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風の便り
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生涯学習通信
「風の便り」(第104号)
発行日:平成20年8月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 朗唱の教育機能と練習の構造
2. 朗唱の教育機能と練習の構造 (続き)
3. 市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件-
4. 市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件-(続き)
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件- 市民参加型事業の創造 -「佐賀市勧興公民館『まちの駅』の2周年記念事業」/第17回「小郡音楽祭メインステージ:ミュージカル『ハードル』」 過日、佐賀市勧興公民館「まちの駅」の2周年記念事業を訪問し、各催し物に参加しながら観察をさせていただきました。また、1週間遅れで福岡県筑後小郡市の音楽によるまちづくり事業の一環である第17回「小郡音楽祭メインステージ:市民の制作によるミュージカル『ハードル』」を拝見しました。二つの事業にはそれぞれ核になる中心人物が存在します。勧興公民館長の秋山千潮さん、そしてミュージカル『ハードル』の総監督で、実行委員長を努める山崎三代子さんです。大学経営から学校の研究会まで、公民館の祭りから音楽のまちづくりまで、規模の大小の違いはありますが、カギは中心人物と中心人物を取り巻く仲間集団である事が改めてよくわかりました。過去の自分の間違いにも改めて気がつきました。ここは日本なのです。日本である以上、人事は「謙譲の美徳」が言動の基準であり、事業の成否は「専門性」ではなく「忠誠」と「団結」がカギなのです。人間関係は、日本社会の原理が事の成否を決定するのです。かく言う筆者は、何たる不覚でしょうか!大学経営に関わった時、ここが日本だと言うことも、日本社会では、夙に、中根千枝氏が指摘した「縦社会」の人間関係が支配するということも知っていながらその応用を忘れていたのです。「市民参加型事業の思想」を分析するにあたって、改めて「縦社会の人間関係」(中根千枝、講談社現代新書、1967)を読み返し、改めて「日本型コミュニケーションのジレンマ」」( 三浦清一郎、大中幸子編「日本の自画像」、全日本社会教育連合会、1992、pp.159-184)を再確認しました。 2 日本文化における言動の美的基準 日本文化は「奥ゆかしさ」、「慎ましさ」、「控えめ」、「遠慮がち」などを「好ましい」とし、「美しい」とします。換言すれば、意思表示についても、表現様式についても常に自己抑制を要求するということです。 抑制の対象は、日々の言動であり、その背景を為す「欲求」であり、「主張」であり、「能力」であり、「体験」などです。日本文化におけるそうした自己抑制の思想がどこに起因するかは分かりませんが、結果として、言動は程よく「抑制する事」が「いいのだ」ということです。文化は言動の美的基準を示してわれわれの日常を拘束するのです。 「能ある鷹は爪を隠す」といい、「実った稲穂は頭を垂れる」といいます。咲き誇る藤の花房は「下がるほどその名は上がる藤の花」と讃えられ、藤の花にさえ日本人は「謙虚の美徳」を見るのです。 コミュニケーションにおいては、筆者が「間接表現の文化」(*1)と名付けた通り、「言わぬが花」であり、「言外の言」が本質であり、「あからさまに言わないこと」、「全部を言わないこと」が重要です。表現の抑制が効いていないことは「品がなく」、「粋でない」のです。それゆえ、若い人々に対しては、「いちいち言わせるな」、「気を利かせろ」、時には「言わなくても分かれ」とまで言って鍛えます。日本人のコミュニケーションにおいては、聞き手の「察する能力」がカギになるのです。もちろん、「聞き上手」は「話し上手」より重視され、遠回しやぼかしや省略や間接表現がコミュニケーション技術に取り入れられます。日本文化において「根回し」とか「内々の打診」が不可欠なのも、会議の中で人々がなかなか本音をいわないからなのです。「根回し」にせよ、「内々の打診」にせよ、正式会議の前にインフォーマルな事前工作が行われることはアメリカのような直接表現の文化に住む人々から見たら、「情報の漏洩」であり、「不公正な取引」であり、許されることではありません。 3 「秘すれば花」 とにかく、日本人の美的行動基準の究極は「秘すれば花」ということになります。ものごとは秘められているからこそ、その魅力がにじみ出る、というのです。多くの言動はあらわにしてしまえば、まさに身もふたもなくなるのです。美人が美人たるところも、才ある人の奥ゆかしさも、物語の魅力も、恋文の切なさもそれぞれの主張をほどほどに抑えてあるところにあるのです。表現・行動の美的基準はすべからく、抑制されていなければならないのです。美しさが美しさを主張し、才が才を誇り、恋の手紙ががまんを忘れた時には、それぞれの「価値」や「資格」を失うことになるのです。「秘すれば花、秘せずば花なるべからず」とは世阿弥の名言ですが、日本文化における言動の「文法」を一言で表していて見事です(*2)。 4 他者の評価、世間の評価、歴史の評価 日本文化において新しい組織を作り、新しいメンバーを募集する時には、文化の文法に従うことが重要です。「奥ゆかしい人」も「慎ましい人」も、「控えめな人」も「誠実な人」も、己を語ることは少ないと心得るべきでしょう。「秘すれば花」であり、「不言実行」が尊ばれるのが基本だからです。 したがって、「いい人」・「好ましい人」は己の才能を主張しません。この事実をひっくり返せば、「手を挙げる人」、己を主張して「オレが、オレが」や「私が、私が」と出てくる人は「危ない」ということです。「手を挙げる人」を募集して出発した各地の人材バンクやボランティア事業がうまく動かない理由の一つがここにあります。「手を挙げる」という行為そのものが、すでに抑制を忘れた「自己主張」の一環であり、「慎ましさ」や「控えめ」の基準に反しているのです。「自信」があることはいいことに決まっているし、優れた才能に恵まれたことも立派なことです。この世の事業に成功したことも、お金がたまったことも大したことです。しかし、だからと言って、自分が生きているうちに「銅像」を建てたり、記念館を作ったりすることは、人々の眉をひそめさせます。歴史が認める前に己の功績を誇ることは、日本文化の美的基準に照らして美しくないのです。 直接表現を「良し」とする欧米文化ならいざ知らず、日本文化においては、評価は「他者」が行い、世間が認めて初めて評価です。歴史が認めて本物の評価です。それゆえ、ご本人の業績や才能が世間のレベルを越えていれば、不幸なことですが、世間は評価しません。多くの優れた天才が、時代に認められないまま、不遇をかこって世に埋もれることは歴史上たくさんの例があるのです。しかし、世間の認め方が足りないからと言って、自分や自分の身内だけて認めて「銅像」や「記念碑」を建てたりするのはなんと慎みのないことでしょうか!我々の日本は、「陰徳」を積み、「秘すれば花」を心掛けて「美しい人」になるのです。世間が認めない銅像も記念館もやがて訪れる人はいなくなるのです。戦後導入された欧米型の民主主義原理は「意思の表明」や「権利の主張」を当然としました。学校教育も戦後60数年に亘って、欧米型民主主義を看板に掲げて、個人の「主体性」を確立して「自分の意見を持とう」、「自分の考えを言おう」と教えて来ました。しかし、子ども達が教室で「はい、はい」と手を挙げるのも小学生までのことでしょう。子ども心にも「はい、はい」という自己主張は美しくないからです。中学や高校になれば質問や意見の表明は一気に少なくなります。大学では「質問や意見のある人はどうぞ」と呼びかけたくらいでは、通常、一人の大学生も反応しません。多くの大学生に質問がないわけではなく、意見がないわけでもありません。彼らによれば、状況は「言わぬが花」なのです。「格好をつけたがる者」や「状況音痴」だけが手を挙げるというのです。うっかり調子に乗って意見を言ったり、質問をすれば、先生の機嫌が悪くなったり、仲間の白い目にさらされたり、ろくなことはないのです。 人格形成に抜群の影響力を持つ学校教育ですら、いまだに日本文化を覆すほどには浸透していないのです。若い学生などが自信を失ったり、自己嫌悪に襲われたりした時、筆者はいつも言ったものでした。「あなたの能力も価値もあなたが決めるのではない、世間が認め、他人が決めてくれるものだ」。反対に、自己の才や努力を誇るところが多い学生にも「同じこと」を言いました。「自分で言うな。不満を言うな。人様が決めてくれることだ」と。本稿で論じている「言動の美的基準」の自覚があったわけはないのですが、筆者もまた日本文化の中で生きて来たということなのでしょう。
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