山籠り生活

 ここ3週間ほど、熊本と大分の県境近くの山中にこもって、ひたすら論文を書く生活を続けていた。山深く、自然は豊かでとても静かなところだが、周りには何もなく、ネットにはつながらない。ケータイの入りも悪く、しばらくトライしないとつながらない。娯楽はテレビが見られるだけ。ひたすら執筆作業を続けて、夕方暗くなる前に気晴らしを兼ねて、1キロほど離れた小さな銭湯へ歩いて行く。帰ってテレビを見ながら晩飯を食べて、眠くなるまでまた作業。この繰り返し。
 普段と全く異なる生活を送ってみて、日常がいかに「つながっている」かをつくづく意識させられた。ネットにつながっていればどこにいても同じようにコミュニケーションが取れる。調べ物も思いついた時にすぐできて、必要な情報はすぐに集めてくることができる。娯楽も過剰なほどに提供されている。そういう生活に慣れていたので、つながってない状態に身を置いたすぐは、つながっていない感覚がどうにも居心地悪く、世の中から取り残されたような気もした。負荷の高い思考に集中できる時間も短く、10分かそこらで何かネットにつなぐ用事を思い出したり、メールチェックしたくなったりして、考える作業が長続きしない。
 それが数日たってくるとつながってないことの心地よさのようなものを感じるようになり、思考を深掘りしてまとめる作業が進むようになった。集中する時間が次第に長くなって、今まで考えつくせなかったところまで考えが及んで、言葉にできてなかった思考を言葉にすることができた。数日前の気の散り具合や落ち着かなさと比べると、なんというか、依存症状が抜けたような感覚だろうか。当たり前になっていたので気付かずにいたが、何気にネット依存のような状態で日々を送っていたようだ。
 思えば普段は、考え抜く作業がうまくいかないと、ネットで何か作業して、メールの返事をして、RSSチェックして、とやっているうちに頭も疲れて何か仕事をした気になってしまって、肝心の難題が終わらないままに一日が過ぎ、また明日にしよう、という感じで、乗り越えられない壁の前でウロウロしているような状況が続いていた。今回、乗り越えられない壁に向き合う以外は他にすることがない状況で四苦八苦して、何とか手ごたえをつかんで、今までとは違う景色が見えてきた。そういう経験をしてみて、どこでもつながれる今の便利な情報社会では、健全な無接続状態の方がむしろ貴重な時間なのではないかという気がしてくる。
 今回取り組んでいた作業は、できてしまうと案外単純なことのように見えてきて、何でこんなことで行き詰まっていたのか、という気もするし、そもそもこんなものに意味があるのかという気もしてくる。それにここまで追い込まれないと前に進めない自分の力不足を情けなく思ったりしつつも、とにかく一歩前進。ゴールはもう少し先で、厳しい日々はまだまだ続く。