の魅力が豊かな社会である。日々の選択肢は多いのである。衣食住の贅沢と遊びの豪華さが人々を引きつける。現状の生涯学習プログラムの多くは、二次選択、三次選択の対象としかならない。結果的に、生涯学習を選択する人々は少なく、「元気老人」の道を選択する人も少ない。「少年老い易く学成り難し」に倣って言えば、「高齢者衰え易く、活力保ち難し」である。
   

9   教育的に配慮した「文明の欠如」ー「貧乏」という名の先生

   昔は「貧乏」という偉大な教師がいた。必ずしも各家庭がしつけの重要性を分っていたわけではないかも知れない。親も、必ずしも、自らが行なうしつけや、社会生活上の指導を自覚的に行なっていたわけではないと想像できる。子守りも、手伝いも、倹約も、がまんも、みんな「貧乏」という名の先生が教えたのである。それらはすべて、貧しい生活の中の必要条件だったのである。 
   野外教育は原始的生活の人為的な企画である。換言すれば、「貧乏」という名の先生の復活である。原始的生活を構成する要素は、自然であり、欠乏であり、不便であり、不衛生である。換言すれば、文明の欠如である。それゆえ、3度の食事をして、その日を無事に過ごすためには、団結して働かねばならない。ましてや、自然を快適に過ごすためには、秩序ある労働が不可欠であり、臨機応変の工夫が不可欠である。集団で行なう野外活動であれば、あらゆる点で、協力と役割の分担が不可欠である。野外教育のプログラムは巧まずして「自然」接触の体験を含み、「勤労」の体験を含み、「がまん」の体験を含む。
   集団の構成や活動内容に工夫を加えれば、異年齢集団の体験も、協力や責任を学ぶ社会参加の体験も、肉体の鍛錬も含めることが出来る。要するに机上の議論や教室の知識で野外活動は出来ない。野外教育が体験の缶詰めであるとはその意味である。

10   「筋肉文化」

   労働と戦争を、主として筋肉に頼らざるを得なかった「筋肉文化」の時代は、圧倒的に男が優位を保った時代であった。かくして「筋肉文化」は「男支配の文化」である。それゆえ、出発点は軍事と農業である。「筋肉文化」は、軍事と農業を経て、商業、工業、サービス業等々にまで引き継がれ、社会の文化となったのである。「男女共同参画」理念は、「筋肉文化」すなわち「男性優位文化」の修正を求めている。それゆえ、これまでの特権を失うのは言うまでもなく男である。日々の暮らしにおいて譲らなければならないのも圧倒的に男である。損をするのは男に決まっている。
   女性の社会参加とは、農業委員の会議も、社会教育委員の会議も、その他諸々の男たちが仕切ってきた会議も、論理的に半分は女性に譲るべきだ、という話である。「女子は半天を支える」からである。それゆえ、男にとって男女共同参画社会は”得”であるはずがない。「男女共同参画」が男にとって”得”であるなら、講演会でも会議でも、男の「行列」ができよう。見るがいい。女性の社会参加や男女共同参画の講演会に男性がいた試しは無い。時々見かけるのは担当の公務員や、委嘱状を貰ってやむなく座っている委員のような義務的参加者に決まっている。
 

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