「みんな一緒」の副作用ー『一律主義』文化の心理的圧力
福岡県久留米市で行なわれた公民館関係者のパネルディスカッションで司会を務めた。多くの有益な意見が出され、優れた実践の紹介があったが、筆者はある一点に引っ掛かって、帰途の電車の中でもずっと考え続けた。一言でいえば、それはわが国の「気兼ね文化」である。日本社会の「一律主義」が、さまざまな心理的圧力となりうることは、現象的に色々な具体例を知っていた。しかし、不覚にも、生涯学習との関係で、この問題に注目して、深く考えることはなかった。
「保護者も汗をかいて!」
ディスカッションのテーマは「地域で子どもを育てよう」という趣旨のものであった。ご多聞にもれず、討議の方向は、公民館、学校、PTA、社会教育行政の4者が協力体制を整えて取り組むには何をどこから始めるか、という展開になった。すでにある地域では、学校と地区の公民館が相互に連携して、様々な「協働」の試みが行なわれていた。公民館長は「これは、と思う地域の人材」に直接、協力依頼の交渉をしています、と胸をはった。子どものために「腕を貸して」と熱意を持って依頼してみれば、大抵の方はよろこんで引き受けてくれるという。それはそうであろう。日本は「子宝」の風土である。「子どものため」と言って、「学校が頭を下げたら」、住民も張り切らざるを得ない。学校の側も、三つの方針を掲げて地域に協力を呼び掛ける。第一に、地域に開かれた学校、第二に、教育方針の情報開示、第三に、地域との協働を目指す率先したリーダーシップの3点である。校長先生が自ら先頭に立って意欲満々であった。
初めは、これまでの「学校鎖国主義」の後遺症が妨げになった。地域からは、学校の事をなぜ自分達が加勢しなければならないか、という声も出たそうである。しかし、学校の意欲が理解され、公民館の働きかけが浸透して行くに従って、地域の皆さんがよろこんで、力を貸してくれるようになった、と公民館長も、校長先生も、心底、嬉しそうであった。地域が動きだした以上、公民館としては、「保護者の皆さんも汗をかいて!」と保護者を説得できるようになった、と館長から報告があった。”なるほどね”、と会場も、登壇者も、納得した。学校と公民館の二人三脚のプロセスとその成果は明快であった。
「気兼ね」の壁
「不参加」は「参加資格」を失う?!
校長先生と公民館長の報告を受けて、PTA会長さんが発言された。何気無く報告されたように聞こえたが、筆者には衝撃的であった。会長さんは、公民館および地域の方々から様々なご支援をいただいている中で、”「保護者も汗をかけ!」というご指摘は大変重く受け止めている”、とおっしゃった。付け加えて、”そうした中で実際に「汗をかけない」状態にある保護者が、子ども達に、地域行事への参加を遠慮させていることが気になっている”、と発言した。
地域行事に対する親の参加率のばらつきは、当然、意識や心がけの問題にとどまらない。労働形態の多様化、経済状況の悪化の中で参加したくても、参加出来ない家族もある。地域の行事には限らない。学校行事も、子ども会行事も同様である。
ところが、自分達が加勢出来ない以上、親の側に「気兼ねの文化」の心理的抑制が働く。すでに何回か論じた通り、日本の助け合いは、「公益」の原則ではなく、「共益」の原則にのっとっている。「共益の原則」とは、お互いの利益のためにお互いの労力を出し合う、ということである。共同の成果は、労力を出し合った人たちの間で分配する。「マンションの共益費」と同じ原理であることも、すでに指摘したとおりである。助け合いの成果は「共益」を分かち合う集団を越えて、部外者(よそ者)には配分されない。翻って、共益集団内部の人々から見れば、みずからが労力を提供していないのに、共益の配分に預かるわけには行かない、という遠慮が働くのである。日本文化における行事や共同作業への「参加」は、それぞれが担う役割に軽重の違いはあっても、「労役」であることに違いはない。「労役」はほぼ「会費」や「税金」と同じ意味を持つ。労役負担は成員の義務である。負担義務を履行しないものは成果の享受を制約されるのは当然なのである。それが「気兼ね」の原因である。「不参加者遠慮」の文化である。「気兼ね」を感じないのは「無遠慮」なのである。
「不参加」は「参加資格」を失う?!−「不参加費」の不思議−
共同体的人間関係において、「汗をかいていない」人間が共同作業の成果を享受することは、「ただ乗り」や「ただ食い」に等しい。義務を果たしていないメンバーは心理的に遠慮しなければならないのである。当然、「汗をかけなかった」人々の側には、気兼ねが生じる。気兼ねがもたらす遠慮は、共同作業の成果を享受することへの抵抗感である。
みんなが一緒にやろうとしていることに参加しないのは共同体の一員としての心理的資格を失うのである。「不参加」は心情的に「悪」なのである。学生がコンパ(懇親パーティー)を欠席するのに、「不参加費」を払うのはその象徴である。「飲み食い」をしないのに「金」を払うというのは不思議な現象である。しかし、筆者が学生と関わっていた十数年前までは、多くの学生が「不参加費」を支払っていた。掲示板に貼られたコンパのちらしにも堂々と「不参加費」の額が明示されたのである。
「不参加」は「みんな一緒」という心理的「掟」に対する「罪」なのであろう。PTA会長のご発言から、かねてから気になっていた「不参加費」への疑問が、生涯学習における「気兼ねの文化」と繋がったのである。
「不参加費」のルールは、不参加が続けば、やがて心理的な参加の資格が失われることを暗示している。「不参加費」の支払いは、資格喪失の恐怖への予防措置である。
地域行事に対する親の心理も同じなのであろう。何らかの理由で、保護者が貢献出来ていない地域行事には、晴れて子どもを参加させにくいのである。恐らくは、子どもにも、親の気分が反映している。親が関わっている行事には、子どもも大手を振って参加する。逆も同じであろう。親が参加していない地域行事への参加は、子どもながらに遠慮しがちの気分があるのであろう。”子ども会の子どもが遊んでいる周りで、子ども会に入っていない子どもが見物している光景を見た”、と久留米市の秋永社会教育主事が発言した。親の「気兼ね」を納得して、子ども達が、おとなしく部屋にこもって、テレビゲームで時間をつぶしているというのは、日本文化の哀しい風景である。
「一律主義」の落し穴
「地域ぐるみ」で青少年育成を!というのはよく見られるスローガンである。迂闊にも、麗しい目標だと思った時もあった。しかし、多様化の時代、個性の時代に、「〜ぐるみ」の「全員一緒」の目標は必ずしも麗しいものではない。その裏には「一斉主義」の文化があり、「一律主義」の慣行がある。結果的に、「一律」や「一斉」について行けない人々を、遠慮させたり、畏縮させたりする。”来るな”とは誰も言ってはいない、と関係者は力説する。しかし、普段から参加していない行事には行きづらい「空気」があるのであろう。山本七平が名著「空気の研究」で指摘した通りである。
一律主義は、町内会に始まり、PTAや子ども会に見られる。「役員の回り持ち」システム、奉仕作業への全員参加、貢献活動の「順番負担」と同じ発想である。「今日の草取りに来ていないのはどこだろう」などと聞こえよがしにいうのは、「全員参加の空気」が不参加者を恫喝しているのである。共同体行事のほとんどの役割分担は順番である。「まだ役をやっていない人は誰か」、と言って次なる当番を探し回ることは、その役割を果たせない人にとっては、さぞ肩身のせまい、辛いことであろう。「一律主義」、「一斉主義」、「全員参加」の文化を信じて疑わない人々は、正しいことをやっているつもりである。それゆえに、時に、無神経で、残酷なのである。4月初めのPTAの役員決めの会合で「学級役員の未履行者」を探し回って電話をかけまくるという現象も、「一律主義」の為せるわざである。役割を分担出来ない人は組織を抜けざるを得ない。かくして、子どもが上級学年になると、子ども会の入会者が減少して行くのである。やがてPTAからの正式退会者も出てくるであろう。学級委員をやれない人は、組織そのものから身を引くしかないのである。全員参加主義の文化は多くの日本人の血肉と化している。おいそれと変わりうるものではない。ディスカッションの中で、校長先生は、”やれることを、やれる人が、やって下さればいいのです”とおっしゃったが、おそらくそれほど簡単なことではあるまい。
一律的参加と主体的選択
生涯学習の関係者が、地域の青少年ボランティアは全員で!などと言う。「全員ボランティア」の思想は、「ボランティア」の精神から程遠い。それは単なる「割り当て」に過ぎない。みずからの意志で、やれることを、やれる範囲でというボランティアが「全員参加」になる筈はないのである。それゆえ、みんなが「無理」をして「義理」を果たす。時には、子ども会の行事のために仕事を休んだりする。生活の多様化、仕事の多忙化と共に、「無理」も、「義理」も増大する。一律にやらせようとすれば、「参加しない」という結論になるのは目に見えているのである。
大分県宇佐郡のPTAの研修会で副会長の藤田さんが、子どもの行事をこれ以上増やしてもらいたくない、とおっしゃっていた。親はそれぞれに忙しいのだ、という理由である。その裏側には、子どもの行事には親がでて行かなければならない、という「かくれた掟(?)」、あるいは「明らかな掟」があるのであろう。
地域の子ども行事で役割を果たすことができないから、自分の子どもも地域のお世話になるわけには行かない、という遠慮の心理は、全員参加の「文化」が命じているのである。子ども会の役員を担当できない以上、わが子も子ども会のお世話になるわけにはいかない、というのも同根の発想である。地域の子どもは地域で育てよう」というスローガンには、無意識の「落し穴」があるのである。個性の時代、自分の時代においては、「地域の子どもは地域の青少年ボランティアで育てよう」というスローガンに変更しなければならない。もちろん、ボランティアとは「やれる範囲で、やってみましょう」と手を上げて下さる人々のことである。
子どもにとっても、親にとっても、主体的な選択的参加を保証しようとすれば、「地域集団」は「機能集団」へ移行せざるを得ないのである。学校週5日制の完全実施以来、塾の登録率が平均で2割近く上がった、と新聞が報じていた。塾が要求するのは一律の月謝だけである。”あなたは地域に何も貢献していないではないか!”という心理的に棘のある「空気」はない。気兼ねをしながら、地域行事に参加させるよりは、少し頑張って、塾の月謝を払う方がよほど気楽でいい、と思うのも、自然であろう。恐らく、今後は、塾のカリキュラムが多様化する。子ども会の行事も、スポーツ少年団の行事も、更には地域の行事も取り入れた塾が登場する日も近い。それは地域行事に参加出来ない親たちを「気兼ねの文化」から「救出」するためである。
指導者の「アウトソーシング」
熊本県八代市のPTA連合会の羽多野文子さんが宇土市網野小学校区に「みんなの寺子屋」を訪ねた報告を送って下さった。「みんなの寺子屋」は、僅かであっても受益者負担の原則を守っている。勉強も教えれば、縦集団の活動もする。貝掘りにも行けば、山遊びにも行く。指導者はボランティアの先生である。指導者がプロだからこそできることである。寺子屋は、学校の機能を補完し、子ども会の機能を代行し、塾に変わって低料金の選択肢を提供している。多少なりとも、受益者が負担しているので、「ただ乗り」の思いはない。受益者負担を受け入れているので、活動への貢献についての一律主義の心理的圧力を回避できるのである。「みんなの寺子屋」に人気があるのは当然なのである。子ども会は持ち回りの、義務的な役員の当番制を廃止して、指導者の「アウトソーシング(外部委託)」を再検討すべきである。「子ども会の原点」(「風の便り」第22号)の論文に書いた筆者の提案である。「アウトソーシング」は、役員の負担を減らし、指導の実を上げるということが主たる理由であった。今から考えれば、もうひとつの理由を忘れていた。それは、参加者の主体的選択を保証し、「一律主義」文化の副作用を和らげる、という視点である。
全員ボランティアはボランティアではない。「〜ぐるみ」の行動様式は、選択の意志を無意識の内に封殺する。順番の役員奉仕は、心理的「強制感」を伴わざるを得ず、個性の時代にも、ボランティアの時代にも反する。「みんな一緒」は時に麗しいことであるが、「一緒にやれない人」にとっては辛いことである。「一緒に出来ない」ことから発生する気兼ねや遠慮は、「一律主義」文化の特徴である。「一律主義」のもとでは、嫌でも、無理でも、義理ででも、役割は果たさねばならない。したがって、引き受けた人も、おのずと「いやいや仕事」になることが多い。嫌々しなければならない教育活動は当然効果は薄い。いやいややるならやらない方がましの場合が多い。「一律主義」の生涯学習には、考え直すべきことが山積しているのである。 |