「感受性」は教えられるか? 感情の教育可能性
筆者は「感受性」を人生の「実力」の構成要素のひとつとして考えて来た。「感受性」こそが人間関係を維持する上での基本的機能であると考えたからである。より広い概念で言えばEQと呼んでもいい。「感情値」と呼ばれる人間関係調整の能力である。
このたび長崎県西有家町の嶋田惣二郎さんからメッセージカードのご意見が届いた。筆者が主張してきた人生の「実力」の構成要素の内、「体力」、「耐性」、「道徳」、及び「学力」は教育・指導の対象と成り得ても、思いやりや、やさしさや、共感能力を支えるベき「感受性」は果たして教えられるものか、という疑問である。
なるほど、60年の人間観察を振り返っても、人の性格はその多くが生まれつきのものが多い。「感受性」の問題も基本的には「体力」と変わらない。「体力」の基本は、もって生まれた資質や潜在能力の問題である。どんなに修練を積んでも、筆者に100メートルを10秒で走るのは無理である。その意味では、「感受性」も、また、生まれついたやさしさや感性は争えないものがあるであろう。しかしながら、体力も、感受性も、先天的にその発達可能性が決定付けられていると同時に、後天的に開発した技術や、行動様式や、表現形式の成果を無視できる筈はない。教育の可能性の問題は常に、先天的資質と後天的に行なわれた開発成果の比重の問題に帰着する。要は、どこからどこまでが、生まれつきで、どこからどこまでが社会化の成果なのかということである。。気の強い子どもは、誰に教えられることなく、初めから気が強
いのである。負けず嫌いも同じである。反対に、やさしい子どもはいつも他者のことを思いやる。共感の情に富んだ子どもは、難無く勝負の勝ちを相手に譲る。相手になり切ってもらい泣きをしたり、共に喜んだりする。誰かが教えたわけではない。本人が自覚的に学んだとも思えない。
通常の教育を受けてきた筈なのに、あるいは、通常の教育を受けてきたが故に、大人になった後も、人の性格には時に”ダメだ!こりゃ!”、と考え込んでしまうことも少なくない。それは、教育のせいなのか、それとも生まれつきなのか、よく分からない。いじっぱりや、強情や、短気や、心配性や、のんびりやや、明るいのや、暗いのや、しつっこいのや、淡白なのや、誠に、性格は人さまざまである。自己中心的な性格の人には、論理が全く通じない。自己中心的にしか物事を見ることのできない人に、相手の立場からものを見たり、客観的にものを見たりすることを提案しても、その提案の意味がお分かりにならないのである。その時の自己中心性も、学んだ行動様式なのか、自分を中心にしか考えられない性格なのか区別は難しい。人生の過程で願わくば会いたくない人々であるが、実際には、そうは問屋が下ろさない。
補足修正の可能性
体力の開発・訓練は先天的資質の補足修正を目的としている。感受性の開発・訓練も、論理的帰結は同じである。両者とも、先天的な資質の影響は甚大である。嶋田さんのご指摘の通りである。しかし、同時に、教育的努力の成果も重大である。むかし、孔子の高弟子路が、南山の竹は巧まずして直ぐなり、なぜ教育が必要になるか、と質問をしたという。孔子は、かたわらの竹を切って、その切り口を子路に示し、教育だけがこの切り口の鋭さを作り出すことができる、と答えたという。体力も、感受性も、初めからまっすぐな竹に似ている。しかし、竹に鋭い切り口を作ることができるように、やさしさに実行力を与え、共感能力のある子どもにリーダーシップを育て、思いやりの心に表現形式を整えることができる。そのために教育は欠かせない。行動様式や表現の形態を身につけることによって、子どもは己の先天性に一層の磨きをかけ、その足らざるところを補うのではなかろうか。教育によって感受性のすべてを育てることは到底出来ない。しかし、補足修正の可能性はある。資質の開発可能性は教育が決定する。島田さんの疑問への感想である。 |