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風の便り
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生涯学習通信
「風の便り」(第95号)
発行日:平成19年11月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. 女性の沈黙の文化的背景 〜「謙譲の美徳」-主張と表現の抑制〜
2. 図書館と生涯学習
3. 子どもの「難所」の助言
4. 幼少年指導法の鍵
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
幼少年指導法の鍵 「集団」を鍛え、集団の中の「個」を鍛える ■1■ 共同生活が前提 社会を前提とし、共同生活を不可欠とする限り、個人は集団の中で生きなければなりません。成人は時と場合によって社会と縁を切って仙人のように生きることはできますが、生存そのものを家族と社会に依存している子どもは共同生活を離れて生きることはできません。しつけにおいても、教育においても、子ども個人の要求より共同社会の必要が優先されるべき理由はこの一点に凝集されています。 しつけは共同社会を前提として行い、作法も、礼節も、コミュニケーションの技術も他者の存在を想定して教えます。したがって、しつけも教育も第一義的には子どものためではなく、社会のためであると前号に書いた通りです。 当然、個人は共同生活の中で社会化されます。社会化は、個人を社会に適応させることであり、幼少年期における個人の能力の開発は共同生活への適応と同時進行させるべきものです。子どもは集団の社会化を経て、ヒト科の動物から人間になるということです。ピアノが弾けても、野球が上手でも、勉強が得意でも、共同生活に失敗するのはしつけや教育が共同生活を優先しないで、子どもの能力開発を優先するからです。 小学校の指導プログラムに関わって、指導の仕方さえ間違えなければ、集団は様々な局面で子ども個人を成長させるだけでなく、子どもの弱点をカバーしてくれることを再確認しました。集団は遅れがちな個人を引っ張って行きます。集団は個別の羞恥心を消してくれます。集団が連帯を生み出せば、集団の力も、個人の力も最大に引き上げます。連帯の中で「みんながんばる」から「君もがんばって」という「集団圧力」が働き、「みんながそうする」から「僕もそうする」という「同調行動」が起こるのです。 ■2■ 「風」に学ぶ、「風」で教える 集団に向上の「風」が吹いていれば、子どもは「向上心」に感化されます。少しの失敗や羞恥心は集団の中に埋没してしまいます。したがって個人を最小限にしか傷つけなくて済みます。集団の空気と力学は遅れた子どもを引っ張り、指導者が教えないことでも子どもは進んで仲間から学ぶのです。 それが「家風」であり、「校風」です。「集団の風土・社会的風土」です。「集団の風土」が出来上がって、この集団の中では「かくあるべきだ」という「風」が一度吹き始めれば、「風」は集団の圧力となって個人を律し、集団をも律します。従来の「家訓」や「校訓」は「風」が止まるのを防ぐための工夫なのです。 集団の圧力に背中を押されて、「みんなで渡れば恐くない」のは学習やトレーニングにおいても人間の真実なのです。プラスの意味でも、マイナスの意味でも流行や同調が人々の考えを左右するのは「風」の効果です。 昨今の風潮のように、個性主義、個別主義の影響を受けて、個人だけを取り出して鍛えようとすれば、時間も労力も大変な負担になります。しかも、子どもは向かい合った指導者の「ちから」の影響しか受けません。指導者が特別に優れている場合は別ですが、平均的な指導者がマンツーマンで教えても、子ども自身の力と指導者の力の足し算だけでは、格別の進歩は期待できません。指導者に秀でた創造性がなければ、子どもの創造性も育つ筈はありません。 集団の利点は個人を越えた集団の力が個人を引っ張るところです。当該個人が集団の中で最も優れていた場合でも、当該個人はリーダーとして、集団を引っ張る任務の中で更なる力を発揮します。役割や立場が人間を鍛えることは知られた事実です。メンバー個々人に注目する必要があった場合でも、集団の中で鍛え、次に小グループでトレーニングし、最後に、個人に分ければ、個人は、自分の力も、他者との同調も、集団をリードすることも、集団にリードされることも同時進行的に学び、心身の全機能を総動員したトレーニングの成果は容易には消えません。褒め方も、叱り方も、改善の「方向を示して」集団を「激励」するのです。 褒め方も、叱り方も、集団の中の個人を励まし、「君ならできる」と背中を押し、具体的な目標を示して、「もう少しの我慢だ」と努力の「時間枠」を知らせる事が大切です。「見所がある」、「進歩している」と確信を持って大声で褒め、これだけがんばっている集団のメンバーが「向上の途中で諦めてなるものか」と、集団の名において、確信を持って大声で叱るのです。 ■3■ 「一人一人を大切にする」ことは教育の個別主義では達成できません 幼少年教育は「一人一人を大切にする」というような個性尊重や個別指導のスローガンに振り回されてはならないのです。個性にせよ、創造性にせよ、共同生活を生き抜く基本が身についていないものに花咲く筈はないのです。それゆえ、「習熟度別クラス」はできるだけやらない方がいいのです。第一あなたは遅れているから別に教えます、というメッセージは本人を貶め、他の子どもを増長させかねません。「習熟度別」の名において子どもを侮辱してはならないのです。 第一、子どもの数だけカリキュラムは存在しません。財源も存在しません。個性主義、個別指導の発想は「風の力」を見落しているのです。幼少年教育は集団が先です。集団を鍛えて、集団に「語るに値するもの」を与えることが先です。その集団のメンバーでいることが誇りになるような課題と達成を与えることが大事なのです。成果も、思い出も、辛いことも仲間と分かち合える集団の中で「友情」も、「仲間」も育つのです。幼少年期が「ギャングエイジ(Gang Age)」と呼ばれるのも頷けるでしょう。 幼少年期の「個」は集団の中で鍛えるのです。集団が先、共同生活が先です。しかも、小集団や集団の中の個人の役割を際立たせることによって、集団の中に「個」を埋没させないことも十分可能なのです。指導は「師弟同行」が原則です。先生でも、親でも一緒にやってくださる人々が身近にいれば子どもは勇気百倍です。 発表会の集団演技も、学級崩壊も、いじめの蔓延も、教育の成否は集団の「風」のコントロールにかかっています。「いじめは卑怯」、「いじめは断固許さない」という「風」の中でいじめは起こらないのです。崩壊した学級も、止まらないいじめも「一人一人を大切にする」教育が生んだのです。整列もできない、行進もできない、授業すら成立しない教室がどうして「一人一人」を大切にできるでしょうか! ■4■ 「できるのが先か」、「分かるのが先か」 新学力感は考える力を重視し、興味や関心や態度を重視します。しかし、「考えても」、「分かっても」できないものはできません。算数も、書き取りも、縄跳びも、いろはカルタも、ソーラン節の踊りも同じです。 「できるのが先か」、「分かるのが先か」と問われれば、幼少年期の教育は「できるのが先」に決まっています。「できないこと」が面白い筈はないのです。「なぜそうなるか」が分かるのはずっと先でいいのです。 さらに、何よりも「できないこと」が「できるようになる」のは子どもの「機能快」だからです。「できた!!」時には「快感ホルモン」が分泌するのです。それゆえ、「トレーニング」が先:「反復練習」が先です。通常練習は単調で、その反復は辛いものです。だからこそ集団練習がいいのです。辛いこともみんなで分ければそれほど辛くはなくなるのです。達成できたときの充実も、褒めていただいたときの嬉しさもみんなの「語り草」になります。 「新学力観」のいう関心や態度は「できる」ようになれば、必ず湧いてきます。ものごとの奥の深さも分かってきます。「考えること」はものごとに習熟したあとでいいのです。基礎的トレーニングが終ったあとでいいのです。筆者が関わっている学校の玄関には「気付いて」→「考えて」→「実行する」と標語がありました。そういう場合もあるでしょう。しかし、幼少年期の大部分はやってみて初めて「気づき」、「考える」のです。「実行する」→「気付く」→「考える」が普通です。教育課程審議会のみなさんも自分の幼いときを思い起こしてみるべきです。幼少年教育は断固として「できるようにする」ことが先です。未だ「自分のこともできない」、「自分のことも決められない」ヒト科の動物に、「分析」や「理由付け」など余り高度なことを要求してはならないのです。
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