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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第85号)

発行日:平成19年1月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「精神の固定化」 熟年の衰退 −日本の停滞

2. 「風の便り」・「生涯学習フォーラム」の自立

3. 『これからの人生:The Active Senior-「安楽余生」論の落し穴』 

4. 「再生会議」の体罰再考

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「再生会議」の体罰再考

1  学校教育法第11条「体罰禁止」条項の見直し

  「子宝の風土」で「体罰」の再考を論じるのは大変である。世は挙げて「児童中心主義」である。世間の「風」は子どもの人権、子どもの主体性を守れと合唱している。筆者は教育の様々な方法を駆使して、被害者の自由と権利を守れと言いたいのであるが、筆者の「体罰」再考論、「被害者の立場」論について反応はない。講演の機会をいただいた時にも、すでに何回か提案したが、"昔はよく叱られたもんだ"という程度の感想が返って来るだけである。「風の便り」の読者も含めて誰一人反応はない、ということは「体罰」論はほとんど「タブー」に近い、ということだろう。うっかり同意すれば、世間を敵に廻し、学校を敵に廻し、人権世論の「向かい風」をまともに受けることになるからであろう。
  しかし、ようやく孤独な論理に一条の光が射してきたような気がする。安部内閣の教育再生会議の提案がそれである。当たり前のことを当たり前に考えてくれる人がいたと分かったことはとにかく救われた思いである。
  現在の学校はルール違反者を物理的に処罰しない。子どもは指導者をなめきって、注意や叱責はほとんど効果を発揮しない。確かに学校も規範は教えているのであろうが、実効を担保できない口先の指導では、「ぬかに釘」で「馬耳東風」であろう。学生時代以来子どもの直接指導にあたってきた筆者の経験では、低学年の学級崩壊とか、いじめの放置とかは全く理解できない。幼少年期の危険回避の第1原則は、「強迫」と「強制」である。その子にも、ほかの子にもあぶないことを止めない時は、大声で怒鳴り挙げて、時に、尻を叩き、危険物を持った手や足を叩くのは当たり前である。未熟な子どもに煮えたぎった鍋ややかんの危険性を説明している暇はない。
  しかし、自らの「首」を覚悟でなければ、教師は、教室のルール違反者を統制する物理的な措置は何一つできまい。何度か書いたが、未熟な子どものルール違反に対する物理的処罰を全面的に禁止して、指導を行え、というのは教育行政の教師への裏切りである。文科省の幹部も、県教委の幹部も荒れた中学の教室に立ってからものを言え、ということである。
  戦前の狂気のごとき軍事教練や体罰の日常化に対する反動と反省と思えば、学校教育法第11条を制定した時の「体罰の全面禁止」の感情は理解できないことではないが、この世に物理的処罰がなくていいのであれば、刑務所はいらない。人間の自由を保障するためには、自由を侵害する人間は拘束しなければならない。いじめや恐喝で友だちの人権を侵害する子どもも当然物理的に処罰されなければならない。まして、子どもは「ヒト科の動物」から「人間」になろうとする成長の過渡期にあるのである。未熟な「ヒト科の動物」に人間の理性を過剰期待することは教育の自殺である。


2  内閣法制局長官の回答

  戦後初期、教育の使命感を維持していた頃は、具体的指導の場面で行政もほとほと困ったのであろう。「体罰」の解釈を巡って、当時の文部省は内閣法制局長官に向かって質問を発している。
「『体罰』とは具体的にどこからどこまでを含むのか?」
内閣法制局長官の回答は、教師の力量の限界や教育指導効果に全く配慮しない八方ふさがりの「全面禁止」論であった。示された「体罰」の解釈は「立たせること」から「正座」まであらゆる身体的拘束を含む、とされたのである。先人の智恵は「つの付く年までは叩いてでも教えよ」である。人々の自由や人権を侵害するものは、いまだ「ひと科の動物である」子どもであるからこそ「体罰」を持ってでも早いうちに「やってはならないこと」のしつけを確立しなければならない。「子宝の風土」の大事な子どもといえども、他の子どもの自由と人権を守るためには、加害者を物理的に拘束するのは当然である。
  子どもを処罰する論理は社会の論理である。当然、簡単にして明瞭である。しばらく目をつぶって自分や自分の愛するものが自由を拘束され、人権を侵害された時のことを想像してみればいい。背景にどのような理由があったにせよ、いじめは「悪」であり、おやじ狩りや対教師暴力は犯罪である。「虐める子ども」もまた「虐められっ子」なのです、などと間の抜けたことをテレビで発言する評論家がいるが、だからどうしたというのか!「虐められた子」だから「いじめてもいいのだ」とでもいいたいのか!?
  対応原則は単純でなければ子どもには伝わらない。「ダメなものはダメ」なのである。前回、いじめが蔓延るのは、「風」が死んだからだと書いた。「いじめは悪」で、「いじめは卑怯」で、「いじめは美しくない」という「風」は家風の中でも、校風の中でも死んだのである。「いじめたらただでは置かない」という気分と規範が存在しないからである。「風」が絶えたのは構成員が一致して規範を守ろうとしないからであり、構成員が一致しないのは組織の管理職に最大の責任がある。教師が言って聞かせたくらいではいうことを聞かない加害者の子どもをどうするのか?教育行政も学校もこの単純な問いにずっと答えていないのである。
  法治国家である以上馬鹿な法律でも決められたことは守らなければならない。しかし多くの矛盾が発生し続けたら、法そのものの改正を提案するのが担当部局の義務ではないのか?「義務教育課長」の提言は一度も聞こえてきたことはない。
  教育行政は荒れた学校や疲労困憊の末に病気になる教師を見ているはずである。理由は「人権論」であれ、「主体性論」であれ、保護者の無関心とわがままであれ、行政はすべてを学校に押し付けて、具体的には何もしなかったのではないか!?法律や行政の後ろ楯がなければ、「民主教育」は虚弱である。ルール違反は「見てみぬ振りをし」、教育指導は「やったふりをする」。多くの学校が、加害者にお座なりの説教だけをして、決して被害者を守ろうとはしなかったのはそのためであろう。いじめや恐喝の放置はその典型である。子どもの「学習権」などときれいごとを並べながら、荒れた教室でも、荒れた学校でも勉強したい児童・生徒の「学習権」を保障することは困難であった。教師を無力、無気力にしたのは保護者もまた同罪である。無責任で、自分勝手で、過保護・過干渉の親に向かって教育行政が個々の教師の努力をどこまで守ろうとしたか?
  体罰の範囲や種類の限定、体罰執行者の特定、実施上の手続きなど検討・考慮すべきことは山ほどあるが、とにかくルール違反者を処罰することなしに子どもの規範を確立することはできない。教育は口先の仕事ではない。師弟は同行し、手本はやって見せ、時には社会を代表して子どもを罰しなければならない。筆者は教育公害を予告し、その発生源は教育行政及び学校の児童中心主義と「子宝の風土」の「抑制機能」を失った無責任な親であるとしてきたが、「体罰」の再考によって教育環境は大きく変わるであろう。教育の3原則は、「やったことのないことはできない。教わっていないことは分らない。反復と練習を積まなければ上手にはならない」である。一方、しつけと徳育の原点は「ダメなものはダメ」である。禁止事項は少数でいい。「親は大事にしろ」、「人のものを勝手に取るな」、「虐めるな」、「指導者を敬え」ぐらいで丁度いい。これらが徹底できるようであれば、教師に対する信頼も集まる。子どもの主体性や、ゆとりや、口先の説諭をもって子どもの規範を確立することはできない。このままで行けば必ず教育公害の時代が来る。教育は曲り角にさしかかっている。教育再生会議の問題提起を始め、論ずべきことには事欠かない。
 

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