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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第76号)

発行日:平成18年4月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 首長部局の生涯学習

2. 2007年問題−その4 「親孝行したくないのに親が生き」

3. A小学校への提案− その2「なる」から「する」へ−「学力保障」の基本視点−

4. 第66回生涯学習フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

A小学校への提案− その2「なる」から「する」へ−「学力保障」の基本視点−

◆ 1 ◆  甘い日本語発想

  日本語の教育発想はいかにも甘い。我々は"いい娘になった"と言う。"立派な跡継ぎになった"とも言う。あたかも山の木々が自然に"大きくなった"かのようである。ほとんどの人間の子どもは、実際には、多くの人の手が加わって「いい娘」に「した」のであり、「立派な跡継ぎ」に「した」のである。青年や成人はいざ知らず、幼少年教育の本質は「なる」ではなく、「する」である。幼少年教育は基本的に「他動詞」で語らねばならない。
  「学力保障」の考え方も原理は同じである。「学力」が「つく」のではない。「学力」を「つける」のである。繰り返して論じたように、体力と耐性を欠落すれば学力は育たない。「学力」を「つける」べきあらゆるトレーニングがなりたたないからである。体力がなければ身体的努力の持続は困難を極める。耐性がなければ心理的・精神的に踏ん張りがきかない。「学力」を「つける」ためには、少なくとも一定期間の「集中」と「継続」が不可欠である。それゆえ、学力向上のための耐性とは「集中」と「抑制」の能力を意味する。勉強に集中できなければ学力は上がらない。遊び心を抑制できなければ、当然、勉強は続かない。
  体力と耐性を欠いた子どもの指導は、基礎工事を欠いた建築のようなものである。基礎工事が終っていないのに柱も、壁も、屋根も作れないのは当然である。学力保障には順序性があるのである。岸本は学力を「見える学力」と「見えない学力」に二分したが、筆者はもう少し広く分類している。なぜなら体力や耐性は"見える、見えないにかかわらず"「学力」の概念に含めることはできないからである。それはまさしく文部科学省が唱導した「生きる力」の概念に含めるしかない。「学力」も「生きる力」も「つく」のではなく「つける」のである。両者が第3者の手が加わった「他動詞」であることを理解すれば、子どもは基本的に「育つ」のではなく、「育てる」のであり、少年は社会生活に必要な諸々の知識/技術を「理解させ」・「体得させる」のである。子どもの発達が別名「社会化」と呼ばれるのも同じ理由である。「教育」は確かに「教える」部分と、自然に子ども自身の内在する力によって「育つ」部分を含んではいるが、原則的には「教えて」、「育てる」というように他動詞を二つ重ねることが正しいのである。幼少年期の教育は子どもの成長が「自転」を始めるまで、「学び」のあらゆる領域において、その子にかかわるものが背中を押してやらなければ先へは進めないのである。社会が「教育」を「義務」にしなければならなかったのはその為である。少年教育の原点は「する」であって、「なる」ではない。

◆ 2 ◆  学力向上の基礎工事は授業だけではできない−指導主事の錯覚−

  これまで多くの優秀と言われる指導主事にお目にかかった。しかし、彼らの多くは授業の達人ではあっても、学校を過信し、授業を過信し、子どもの現実が目に見えていない。どんな上手な授業をしても、子どもに体力と耐性が欠如していれば、授業は子どもに届かない。何よりの証拠は、過保護と放任が同時存在する現代の教育環境の中で「少年の危機」は多発し、学校は保護者の信頼を得ていない。多くの子どもは心身共に「へなへな」である。学校が専門とする「学力」についても世間が心配する通りの実態である。授業の土台は体力と耐性である。この二つを欠けば授業に限らずどんなトレーニングにも集中できず、努力の継続はできない。家の建築には土台を固めることが先なのである。ところが必要な体力と耐性は学校の授業の中:カリキュラムの時間制限の中だけでは十分に育てることができない。体力も耐性もその育成には時間を要し、適切なプログラムを必要とする。少年の現在に、体力と耐性が欠如しているということは、幼少年期の長い時間と教育機会をロスしたということを意味している。換言すれば、事前の幼少年期の生活指導や教育的トレーニングが何らかの理由で実っていないのである。失った時間とプログラム指導の機会を取り戻すことは決して簡単ではない。それゆえ、「学力」の基礎工事には課外時間の教育的補完作業が必要である。教育的補完とは、たとえばスポーツや野外の遊びのような体力を育成するプログラム、社会規範や生活習慣確立のための「集団活動」、協力や責任を伴う「困難体験」プログラムなどの実施である。放課後や長期の休暇中にこれらのプログラムが実施できれば、いまだ多くの可塑性を残している少年の体力や耐性は回復可能である。学校教育が「フレックスタイム制」を導入し、子どもに関わる時間を延長し、放課後や夏期休暇のプログラムの指導を実施すれば少年の「生きる力」を向上させ、当然、「学力」を向上させることができる。真の問題は授業法の良し、悪しではない。発問や指導案の細部にこだわる指導主事の妄言に振り回されてはならない。真に子どもの学力を「保障」したいというのならば、学校における人権同和教育の第1歩は子どもの課外活動の指導に着手することである。

◆ 3 ◆  人生を生き抜くのは子どもである

  人生を生き抜くのは子どもである。「学力保障」とは子どもに世間を生きて行く基本条件を備えてやることである。これまで人間性が変わらなかったように、これからも人間性は変わらないであろう。人間の「業」も、「原罪」も変わらないであろう。くり返しになるがこれらは教育の歯が立つ「相手」ではない。したがって、「悪」も、「慾」も、「憎しみ」も、「いじめ」も続くであろう。その中で人生を生き抜く為に戦うのは子どもである。その子どもの「学力」が低いとすれば、学力を向上させることがその子に力を与えることである。人権同和教育を標榜して学校に定員以上の教員(加配教員)を配置したのは基本的に子どもの「学力を保障する」ためではなかったか?
  筆者の分析が正しければ、課外や休暇中の体力や耐性、幅広い体験プログラムの教育的補完を実行しない限り、学力に遅れをとった子どもの「学力保障」はあり得ない。その為には学校の授業発想を物理的に課外や休暇中にまで拡大しなければならない。それゆえ、教員のフレックスタイム制=時差出勤制が必要になるのである。放課後の補習と子育て支援をなぜ結合しないのか?休暇中の子どもの安全と課外プログラムの学校指導をなぜ結合しないのか?学校が「学力保障」の理念を掲げ、子どもの人権教育を論ずるのであれば、まずは子ども自身の「生きる力」をこそつけてやるべきではないのか?教員の理想や人権理念の説明を繰り返したところで、子どもの力は自然発生的に「つく」ものではない。力をつけるべきプログラムの実践によって実力を「つけてやる」しか方法はないのである。教育は「なる」のではない、「する」のである。
 

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