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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第104号)

発行日:平成20年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 朗唱の教育機能と練習の構造

2. 朗唱の教育機能と練習の構造 (続き)

3. 市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件-

4. 市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件-(続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

5 組織化の文法、「自薦」の禁物

 組織の中に、「自信家」と「自尊家(ego-inflated?)」と「自己中」がいれば、結果的に、自己主張がぶつかり合い、満たされない「自我」や認められない「自己主張」は組織の「和」を乱して事業が進まなくなるのです。文化が定めた言動基準に即して「美しく」生きたいと願っている日本人にとって、「手を挙げる」という行為は文化が培った「美的基準」に反するのです。これまで維持して来た「慎ましさ」を放棄することになるのです。人々が募集に応じることをためらうのはそのためです。「公募」で日本文化の言動基準をクリアした「人財」を発掘することができないのはそのためです。
 福岡県宗像市の「むなかた市民学習ネットワーク」が成功して20数年続いている秘密の一つは、「有志指導者」を第3者推薦制によって発掘したからです。同じように福岡県京都郡みやこ町の「豊津寺子屋」が成功を続けているのも子ども達の指導に当たる指導者を第3者推薦制によって発掘したからです。
 「美しい日本人」の多くは、第3者から推薦を受けた場合ですら、「私ごとき者」が「人様にお教えすること」などできません、とおっしゃいます。被推薦者の多くは己が「慎みを忘れ」、「これ見よがしに」振る舞ったか、とおそれるのです。確かに、我々の社会は「足を引っ張ったり」、「出る杭を打ったり」するので、人々に自分が「目立つこと」を恐れさせます。また、謙譲の美徳は、時に、遠慮や控えめを通り越して、「自信のなさ」や自分を「卑下」するところまでに行き過ぎることもあります。無難な日々を送るためには、社会との関わりを持たない方がいいというところまで行き着きます。
 「被推薦者」に対して、発掘者側からの依頼は世間を代表しているのです。発掘者が「三顧の礼」を踏んで、丁重に依頼し続けることが重要なのはそのためです。依頼時の礼節と作法が「被推薦者」の意志を固めさせ、一歩を踏み出させるカギになります。礼節は日本文化の「応援」と「自尊」を保障する要因なのです。その意味では、宗像の「市民学習ネットワーク」も、みやこ町の「豊津寺子屋」も、最初の担当者は依頼に際して決して礼節を踏み外しませんでした。勧興公民館の「祭り」も、小郡のミュージカルも同様の手順を踏んだであろうと信じて疑いません。福祉の分野でも、生涯学習の分野でも、自らがボランティアの経験もない、役所の担当者が「ボランティアを使う」と言うような発言をする場面にぶつかります。地域への貢献者に対して如何に無作法で無礼であるかは自明のことでしょう。
 宗像市も、みやこ町も現在の事業がつぶれるのはそのようなトップがすわり、そのような役人に事業の支援がゆだねられたときです。

6 第3者推薦の利点-「人財濾過装置」

 このように欧米型の「自主性」や「自発性」はまだ日本には十分には根付いていません。それゆえ、日本文化の言動の「文法」はまだ生きています。この「文法」に照らした時、「自薦」による募集は組織混乱の種子を背負い込むことになりがちなのです。それゆえ、あたらしいメンバーの獲得は「第3者推薦」によらなければならないのです。その際、「推薦者」には事業の趣旨を十分に分かっていただき、どのような人財を、なぜ必要としているかをきちんと説明しておくことが重要です。事業の趣旨によって、「人財」の質が変わってくることは十分あり得ることだからです。原則として「推薦者」は一般市民でいいのですが、まちづくりのプログラム、学校支援、子育て支援,男女共同参画、高齢者支援など事業の種別によって、求められる「人財」は若干変わります。それゆえ、事業によっては、当該分野の関係者やすでにご活躍の方々に推薦をお願いするのが第1歩です。初めに5人の推薦者が上がって来たら、次はその5人にお願いして第2次推薦を行います。そこから2人ずつ上がって来たら、その方々を第3次推薦者にお願いします。こうして「ねずみ講」のように被推薦者を積み上げて行くのです。推薦にあたっては、その基準をご本人の「能力や体験」に置くことはもちろんですが、それ以外に人間としての「魅力」を重視することもまた当然のことでしょう。この「魅力」の中身こそが、「奥ゆかしい人」、「慎ましい人」、「控えめな人」、「誠実な人」であることは言うまでもありません。前段の条件は推薦依頼の際に説明する必要がありますが、後段は必要ありません。大方の日本人は分かっていることだからです。日本文化は第3者の「目利き」を通して「でしゃばり」や「ええかっこし」や「自己中」や「わがまま・勝手」や「協調性のない人」や「自尊感情が強すぎる人」などが入り込まないよう防止するのです。第3者推薦制は日本文化の「人財濾過装置」であり、「スクリーニングのプロセス」なのです。
 推薦にあたって推薦者は自分の目利きを疑われるような「ドジ」は踏むまいと自重します。推薦者のお名前を公表すれば、自重はさらに「慎重さ」を増します。
 一方、被推薦者は日本文化の人間関係の鉄則として、推薦して下さった人の期待を裏切ることはできません。引き受ける以上推薦者のお顔に泥を塗るようなことはできないのです。この重圧が多くの場合、名誉ある推薦を辞退する理由にもなります。かくして、第3者推薦制は推薦者の「期待」と被推薦者の「自重」によって脱落者やルール違反者を防ぐことに著しい効果を発揮するのです。役所が手間を惜しんで広報に頼った自薦方式の募集や審査やスクリーニングのない公募を過信すれば、事業を開始したあとどれくらい意見の調整やメンバー間のもめ事の処理に時間とエネルギーを割かなければならなくなるか、担当者は未だ分かってはいないのです。文化は頑固です。文化が要求する言動の美的基準の前に、戦後民主主義や戦後学校教育が唱える自主性や主体性は到底及ぶところではないのです。戦後教育が育てた「自主性」や「主体性」は、肥大した権利意識と過剰な自己主張となって世の人々の不信を招いているのです。
(*1) 三浦清一郎、「日本型コミュニケーションのジレンマ」、日本の自画像、全日本社会教育連合会、1992、pp.159-184
(*2) 世阿弥、「風姿花伝」、岩波文庫、昭和33年

7 日本的集団の弱点と長所

 改めて読み返した中根千枝氏の指摘は、以前に読んだ時に増して「目から鱗」の革命的な分析でした。説明は正しく、指摘は的確で、欧米の経営学や組織論を学んできた筆者の常識をひっくり返す革命的な理論でした。たくさんの専門家を必要とする大規模プロジェクトや国際的事業は別として、生涯学習が取組む「市民参加型事業」は仲間(メンバー)の事業に対する「忠誠」、関係者の「団結」、個々人の「献身」が不可欠です。
 中根理論が説くように、日本的縦集団は小さな事業につよく、大きな事業には弱いこともよく分かりました。組織が大きくなると、縦集団は、縦に広がり、下方の縦集団が必ず「派閥」を形成して「横の連携」も、「縦の意思疎通」も難しくなるからです。また、中根理論が指摘する通り、縦集団は「ルール」や「専門性」を中心とせず、血縁、地縁、派閥の縁など情緒的な繋がりで動きがちです。「内がかたまり」「外に対立する」のもそのためです。日本的な組織は血縁、地縁、結社の「縁」など既成の人間関係を優先するのです。「コネ」が効くのもそのためであり、「身びいき」が起こるのもそのためです。筆者は日本的な人間関係が生理的に嫌いなのですが、「好き嫌いの問題」と「集団形成のメカニズムの問題」は峻別しなければならないと今回改めて納得するに至りました。
 中根氏の指摘で一番重要な事は、縦集団と横集団では、「集団内部の正員の位置づけが異なっているばかりでなく、リーダーの意味が非常にことなっている」ということです(*3図参照)。すなわち、「リーダーは一人に限られ、交替は困難」だということです。三角形のトップのリーダーが倒れると、必ず分裂か、跡目争いのお家騒動が起こるというのです。これに対して横集団では同資格者の間でリーダーの互選が行われる可能性が高く、突然にリーダーが欠けた場合でも集団を維持できるというのです。反対に、縦集団では、リーダーが優れ、成員の忠誠心がリーダーに集まれば、集団の結束力が高まり、縦集団は大いなる力を発揮します。

8 忠誠と団結

 「団結」は気心の知れた仲間のエネルギーがカギになります。事業目的への集中は、リーダーに対するメンバーの信頼と忠誠がカギになります。周囲を見渡せば、中根理論はまさに正しいことがよく分かります。事業のために専門家を集めても、事業の目的やルールに忠誠を誓うことなく、それぞれの分派派閥に忠誠を誓うことになることは大学経営の中で嫌というほど思い知らされました。大きな事業を一直線に推進するためには、誠に非民主的で、公正さを欠くことになるのですが、意思決定組織はトップリーダーの「身内」で固めておかなければなりません。それぞれの分野の専門家を集めても、人々が事業目的に忠誠を誓わない以上、団結と集中は実現できないのです。日本型集団は民主的で、対等な横組織を作ったつもりでも、必ず「長幼の序」や上述したような各種の「縁」を契機として派閥に分裂し、団結やまとまりがなくなってゆくのです。目的やルールの共通性よりも、インフォーマルな人間関係が優先します。組織が定めた職階よりも、派閥内のボスに対する忠誠心が優先するのです。日本型組織は、こうした文化的特徴を逆手に取るしかないのです。
 恐らく、優れたリーダーは、組織の中枢を当該リーダーを中心とした「身内・派閥」で固め、中枢の意志決定が揺らぐことのないようにします。中枢の意思決定が、迅速で、事業目的に忠実で、異論が起こらず、メンバーが揺らがなければ、作戦の遂行は最も効率的に進む筈です。中枢を身内で固めれば、外からの批判や「やっかみ」は矢のように降ってくるでしょうが、当然、「想定内」のことでしょう。組織における忠誠と団結が保障できれば、結果的に「おやぶん」のために一致団結して事業を進めることができるのです。言葉を飾らずに言えば、日本型集団は本質的に「派閥的」なのです。 したがって、日本型リーダーに求められる「役割」と「能力」は、「身内を固めること」であり、外にいる人間を派閥の内側に取り込んで「身内」にして行くことなのです。最大の心配は「派閥内派閥」の誕生であり、絶えず目配りをして、忠誠心がリーダー自身と事業目的に集中するよう統率と配慮を忘れないことです。
 派閥の論理は、「才能ある他人」よりは、才能に欠けていても「忠誠心のある身内」の方が事業の遂行に役に立つということです。このような仕組みの中では、当然、「公平な人事」はできません。「ドリーム・チーム」もできません。日本型縦集団の行動原理は、リーダーに対する「忠誠主義」であって、それぞれの専門分野における「実力主義」ではないのです。集団運営の論理は、第1に、「よそ者より仲間を大事にすること」、第2に、「利益と成果の還元を保障すること」、第3に、身内の「出番を演出すること」、第4に、リーダーとの「個人的・情緒的人間関係を維持すること」などです。それゆえ、日本的集団が大きくなり過ぎると、リーダーが上記の条件を満たすことは、時間的にも、空間的にも難しくなり、必ず「派閥内派閥」や「身内内身内」が生まれて分裂の危機をはらむようになるのです。リーダーの引退や死によって、日本的集団はかならず「跡目争い」の混乱を生じるのはそのためです。

9 「人間の風景」-館長と総監督-

 勧興公民館「まちの駅」2周年事業にしても、筑後小郡市のミュージカル「ハードル」にしても、事業の構想の基本はトップリーダーから出ています。集団を構成するメンバーの意見を下から拾い上げて事業に生かすことは当然あると思われますが、それはリーダーの目配りの結果であって、集団が「民主主義的」に運営されているということでは決してありません。みんなの意見をよく聞いて、下から積み上げてくるという、通常言われる「ボトム・アップ」方式はリーダーの手法であって、メンバーが対等の決定権を持つ集団運営の原理ではありません。リーダーの意志が末端メンバーの意見や意志に左右されるようであれば、日本型集団は動かないのです。したがって、優れた日本型リーダーは、真に大事なことについて、会議の「決を取る」ことなどしないのです。だから事前の「根回し」も必要になります。会議をする時には自分の方針は通ることになっていなければ事業は推進できません。「しゃんしゃん会議」はその結果です。筆者の想像ですが、秋山館長さんも、山崎総監督も日本型リーダーなのです。事業を組み立てる発想も技法も模倣は可能なのですが、優れたリーダーの人心収攬術だけはあまりにも独自・個性的で、「型通りに」真似をしただけで「その人」になることはできないのです。
 現象面だけを見れば、リーダーは「常に皆さんに声をかけています」。率先垂範してこまめに動きます。愛嬌も、笑顔も絶やしません。事前準備や練習はことのほか入念で厳しいと拝見いたしました。「内を固めたあと」は「外をお招きし」事業の関係者に「張り」と「緊張」を持たせようとします。「外の力」も実に上手に活用します。最後は「晴れ舞台」または「みせば」の創造です。「舞台」は外の人のために準備されるのですが、本質は「内の人」のためにあります。それゆえ、「お客さまの入り」も「外の人の拍手」も決定的に大事になるのです。「外の評価」が「内の連帯」を高めることになることを十分に分かっているからです。事業の終了日の「打ち上げ」こそが、日本型集団の水入らずのよろこびであり、実践者の快感です。
 このように分析してくると、シナリオにすれば誰もが同じように振る舞うことができるように響くかも知れませんが、実際には違うのです。最大の違いはリーダーのビジョンと意志力だと思います。事業の準備段階の目標が明確で、達成プロセスの意志や思いが「ぶれない」ということです。練習の手を抜かず、「外」への気配りもこれでもか、これでもか、と手を打ち続けます。「外」は、そうした入念な気配りにほだされて途中の応援をためらわず、「晴れ舞台」に駆けつけたりするのです。勧興公民館の祭りの賑わいも、市民ミュージカル「ハードル」が大ホールを満杯にした実力も、成功の何割りかは「外の応援者」が支えているのです。もちろん「外の応援者」を絶えず拡大最生産し続けているのがリーダーのヴィジョンと「腕」だと言って間違いないでしょう。

 また、リーダーの個性が最も強烈に発揮されるのは「内」に対する「姿勢」です。「声かけ」も、「率先垂範」も、「愛嬌も笑顔」も、誰もが努力すればできることですが、どこかが違うのです。それがリーダーたる人の「人格」であり、「オーラ」であり、「魅力」なのです。それらは「エネルギー」や「知識」や「技術」や「体験」や「覚悟」や「人間観」や「愛情」やあらゆる人間要素の複合したものですが、その結合構造や仕組みはいまだ解き明かされていない人間の不思議とでも言う外はありません。司馬遼太郎はこの「不思議」を「人間の風景」と名付けました。「風景」としか呼びようのない刻々と変わり得る無数の要素の組み合わせなのでしょう。自然の風景が広漠として人間に無数の分析を許すのと同じように、人間の風景もまた接する人に無数の分析を可能とする、理性だけでは捉え切れない「漠」たるものなのでしょう。この世には確かにほれぼれするような「風景のいい人」が存在し、それらの人が事業も、社会も動かしているのです。


(*3 縦社会の人間関係、中根千枝、講談社現代新書、1967、p.121)
 中根理論は「縦社会」と「横社会」を集団構成の原理から象徴的に上のように図示しています。


   

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