「求道者」と「認識者」
上記の表現は尊敬する詩人・作家の伊藤 整の評論集のタイトルである。久々にこのような表現を思い出した理由は読者からいただいたお手紙が切っ掛けである。先月号、福岡市の松田さんへのメッセージに、世の中には腹の立つことも多いが、われは「静観」あるのみ、と書いた。折り返し、松田さんからきついお叱りをいただいた。「風の便り」や「生涯学習フォーラム論文」によって己の考えを言ったり、書いたりする以上は、みずからもその所信に従って行動せよ、という主旨である。原理的に一言もない。
”口では大阪の城も立つ”
昔話を始めるのは、「精神の固定化」が進行している証拠であるが、読者に叱られて、若かった頃の自分を思い出した。お許しいただきたい。
大学院時代のことである。論理的に胸の内の苛立ちの説明は出来なかったにもかかわらず、当時の筆者は教育学の曖昧さ、実証性のいい加減さにうんざりしていた。アメリカへ行って専攻を変えたのは教育関係者に対する当時の不信感が理由である。特に、学校教育を担当していた教授の具体性を欠いた、情緒的、主観的、希望的レトリックには呆れることが多かった。論理を重んじないから、結果に対する見通しは甘く、イデオロギーに偏った現実診断はほとんど不誠実に近かった。学期の終わりにレポートが課されて、私は、若気の至りで、”実存的武士道”というテーマの小論を提出した。
参考資料には「赤穂浪士」や「葉隠れ」を読んだ。「いう」と「する」とでは天と地の隔たりがある。講議で聴いた教育論では、何も変わらず、何をどうするのかさへ不明である、と書いた。怒った教授から呼び出されて、”不真面目である”と叱られた。”どこが不真面目でしょうか”と開き直ったら、講義に関係のないタイトルが不真面目である、ということであった。”タイトルは変えますが、中身は変えるつもりはありません”と言って帰って来た。落第はしないで済んだが、以後、イデオロギーに偏った”講釈師”は一切信用しない。明治生まれの筆者のおやじは実学を重んじた。口癖は”口では大阪の城も立つ”というものであった。父は「口ばかり」をいたく憎んだ。その思いは筆者にも文化的に遺伝している。大抵の教育学よりはおやじの一言の方が核心を付いている。松田さんのお叱りが辛いのはそのせいであろう。
「マスカット読書会」
教授と悶着を起こした話がどこかから伝わったのであろう。ある日、2年うえの博士課程にいたふたりの先輩が尋ねて来られた。意気投合した私たちはそのあと5人の仲間が集って、「マスカット読書会」を創設した。マスカットは札幌の駅前のビルの地下にあった喫茶店の名前である。私たちの貧しさに同情したのであろう。ウエイトレスは、店の片隅で議論を続けるむさくるしい一団を追い出すこともせず、あれこれとても親切であった。振り返ればなつかしい風景である。
私たちが論じたのは、一言でいえば、どうしたら優れた認識者になり、その認識をもとに行動者足りうるか、ということであった。沢山の本を読んだ。各人持ち回りの報告をもとに、侃々諤々さまざまに論じた。今思えば教育学はほとんど素材にはならなかった。しかし、何を論じたところで、現実の自分達には、金もない、地位もない、いまだ学問の力もない。何一つ実行出来ないのは火を見るより明らかであった。
「志」だけはあったが、実行力はなかった。行動者たらんとして、あまりに突き詰めて考え、煩悶の末、自分に絶望する先輩もでた。正論を突き詰めることの危険を学んだのはこの時である。
抽象的な「愛」
若かった私たちには「使命感」があった。人間も愛していた。社会につくし、天下国家の為に働きたいと切に願っていた。しかし、今思うと私たちが考えていた人間も、社会も、極めて抽象的な存在であった。人間は正論通りにはいかない。社会も猥雑なものであった。認識が行為に至る道筋はいつも紆余曲折している。人間の行動に嘘が多いことも思い知った。歴史書を読み始めたのはその「紆余曲折」を再認識するためであったろう。今の自分は紆余曲折の悲哀は身に滲みて分っている。単純に言えば、世の中、正論が通るとは限らない。必要なことが実行できるとも限らない。人間社会が尽くすに値するか否かも定かではない。人間はわがままで、時に勝手である。自己の利益の為に大勢の利益を踏みにじり、現在の利益の為に、将来の重大事を否定する。見てみぬ振りは子ども時代から始まる。
これらの事実に耐えるためには、時に、認識者にとどまって、行為に距離を置かなければならない。聖書が指摘するように、生まれるにも、死するにも、事がなるのも、ならぬのも、物事には「時」があるのであろう。
書くことはささやかな行為であるが、今の自分には書いたことの実行は出来ない。講演もささやかな行為ではあるが、講演したことの実行はほとんど出来ない。筆者はすでに行動者としての条件を捨てたのである。認識者として留まる以上、お叱りは甘んじて受けなければならない。「マスカット読書会」をもって始まり、大学改革の挫折をもって、わが求道者の季節は終わったのである。 |