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生涯学習通信

「風の便り」(第96号)

発行日:平成19年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 2008年の実験-アップルコンピューターの地平線

2. 『前書き』と『あとがき』 - しつけの回復、教えることの復権

3. 『前書き』と『あとがき』 - しつけの回復、教えることの復権(続き)

4. 『前書き』と『あとがき』 - しつけの回復、教えることの復権(続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

『あとがき』 プロの責任−他者の評価を問う−

1  現場に入ることの難しさ

 筆者の教育論は戦後教育に対しても,それを支えてきた教育行政や学校に対しても厳しく批判的かつ挑戦的です。それゆえ、1?2回の研修会を聞いてくださっただけでは、大抵の町や学校ではおいそれとは筆者の考え方を受け入れていただけませんでした。また,社会教育研修の機会においては,筆者も学校と社会教育の「連携・協力」の必要を説きました。しかし、「学社連携」論の延長として,「学社融合」論が出るに至って,当方の主張のトーンを変えざるを得ませんでした。現状の「縦割り行政」の中で「融合」などということは「絵空事」に過ぎません。教育行政に限らず,子育て支援でも,男女共同参画でも,高齢者福祉でも,「複合的事業」はなに一つできていないではありませんか!国語の辞書を引いてみただけでも、「融合」とは「異なった要素が解け合って新しい仕組みが生まれる」という意味ですから、学校教育と社会教育の「融合」は「できる筈はない」と主張しました。
  それゆえ、「融合」をめざして、事実上の「学社」連携作業に頑張っていた方々に水をかけたことになったのではないかと恐れます。「流行語」と縁を切って、学校とはますます縁遠くなりました。
 さらに、福岡教育大学の講義以来,現状に甘んじ,教育指導の結果責任を取ろうとしない教授-教師に対しては、日本の子どもをダメにした「児童中心主義」の第1責任者として、終始、攻撃的でした。反発は承知の上での論理展開でしたが、学校とのご縁は一層遠くなりました。この20年間,振り返って100ぐらいの研究会や発表会に立ち会わせていただいたでしょうか。しかしながら,筆者の提案と指摘ぐらいでは、学校の経営方針も,教員の考え方もほとんど変わることはなく,大抵は双方に消化不良と欲求不満の思いが残る中途半端なものに終わりました。筆者の挫折と無力感は長く続きました。教育委員会とも、学校とも、「現代教育」における「風土観」と「子ども観」と「指導方法論」が到底一致しなかったのです。
  突破口は正式に顧問を務めた長崎県壱岐市の霞翠小学校から始まりました。先生方との恊働も連帯も、教育行政との相互理解も初めて実感することができました。3年間の実践研究で、子どもの体力、耐性、学力共に期待以上の変容を見ることができました。その成果が現在の福岡県飯塚市の八木山小学校の実践につながっています。もちろん、その他にもいくつもの学校のお世話になりました。社会教育ももちろん同じですが,学校や家庭の教育論も,現場がなければ問題解決の論理は生まれようがありません。お世話になった学校の先生方,子供達、時に保護者の皆さんにたくさんのことを学びました。気付いたことはその都度、生涯学習通信「風の便り」に掲載し、多くの方々から様々なご指摘と提案をいただきました。「風の便り」もまたわが「現場」の一つでありました。毎月1回の発行で9年間書き続け、100号をもって完結しようと考えておりましたが、「現場」に完結はあるまいと思い直して研究を続けるかぎり、その報告のための「通信」も続けることにしました。
 この間,筆者の考え方に学校教育の側からたくさんの批判があることを承知の上で、学校につないでいただいた福岡県飯塚市の森本精造教育長、福岡県筑豊教育事務所の生涯学習室の先生方には感謝の気持ちでいっぱいです。
これまで少年教育について書いた「現代教育の忘れ物(学文社、1987年)」や「子育て支援の方法と少年教育の原点(学文社、2007年)」は,主として社会教育の側から提案した養育と教育の方法論でした。今回は初めて学校教育・家庭教育の側から研究を進めました。ようやく世に問える論理の整理ができたと実感しております。

2  校長先生との合意

  生涯学習の実践研究に限らず、学校では特に「発表会」を重視しました。時には,「発表会」のために実践研究をしているのか,という批判を浴びたこともあります。「そのとおりです」とお答えしてきました。学校研究の出発点は公開の発表会です。できれば学期ごとの定例発表会の実施こそが校長先生と合意すべき最初の一点であると今でも考えています。
  あらゆる専門職業は素人のやることとただ1点で大きく異なっています。それは結果を問うことです。結果だけを問うと言ってもいいでしょう。それゆえ,学校改革も教育指導の研究も、「他者の評価をいただく」ためにやることは何一つ恥じることではありません。関係者の思いや努力がどのように優れていても、患者を救えない医療は医療の敗北であり、子どもを向上させ得ない教育は口先だけで,実践の失敗と言わなければなりません。この点ではクーベルタンの言う「参加」と「努力」を強調するオリンピックの精神とは異なるのです。そのオリンピックですらも、強化合宿をへて,国の威信を背負って参加する多くの選手にとっては「勝つ」という「結果」が最も重視されるようになっていることは周知のとおりです。
  生きる姿勢も,努力のプロセスも大事ですが,専門職にとって、現世のあらゆることは結果が勝負です。特に,「育てること」や「教えること」は結果が勝負です。その意味で教育はプロスポーツ選手と同じ地平に立たされているのです。結果において子どもが「できるようにならず」、「独り立ち」ができなければ失敗です。結果において「変えることができなかった」事態を、教育関係者の熱意や努力のプロセスで言い訳してはならないのです。
  したがって、スポーツでも,政治でも、教育でも、第3者の評価を求めるのはプロの義務です。評価を求めるのは専門職業を向上させる具体的な形です。もちろん,熱意において劣らなくても,人後に落ちぬ努力を傾けても結果がでない時があります。その時は方針ややり方の再検討が不可欠です。結果については関係者の「力が足りなかった」というだけのことです。戦後日本の教育は「力が足りなかった」状況が続いているのです。
  「子宝の風土」では子どもが一番大事です。それゆえ、戦後教育も熱心さにおいて,努力において他国に劣ることはなかったと思います。しかし,子どもの事実に付いて語れば,「早寝、早起き,朝ご飯」のような恥知らずなスローガンが国民運動になったことは教育界の明らかな失敗を示していると言わざるを得ないでしょう。体力に付いても,規範の習得に付いても,学力に付いても,子どもの向上が見られないとすれば、学校と家庭の連携は失敗だったということです。子どもの行動変容で示せないかぎり,結果は出ていないということです。責任は当然プロの側にあるでしょう。

3  教育行政の総合的責任

  現行日本の教育は努力主義に流され,過程主義に傾き、本筋を外した試行錯誤を続けてきました。みんなが一生懸命で、教師も、親も,行政もみんながそれぞれにがんばったというのならば,結果が出ていない以上、どこかで「中身」と「やり方」を間違えたのです。結果が出ていない以上,教育行政は「最善を尽くした」という弁明では不十分です。学校も「全力を尽くしています」とは言うだけでは不足です。保護者は教育の素人ですから戦後教育の風潮の中で間違ったとしてもしかたありません。しかし,学校は,保護者の間違いを発見し,指摘し,伝えなければならなかったのです。「愛する」だけでも、「守る」だけでも「一人前」が育たないのは明らかではないですか!?子どもの将来に必要なことは「教えること」を重視し,体得するまで反復させることが不可欠だったのです。主体のできていない子どもの「主体性」に振り回され,「半人前」の子どもの法律上の人権を教育の現場に持ち込めば,指導はできなくなるのです。教育行政が間違い,学校が間違い,結果的に親も大きく間違えました。結論は「しつけ」を回復し,「教えること」を復権しなければなりません。「できないこと」を「できるように」しなければなりません
  教育は,子どもを「一人前」にして初めて親の付託に応えたことになるのです。「一人前」は自分のことは自分でして当然です。自分のことは自分で決め,結果の責任を負って当然です。いずれは親から離れ、日々の糧を自分の腕で稼ぎます。学力の向上はそのための大事な準備過程です。社会的にも、礼節やコミュニケーションや規範の遵守など、「できないこと」を「できるように」して当然です。果たすべき役割も,負うべき責任も子ども自身が引き受けて当然です。
  これらができていないのなら,「中身」と「やり方」を疑うべきです。教育における「子ども観」を疑い,「のびのび保育」を疑い、「半人前」の人権論を疑い,なぜ「いじめ」を止められないのかを厳しく問い、「ゆとり教育」を疑い,「新学力観」を疑い,総合的学習を疑い、「生活科」を疑い,これらの方針を打ち出した教育審議会を疑い、そのメンバーを選んだ文部科学省を疑うべきなのです。教育行政は、これまでの学校のあり方を疑い,学校は、現状の教師の子どもへの「関わり方」を疑うべきです。
 学校は己を開いて,外部の評価を問うてなんの恥じるところがありましょう。外部の評価を問わないことの方こそ恥じるべきでしょう。それゆえ,学校の研究プロジェクトで子どもが変わらなければ,学校は恥じるべきでしょう。教育における実践研究のかなめは結果です。我々の研究の対象は教育の中身と方法です。プロの仕事は、結果が出なければ,評価の対象にはなりません。子どもを「変える」と決めた以上,子どもが変わらなければ,施策も方法も失敗です。保護者がわからずやであろうと,PTAが弱体でも、たとえ教師の一部が非協力的でも,結果を出せなければ学校の管理職は失格です。それゆえ、「子どもを変えることのできない」現代の教育も教師も基本的に失敗なのです。自分たちの熱意や努力のプロセスを強調することはプロとして恥ずべきことです。
  子どもが向上し、「できなかったこと」が「できるように」なって,指導の成果が出て、子どもが褒められることは学校が褒められることです。教員が褒められることは校長の誉れです。そしてみなさんの成果が認められることは一緒に実践研究を進めてきたわれわれの誉れでもあります。
  教育の目的は,学校教育、社会教育を問わず,学習者(対象)にとって望ましい未来のあり方と資質を想定して意図的に働きかける行為です。当然,対象にとって当該の教育貢献は「有効性」を持ち得たか,否かが問われます。本人はこれまで「できなかったこと」が「できるようになった」か、「結果」が問われます。まして幼少年期の教育は、子どもが自らの未来を想定し,計画を立てることができない故に,保護者や指導者が、その子の「望ましい未来」をどのように「想定」するかが決定的に重要です。それゆえ,学校はもちろんあらゆる幼少年教育の指導プログラムの情報公開は不可欠であり,評価は不可欠であり,関係者との対話も不可欠です。そのためには「子どもの変容」を公開してみていただく工夫をすることが一番です。筆者が定例の発表会に拘ったのはそのためです。
  研究紀要や報告書を幾ら積み上げても、子どもが変わらなければ保護者は読みません。おそらくは教育委員会関係者も、教師も読まないでしょう。報告書には「手続き」や「プロセス」が異常に強調され、子ども自身の変容を見せる工夫が足りないからです。多くの場合、子どもが変容していないからです。最初は何がどうであったのか?先生方の指導はそれをどう変えたのか?「できなかったことはなにか」?「できるようになったことは何か」?学校教育には具体性が欠けていたのです。このことは学校の運営制度の問題ではありません。「教えること」を中心に置く考え方の問題です。
  それゆえ、現在の「学校評議会」のように市民や保護者が関わったからといって、学校教育の「有効性」や「結果」が向上するという保障はないのです。戦後教育の失敗は学校に大いに責任があり、教師のあり方に責任があります。決して同じ比重では論じられませんが、もちろん保護者にも責任があります。しかし,一番責任があるのは,人事から運営システムまでを総合的に指導(?)した筈の教育行政にあります。教育に対する「情報公開」も、「外部評価」も、外部関係者との「対話」も、「学校開放」も実施できなかったのは教育行政が指導の責任を果たさなかったことにあります。子どもの変容を世間に具体的に示すことのできなかったのは教育の役割や枠組みや責任を支配した教育行政が負うべきなのです。
  筆者もようやく頑張っている先生方とのご縁ができ始めました。私たちは誰にでも子どもの発表会で「評価を問う」のは「プロの誇りと責任である」と宣言しよう、と合意しています。人はいろいろ言います。「発表会」は「点数稼ぎ」のためにやっているぐらいのことは言うでしょう。しかし、その程度のことでわれわれが揺れては教師が先頭に立って「教えること」を実践することは続けられません。われわれの気合いは子どもに届きません。校長先生、研究主任さん、指導主事さん、社会教育主事さんそして私の仲間たち、我々はプロなのです。
  今回の出版もまた、学文社の三原多津夫氏のご理解とご支援によって可能になりました。熟年研究者が編集者の評価を得てどれほど励みになっているか、現役の皆さんもやがて理解できる年齢に達するでしょう。心身の健康と勤勉は結果に対する優れた人々の社会的承認を積み上げて行くしかありません。今後一層の精進をお約束してお礼に代えたいと思います。
  この本はプロとして奮闘しながらも,部下の不祥事の責任を負って会社を解散し、ふたたび再起をめざしている旧宗林建設社長、鍋山一夫氏の敢闘の精神に捧げます。


平成  年  月  日

三浦清一郎


著者紹介:

三浦清一郎(みうら せいいちろう)

 米国西ヴァージニア大学助教授、国立社会教育研修所、文部省を経て福岡教育大学教授、この間フルブライト交換教授としてシラキューズ大学、北カロライナ州立大学客員教授。平成3年福原学園常務理事、九州女子大学・九州共立大学副学長。平成12年三浦清一郎事務所を設立。生涯学習・社会システム研究者として自治体・学校などの顧問を勤めるかたわら生涯学習通信「風の便り」
編集長として教育・社会評論を展開している(http://www.anotherway.jp/tayori/)。著書に「成人の発達と生涯学習」(ぎょうせい)、「比較生涯教育」(全日本社会教育連合会)、「生涯学習とコミュニティ戦略」(全日本社会教育連合会)「現代教育の忘れもの」(学文社)、「市民の参画と地域活力の創造」(同)、「子育て支援の方法と少年教育の原点」(同)、「The Active Senior-これからの人生」(同)などがある。中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会実行委員。


   

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