HOME

風の便り

フォーラム論文

編集長略歴

問い合わせ


生涯学習通信

「風の便り」(第104号)

発行日:平成20年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 朗唱の教育機能と練習の構造

2. 朗唱の教育機能と練習の構造 (続き)

3. 市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件-

4. 市民参加型事業の組み立て・メンバーの組織化 -日本文化の制約条件-(続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

朗唱の教育機能と練習の構造


1  子どもは「教育の枠の中」で「児童」や「生徒」になります。

(1) 教えられていないことは出来ません

 子どもは自分のことが自分で出来ないところから出発します。自分のことも自分で決められないところから出発します。教え込んで、やらせてみなければ出来るようにはならないことは自明でしょう。しつけも教育も、限りなくゼロに近い乳児から出発せざるを得ないのです。だからこそ親は「保護者」と呼ばれるのです。子どもの人生は、何も出来ない、何も分からないところから出発するのです。このような人間観に立てば、教育は基本的に「教え」・「育てる」という「他動詞」になります。子どもには、「為すべきこと」をあるいは教え、あるいは励まし、あるいは強制し、あるいは評価して「体得」させて行くのです。特に、幼少期のしつけは、生き方を枠にはめ、型にはめ、習慣化するところから始まります。人間は「ヒト科の動物」として出発しているからです。ヒトは最初から人間として登場するのではない、と理解すれば、自ずと指導法が変わります。教育を論じることは畢竟人間を論じることになることに気付かざるを得ないのです。朗唱は「教えること」と「学ぶこと」が同時進行する優れた集団的指導法です。内容的にも、形式の上でも、初めて「共同」を体感させ、初めて他者との「連帯」を実感させます。なかんずく、学校教育や異年齢の子ども集団の指導には最も適した教育方法の一つです。

(2) 子どもは「欲求の固まり」です

  人間は欲求の固まりです。当然、幼少期は圧倒的に欲求の固まりです。それゆえ、子どもはやりたいことをやりたいと主張し、やりたくないことは、きつい、嫌だ、つまらないなどと言って拒否します。自己抑制の教育に失敗すれば,子どもは欲求至上主義になり、共同生活の秩序は崩壊します。どのように分類しようと人間の欲求は無限であり、そのエネルギー源は欲求から発し、しかも資源は有限です。無限の欲求で有限の資源を奪い合えば秩序は直ちに崩壊するでしょう。朗唱に見る集団訓練は子どもの欲求に明確な「枠」をはめます。「枠」は内容からも、形式からも、リズムや発声法からも生まれます。どれ一つ間違えても他者との同調は不可能になるからです。
 有名なマズローの幸福論は,欲求の充足論です。但し、そこには順序性があって、「生理的欲求または生存の欲求」から始まります。次いで、「安全の欲求」,「愛情または帰属の欲求」、「社会的承認の欲求または尊敬の欲求」、最後は「自己実現の欲求」の順に満たされて行くとしています。マズローは欲求の順序性を指摘して大いに注目されましたが,ここでもまた,幸福の条件がすべて「欲求」を満たすことであることに注目すべきです。人間の幸福は欲求の充足に存するということです。しかし,マズローがどこまで自覚していたかは分かりませんが,人間の欲求の対象には限りがあります。社会という共同生活の中で,自分だけの欲求を追求すれば,かならずどこかで他者の欲求と衝突します。ホッブスのいわゆる「万人の万人に対する戦い」が始まらざるを得ません。それゆえ、ルールも契約も無秩序な欲求の衝突を避けるために生まれたということを納得せざるを得ません。この時、社会的規範だけが人間の欲求に「たが」をはめることができます。教育が規範の確立を強調するのはそのためです。
 幼少年期の朗唱は規範への服従を教えることができます。規範への服従とは、「他者との協調」、「ルールへの同調」を意味します。朗唱は全員が共同で作り上げるものですから、「強制」でありながら、「強制」を感じさせません。明確な言語の「型枠」にはめながら、優れた教材の内容が「型枠」を感じさせません。歴史がすくいあげた言語表現の粋を学びながら、子どもは集団行動に適応して行くのです。朗唱は、心身と頭脳を他者に「同調」させながら、古典を学び、「自己抑制」を学ぶ最良の方法なのです。

(3)  人間の判断は「個体」を越えることはできません

 教育にとって一番の困難点は人間の「個体性」です。存在の「個体性」とは「誰も代わりには生きられない」ということです。すなわち、痛みも,悲しみも、喜びも、満足も,誰も他者とは代われない、ということです。存在を分断された個体が喜怒哀楽を共有しあうことはまず不可能です。他者を理解するということは、他者の身になって初めて可能になることですが,問題は「他者の身になる」ことが極端に難しいということです。生来優しい人は稀にいます。そういう人々の「感情移入」の能力は特別の能力です。
 現に、世界中至る所で人が弾圧されていても、飢え死にしていても私たちは平気で生きているではないですか?人間の個体性を人権学習とか平和教育とか机上の空論で乗り越えることは到底出来ないのです。日本人の知恵はこのことを一言で言い表しました。「人の痛いのなら3年でも辛抱できる」という言喭 がそれです。他者の不幸に対する我々の無関心の原点は、人間の「存在の個体性」にあるのです。人権学習や平和教育の流行のまっただ中で子どものいじめもまた大流行しているではないですか!人間は,時代や世の中がどんなに不幸に満ちていても自分の状況が安泰であれば、無関心でいられるのです。しかし、原理的に、他者の存在に無関心では、社会は成り立ちません。社会は他者と共存する仕組みだからです。それゆえ、教育は「個」と「全体」の調和を生み出し、個人と集団の協調を教えなければならないのです。
 朗唱は、教育的努力を通して、個人と集団の間に橋を架ける最も初歩的な、最も強力な方法です。朗唱は個人に暗唱を要求し、リズムを要求し、発声法を要求します。しかも、個人技は集団への「同調」が要求されます。みんなと一致しなければ美しい朗唱を作り上げることはできません。人間の表現は個人を越えることはできませんが、合唱や朗唱のように集団との「同調」・「調和」によって個人の力量を越えた「価値」や「美」を生み出すことが出来るのです。朗唱は、子どもに集団の協力が大切であることを教えることができます。同じく、個が全体に適応することの意味を教えます。最終的には、社会が成り立つためには、他者との協調と同調が不可欠であることを教えることに通じているのです。
 欲求の固まりであった子どもは「教育の枠の中」で、「自己抑制」や「協調」を教えられ、徐々に「児童」や「生徒」になって行くのです。換言すれば、「児童」や「生徒」は作られるのです。学級の崩壊や反社会的行動は、規範を教えられていない「子ども」が起こすのであって、「児童」や「生徒」が起こすのではないのです。

2 「他律への服従」と「集団への同調」

 朗唱の最大の特徴は「他律」に終始するということです。朗唱の方法は、「内容的」にも、「形式的」にも圧倒的に「他律」を重視します。内容については一切子どもの意見を聞かない「他律」です。時間を工夫すれば、子どもに「集中」と「持続」を要求する「他律」であり、空間の演出を工夫すれば、「姿勢」や「演技」の「他律」になります。朗唱は、「他律」を通して「自律」を創り出す方法なのです。集団が一糸乱れず揃わなければ美しい朗唱にはなりません。そのため朗唱は常に「他者」の存在を意識させ、他者との「協調」、他者への「同調」を要求します。「他律への服従」と「集団への同調」こそが「朗唱」の原点です。
 朗唱における「協調」と「同調」は、リズムを同じくし、発声を同じくし、情感を同じくすることが不可欠です。すなわち、「同調」とは、他者に合わせることであり、自分を抑制することを意味します。周囲に適応することができなければ、優れた朗唱は生まれません。「同調」を教えるとは、「自己抑制」と「適応」を教えることになるのです。それゆえ、朗唱は共同生活の原点を教えることになるのです。
 


 

←前ページ    次ページ→

Copyright (c) 2002-, Seiichirou Miura ( kazenotayori (@) anotherway.jp )

本サイトへのリンクはご自由にどうぞ。論文の転載等についてはメールにてお問い合わせください。