アンラーニングの難しさ

 大学で授業を担当していて、毎回学びについて気づきがある。こちらが不慣れなおかげでうまくいっていないこともあれば、一人の教員が週に1度、ある程度の人数(今回は40数人)を教室に集めて一度に教えるという形式そのものに起因する問題もある。教える側の不慣れさから生じる問題は、多分に慣れていけば解消するが、授業の形式からくる問題は、実に悩ましいところがあって、昔から議論されている教育方法上の問題を一つ一つおさらいしている感がある。


 「シリアスゲーム論」で扱うのは、当然シリアスゲームに関連する知識なのだが、まだこのテーマのはっきりと体系だった知識基盤が確立されているわけではない。主にエンターテインメント分野と教育学分野で培われた知識をシリアスゲームという切り口で編集して知識の枠組みとして提供し、その枠組みを使って実際にゲームを企画するという活動を通して、学んだことを活きた知識として身につけてもらうことをねらいとしている。
 しかし、そうした趣旨で授業作りをする上で一番障壁になるのは、実は学生たちがこれまでの学校生活で身につけた学習への姿勢やお勉強文化なのではないかなと考えた。教える側と教わる側が明確に分かれていて、試験のために勉強して、学習というのは退屈な必要悪で、授業は先生がしゃべっているのを黙って聞くもので、、というような学習への固定観念が染みついていて、それを取り外して自由になってもらうのをこの授業の一つのテーマとして掲げた。
 講義は可能な限り減らし、ディスカッションやプロジェクト中心のこの授業に適応できているのは、自分で考える習慣がついていて、飲み込みが良く、ちょっと難しめの課題もすぐにコツを見つけて前向きに取り組める学生たち。おそらく今までの学校生活でも普通に成績のよかった子たちだろうと思う。その次に勉強嫌いだったり、学校的な学習文化に違和感を感じていた学生たち。考え抜く力はまちまちで、課題の難度によっては全く手が出なかったりして、ペースに個人差があるものの、全体的にこの授業のスタイルを気に入ってくれている様子。講義が単調になるとすぐに寝に入ってしまう学生もいるが、むしろ彼らを授業のペース作りのバロメーターにしてさじ加減を調整している。
 一番難しいのは、頭が良くて勉強に対して我慢強さの高いタイプか、もともと学校的な勉強が好きなタイプの学生。個別作業の課題を与えると出来は良くて、他の学生に対して鋭い指摘ができるのに、その能力の高さにあった学習ができてなくて空回りしている感じだ。学習のためのゲームと聞いて、ゲームにする必要のないテーマを選んでみたり、理解の遅い学生の気持ちが分からず、グループで活動するのが苦手だったりして、教えていてもどかしいところがある。この手の学生たちに必要なのは、これまでに身に付いた学習に関する固定観念を取り払うための支援で、評価の仕方や授業のスタイルなど手を変え品を変えアプローチしているのだが、これがなかなか難しい。話してみると学習と楽しさの話やシリアスゲームの意義の話も頭では分かっているのだが、行動レベルでは違った反応が出てきて微妙に話がかみ合わない。
 「人を見て法を説け」ではないけれども、理解の度合いの低い学生に言うことを理解できている学生に言うと逆に混乱させてしまうことがある。なので全体に向けて話す時には言葉を選ばないといけなくなる。それに学校的な学習に凝り固まった学生たちのアンラーニングを行う作業は、他の学生には必要ないし、これも不用意にやると混乱を生む要素になりかねない。そのため、できるだけ個別対応の機会を増やすために、レポートや提出物にコメントを書いて返すなどの方法を取っているのだけども、学内LMSを諸事情あって完全に使いきれてないこともあって、手書きのアナログ対応になっている。そうすると同じ作業の繰り返しになってしまったり、効率が悪かったりしてこちらの消耗も大きい。あと、ある程度授業が進んで、もう何度も説明したのでわかっただろうという前提で話していると、ついてこれてない学生たちはさらについて来れなくなるし、かといって中レベルに合わせても、理解が進んでいる学生からはもう少しレベルを上げてもいいという反応が返ってくるので、また対応を考えて、という感じで毎回細かいチャレンジがたくさんある。
 そんな試行錯誤を続けつつ毎回あれこれ考えながら、手ごたえがあった時には元気になったり、手ごたえがなくて疲れた時は、自分の学生時代のことを思い出してはこんなもんだろうと自分を励ましたりしながら過ごしてきた。次に授業を持つ時は、今回改善点が見えてきたところをいくつか仕組み化して対応すれば解消できそうなところもあって、そういう気づき自体が活動成果なのだろう。
 早いもので今期の授業も残り3回。もう一息がんばろう。>自分