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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第96号)

発行日:平成19年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 2008年の実験-アップルコンピューターの地平線

2. 『前書き』と『あとがき』 - しつけの回復、教えることの復権

3. 『前書き』と『あとがき』 - しつけの回復、教えることの復権(続き)

4. 『前書き』と『あとがき』 - しつけの回復、教えることの復権(続き)

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

3 「子宝の風土」の鉄則

  子どもが「学ぶ」ことより指導者が「教える」ことを重視するというのは「子宝の風土」の鉄則です。保護者にそのことを繰り返し訴え続けることも「風土」の鉄則です。当然、戦後教育の重点は子どもから教師に移さなければなりません。それは教師や指導者が教育の主体となり、教えた結果の責任をとるということを意味しています。「守役」は「一人前」にする指導の責任を負っています。それゆえ、学習「支援」などという逃げの許される曖昧な概念を排し、教育,特に学校教育は文字通り「教育=教え育てる」という「他動詞」を中心におくべきです。それは子どもの学習を中心とせず、教師や指導者の教える中身と方法を最重要視する考え方への転換を意味します。幼少期の発達の原点は「なる」から「する」へ、です。幼少期の子どもが「できるようになる」のは、関係者の努力によって「できるようにする」からです。できるように「する」ためにはプログラムも,方法論も不可欠です。現代の子どもの多くは靴の紐は結べず,タオルは絞れず,リンゴの皮は向けず,ボールは投げられず,幅跳びの着地もできないのです。全ては「やらせなかったこと」,「教えなかったこと」の結果です。「できるようにする」から「できるようになる」です。小学校の上学年ぐらいになれば、子どもは社会生活の必修事項を体得し,すこしずつ自立し,自ら「なる」ための努力を会得して行くのです。
  戦後教育の問題は、子どもの体力が「落ち続けている」というような説明が多く、体力を「向上させることに失敗している」という分析から逃げてきたところです。教育のプロセスを前提にすれば、子どもの「体力を向上させ得ない」と言った瞬間から、「誰」が、「何故」、体力向上に失敗したのか?「これまでなにをやってきたのか?」という疑問から逃げるわけにはいかないでしょう。指導の「主語」を問題にし、教育の主体を教師においた瞬間から、「誰が指導してきたのか」、「どのように指導してきたのか」が問題になります。指導者中心の視点に立てば、毎日子どもに接している親や学校の責任は明らかでしょう。体力向上の責任者を前面に出せば、どう理屈をこねてみても、子どもや子どもを取り巻く環境条件のせいにはできないということです。まして恥知らずな「早寝、早起き、朝ご飯」のスローガンに象徴される現代の家庭教育の「悲惨」を前提にすれば、家庭に「一人前」のトレーニングはできなかったということです。
 教師がそれを嘆いていても、学校が家庭に責任を転化しようとしても、法律が家庭教育の自主性を尊重すると決めたとしても、誰かが責任を引き受けないかぎり、体力は形成できない、ということです。

3  守役の責任

 子どもの体力の低下がここまで落ち込んでくれば,教育のプロたる学校はもはや「守役」の責任を逃れることはできないのです。もとより、問題は体力に限らず、耐性も、生活習慣の形成も、社会規範の体得も、学力の向上も問題の立て方は同じです。
 しつけと教育の前提は「共同生活」であり、「社会を構成する他者」の存在です。子どもの存在の「前」にすでに共同生活も、社会も、他者も存在しています。「適応すべき」は社会でも、他者でもなく、「子ども」であることは歴然としているでしょう。したがって、共同生活の「技術」と「掟」は子どもの欲求や子どもの主張に優先します。それゆえ,子どもを教育の中心に置いてはいけないのです。しつけは「他者」と気持ちよく暮らすためのルールの体得であることは自明でしょう。他者に迷惑をかけないことも、他者とのコミュニケーション技術の習得も、共同生活の前提です。戦後教育は,子どもが好むと好まざるとに関わらず、その興味関心に関わらず,共同生活を前提とし、他者に迷惑をかけないことを優先することに失敗したのです。しつけの原義は、和裁でいう「型」がずれたり、崩れないように「しつけ糸」で止めてしまうことです。それが「やるべきことはやりなさい」、「ダメなことはダメ」の論理です。ここからしつけは「型」の「強制」を原点とし、「他律」を出発点とすることが明らかです。
 もちろん、体力や耐性は生きて行くための基礎であり、学ぶことの土台です。指導者を中心とし、教えること―鍛えることを教育の中核としなければ、「生きる力」の基礎も土台も形成することはできない、ということです。
 たくさんの授業を拝見して、幼少期の教育こそ「型」に徹するべきだと改めて確信いたしました。「考えること」を教えようとする「新学力観」は、総合的学習や道徳教育においてまさに破綻しています。「考える」まねごとの授業は、実践を伴わぬ「口達者」な若者ばかりを生むことでしょう。先日、ある町で「いもうと」という「いじめ」の朗読劇を拝見しました。些細なことばのアクセントの違いから友だちのいじめが始まります。主人公は、不登校に陥った末に引き蘢り、とうとう立ち直れないままに病いに犯されて死んで行く「いもうと」でした。劇は、同級生の子ども達が種々反省し,最終的に、いじめは止めようということになる話でした。劇の途中で、筆者は、作者に対しても、劇を演出した教師に対しても、"「教師」は何をやっているのか"、と叫びだしそうでした。子どもが生まれる前から「やってはならないことはやってはならない」ときまっているのです。「やるべきことはやらなければならない」と決まっているのです。それを教えるのが指導者です。子どもに答えを出させる問題ではないのです。いじめは第一義的に子どもの自覚の問題ではないのです。教師の自覚の問題です。ありもしない子どもの主体性に期待するから,いじめの加害が続いているのです。共同生活の義務と礼節を厳しく教え,自分でやらせ,自分で責任を取らせることから主体性は育つのです。「いもうと」の場合、加害者は教師が叩いてでも止めなければならない問題なのです。戦後教育はその程度のことを理解しなかったのです。

4 幼少期における「型」の教育

 基本的生活習慣は日常行動のリズムであり、健康や集団生活の基本型です。作法や礼節は人間関係の基本型でしょう。表現の力はコミュニケーションの型の上に形成されます。当然、日本語の基礎知識は「文型」と呼ばれる言語の型です。これらは全て体験を通して体得すべきことがらです。知育の「枠」を遥かにはみ出しています。まして、現状の学校のように関連の理屈を言葉で教えて,子どもの考えを言わせるなどという方法では全く歯が立つ筈はありません。また,学校は「体得」に対する「知育」の無力の反省に立って,総合的学習に代表されるはやりの体験活動を導入しました。しかし、定められたわずかの時間で子どもが1?2回やってみただけではダメなのです。「体得」の原則は3つです。「やったことのないことはできない」。「教わってなければやり方は分からない」。「練習しなければ上手にはならない」。現代の子どもにはどの条件も不可欠ですが、学校教育においては第3の条件こそが致命的に欠如しているのです。「社会化」の基本を達成するために,保護者に呼びかけ,家庭との連携が不可欠になるのはそのためです。

5 「子ども観」の転換

  戦後教育の失敗の背景には「児童中心主義」の「子ども観」があります。教育において子どもを主役にすれば,子どもの言うことに耳傾けねばなりません。カウンセリングの言う「受容」が過剰になります。児童を中心に置けば,彼らの興味関心も,欲求も無視できなくなります。時には「わがまま」も「勝手」も受け入れなければならなくなります。加えて,子どもを指導者と対等に置く法律上の人権思想を教育の現場に持ち込めば,「半人前」の指導は極めて難しくなります。指導者は子どもの意に反して指示や命令ができなくなるからです。「子宝の風土」はもともと子どもが中心の風土です。そのような風土に「児童中心主義」を導入して屋上屋を重ねてはならなかったのです。
 家庭や社会教育との連携を図っても,地域のゲストティーチャーを導入しても根本の「子ども観」を転換し,教師・指導者を中心に置き,幼少期の「鍛錬」と「反復」の重要性を理解しないかぎり,総合的学習も生活科もたわいのない「ゴッコ遊び」に堕するのは当然です。教育の失敗は、共同生活に不適応で他者の迷惑に配慮しないたくさんの「半人前」を世の中に送り出すことになるでしょう。彼らは教育界の枠をはみ出し,世の中のあらゆるところで傍若無人に振る舞い,諍いを起こし,非行に走り,犯罪を犯し、いつかは教育公害と呼ばれる存在になることでしょう。
 しつけを回復し、教えることを復権しないかぎり教育公害を止めることはできないのです。

 


 

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