ビジネス書の質を落とす5つの方法

 書店で山のように平積みにされているビジネスパーソン向けのノウハウ本的な書籍、たまに手に取って読んでみている。仕事術とか論理思考とか、いいこと書いている本もある中で、タイトルに興味をひかれて買って読んでみたら、ちょっとこれはどうかと、と思うような残念なビジネス書も少なからず並んでいる。やめとけばいいのに余計なことを書いて自ら質を落としているビジネス書には、いくつか共通する問題点がある。たとえば次のようなことだ。
1.ステレオタイプな議論をする
 「アメリカは・・」とか「テレビゲームは・・」とか「ゆとり世代は・・」とか、やたらと括りの大きなカテゴリーで一般論とも自分の主張ともつかないことをとうとうと語る。切り口がユニークだと話が分かりやすくなって面白くする効果はあるかもしれないが、的を外すとダメージは大きい。特に著者が自身の限られた経験の範囲でみたものを拡大解釈して「アメリカ人はこれこれで・・・」というようなことを訳知った風に言うと、またたく間に鼻白んでしまう読者10倍増になる。
 この辺りの傾向は、最近のネット知識人の残念発言にも共通している。ブログ炎上させたければ、ステレオタイプな議論で日本人や特定業界を腐す論法は効果大。広告マンやマーケターならまだしも、コンサルタントとかアナリストとかで飯を食ってる人がそんな血液型占いみたいなステレオタイプで世の中を語っちゃまずいだろうというような大雑把な話も珍しくない。特にブログだと思いついたものをすぐパブリッシュできてしまうので、なおのこと自分を貶める発言を人目に触れさせてしまう危険は大きい。でも書籍にも、それは編集者が止めないとまずいだろというような雑な議論で、人気著者が自分用メモのような内容をそのまま活字にしているものもある。


2.知らないことを思い込みで批判する
 仕事術系のビジネス啓発書だと、著者が自分のライフスタイルと絡めて論じることが多いようだが、「私はテレビは見ません」とか「ゲームはしないのだけど」と言う著者が、そう言いながら自分の見ないメディアを批判していたりする。特定書籍を批判するのは支障があるので、少しぼかして例をあげると、先日手に取ってみた「思考のボトルネックを解消する」といったテーマのビジネス書では、そのテーマの話に集中すればよいのに、何やら著者自身の情報収集術のような話になって、その著者も同じように自分はほとんどテレビは見ない、と書いていた。それなのにテレビを見るのは時間の無駄で「緩慢な自殺」のようなものだ、とまで言い放っていたのは、さすがにいかがなものかと思った。
 「テレビがつまらなくなった」とか「テレビは時間の無駄」という論調は、教養人を自認する人々の常套句のようになっている。同様の論調で教育批判やテレビゲーム批判なども展開され、ビジネス啓発書でこの手の話が語られるのを見ると、たいがいは的外れな批判に終始している。テレビでもなんでも、よく見ていけばその分野にはいいものはたくさんあるし、その業界で良いものを作ろうと懸命に仕事している人たちの気持ちを慮れないことを書き散らすのは啓発よりも害の方が大きい。上記のステレオタイプの話に関連するが、そんな大きな括りでは語れないことを、よく知らないから大きな括りでしか語れないし、自分の関心の外にあることはとりあえず批判してしまいたくなるものだ。そういう飲み屋の与太話のようなありきたりの批判が活字になっているのを目にすると、見てないのによくそんなことが言えるなという気がしてくる。あなたはその語っていることの何を知っているのか、と。
3.自分の腹に落ちてない知識を披露する
 結構売れているビジネス書でも、企画先行で無理やり出版したような本は、自分の持ちネタの話がひとしきり終わると、他の類書で読みかじったような話や、既刊書のネタの使い回しのような話が続く。実践から学ぶ、失敗から学ぶことが大事だと説いている端から、あなたそれ実践してないだろ、というような他の類書の引用や聞いてきたエピソードで話をつないでボリュームをかさ上げしていたりする。
4.ネタの仕込みが甘いのに無理をして出版する
 上の話と関連するが、もともとの企画時のネタの仕込みが十分でないのか、その本の売りとするフレームワークやノウハウなどの解説をひとしきりやった後、埋め草のような語りや取ってつけたような対談でボリュームだけ膨らませて、内容が薄まっているビジネス書は珍しくない。そういうのをたまにうっかり最後まで読んでしまってがっかりすることがある。自分も本を出したことがあるので、著者の力量の問題やいろんな事情でそうなっていることは想像できる。でも、体裁だけ整えて、マーケティングうまくやれば売れるんだよ、というような安易な開き直りは長期的には業界全体のマイナスだと思う。その本で自分が本当に論じたいことを論じ切ったなら、それでボリュームが物足りなくても余計な混じりものを加えずに提供するか、程よいボリュームになるまでネタを仕込み続けるのが著者の矜持というものではないのだろうか。
5.自慢話でお茶を濁す
 事例として自分の経験をエピソードに論じるのは、論理展開の方法としては悪いことではない。何かの分野で成功した著者であれば、自分の経験を語れば結果として自慢話のようになってしまうのは仕方がないし、書き方が配慮されていれば嫌みを感じずに読める。でも、大した成功もしていない著者が、あたかも成功の秘訣のように自分の小さな成功の自慢をするのはとても興ざめさせられる。中には事例にもなってなくて、ネタ切れで余った紙面を埋めるように、単に自己顕示や自分のすごさをアピールするようなただの自慢話が挟まっているような本はさらに厳しい。字が大きくて行間も広いスカスカなのに、なぜここでその話をしなきゃならんのだというような脈絡のない自慢話が紙面を埋めている。そのくせ、自分の生活の文脈に偏っていて読者が応用してもプラスにならないような経験則とヒットした他人のビジネス書から読みかじったような、しかもそれくらいのことはしてないと普通の仕事ができないだろうというような、読者をバカにしたようなありきたりの情報収集術や時間管理術などの小ネタが並ぶ。賢い時間の使い方を語るなら、その余計な自慢話を読まされる読者の時間にも配慮すべきだろうという気がしてくる。
 たぶんもっと整理すれば他にもあるが、いま思いつくところではこんなところ。こういう方法で質を落としても、ビジネス書はかなりのところマーケティングで売れるものらしい。数万部単位で勉強法とか仕事術のようなノウハウ本が売れるというのは読者層の勉強熱心さを物語っているようでいる半面、安易なノウハウ信奉の過剰さを物語っているのかもしれない。
 売れてるノウハウ本全てがダメだなんて言う気は全くなくて、もちろん売れている本には何か良いところがあるから売れるし、良いことを書いていて参考になるものも豊富にある。問題はヒット作が切り開いた市場でご相伴にあずかろうと出てくる同じテーマの二番煎じのハズレだろう。読者側が良い本を見抜く目がないと言ってしまえばそれまでだが、パッと見はいいことを書いているようで、買って帰って読んでみたらなんじゃこりゃ、という作りの本はつい見逃してしまう。そういうマーケティング過剰な売り方をしていると、そのうち限界が来るんじゃないかと心配になってくる。書き手としても読み手としても自戒を込めて。