「生きていれば良いこともある」か!?
『生きていれば良いこともある』とは、藤沢周平の短編「静かな木」の主人公の最後の独白である。作家最後の短編を含むと文庫本の「帯」の広告にあったので駅のKioskで買って東京行きの列車に乗った。潤いのある文体、簡潔な省略形に舌を巻いたが、何よりも主人公を巡る家族、友人の話が実にいい物語であった。老境に向かう主人公布施孫佐衛門は葉を落とし、裸木になって静かに立っている冬の欅の大木にあこがれ、『あのような最後が迎えられればいい』としばしば思っていたのである。ところが静かな木のような老境どころか家族に降り掛かる問題の解決に奔走し、争闘に巻き込まれ、ようやく一段落を迎える。季節が移り、今度は青葉におおわれた欅の老木を仰ぎ見て「これも悪くない」と思った。孫左衛門の実感は『生きていれば良いこともある』であった。ある程度人生を見切りをつけた事件の前と問題を切り抜け人々の信頼を回復した事件の後とでは孫左衛門の感想には大きな落差がある。風が渡って欅の梢を揺すった音が聞こえた。青葉の欅は孫佐衛門を笑ったようである、で物語は終る。
「三屋清左衛門残日録」の清左衛門にしても、この孫左衛門にしても藤沢文学に登場する老年は我がお手本である。希望は失っていないが己の限界を知っている。多くは望まないが、努力は惜しまない。若い人々を尊重するが、若さに媚びることはしない。そして孫左衛門のように、老境の今も、己の感情や姿勢がはなはだ不安定で心もとない事も自覚している。青葉にさえも笑われるのである。今風に言えば、人々に交わって日々生涯スポーツと生涯学習とボランティアを欠かさないが、諦めや悟りにはほど遠いのである。
年の暮れから新年にかけて6回に渡った長崎の校長会講演は反応の得られない苦行になった。五島も、対馬も、壱岐も、島原も、佐世保も、松浦も行った。テーマは「学校支援会議」である。筆者の提案は71号の巻頭小論の通りである。事例にも論調にも筆者なりの工夫をしたが校長もPTA会長も、聴衆からの反応はなかった。引越しの最中に妻の手伝いもせず何と無益なことにエネルギーを費やしていることか、と正直なところ腹が立った。講演への無反応は講演者の責任であるが、我が身の事は棚に挙げて、他の所はこれほどまでに冷たくはないのだと負け惜しみを思った。
小泉改革はなぜ学校や教育行政にメスをいれないのか!?彼らこそが「へなへなの子ども」、日本の停滞のA級戦犯であり、やる気のない公立学校などは滅んでしまえと佐世保の海に思った。むなしいことをしていると思えば、自然と論調がきつくなる。学校施設を地域に開放することもなく、保護者の信頼も4%台に留まっている学校(内閣府調査)は子どもを一人前に育てる「守役」の名に値せず、子育て支援の「天敵」であるとまで悪態をついた。地域との交流を経験したことのない退職校長を公民館長に迎えるなどは最悪の人事である、と毒づいた。2度と県教委のおだてに乗って「憎まれ役」の講演など引き受けない、と心秘かに思ったものであった。最後の会は島原半島の外れ、雲仙市の南串山の会場であったが、帰りは列車の乗り継ぎが上手く行かず、晩飯抜きの10時過ぎになった。空腹と疲れで怒りは増幅される。
ところがである。一番無反応であると感じた会場の校長先生からお電話を頂戴して、教育長以下「寺子屋」の実践について学校経営の参考にしたいので聴講、見学をお願いしたいというのである。誠に大袈裟であるが「生きていれば良いこともある」と思った。県教委の依頼も断らなくて良かった、と思った。感情とは現金なものである。折から寒さが幾らか和らぎ、朝の散歩で小犬のカイザーと登った森の丘の頂きから玄界の海が美しく見えた。風はどことなく春めき、たった1本の電話で意欲と活力を取り戻した自分を笑ったようだと、孫左衛門と同じような感想を持った。
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