「生きる力」の構成要因と順序性
子どもにとっても、熟年にとっても「生きる力」の構成要因には順序性・段階性があります。それは心理学者マズローの唱える「欲求のハイラ−キー」のように人間の「動物性」から「人間性」への進化の順序・段階を反映しているということであると考えられます。
◆ 1 ◆ 動物の力と人間の力 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「生きる」ということは動物として生きることと、社会人として生活し、世間の人間関係の中で生きるということの両方があります。動物としての人間が生きることと、社会的人間として生きることとは様々な条件の順序性が異なるのです。もちろん動物としての資質が基本で、社会的人間の条件はそのあとにきます。換言すれば、「生きる力」の動物的側面が先で、人間的側面が後と言うこともできるでしょう。
この時心理学者マズローが考えた「人間欲求のハイラ−キ−」の発想が参考になります。マズローは人間の欲求には段階性があると考えました。マズローは幸福の条件としてまず「生理的または生存の欲求」を満たさなければならないと考えました。食べるものさえない状態では、食欲を満たすということ以外の人間の要求などに気が廻らなくなるのは当然だからです。欲求の第1段階は動物的欲求を満たすということです。次に「安全の欲求」を満たすのです。安全という問題は動物的欲求と社会的人間の欲求の中間ぐらいのところに位置すると考えて間違いはないでしょう。
そこから先は社会的人間の欲求です。すなわち、「愛情および帰属の欲求」を満たし、それらが満たされた上で「社会的承認の欲求と尊敬の欲求」を満たし、最後に「自己実現の欲求」を満たすというのです。マズローの指摘を図示すると次のようなピラミッドになります。
「生きる力」の分析にも同じような発想が適用できると考えました。マズローが分析したように、人間は「動物的存在」であり、同時に「社会的存在」でもあります。人間の幸福のためには動物的欲求も、社会的人間の欲求も順序があり、それぞれ段階的に満たさなければならないのです。同じように、「生きる力」の向上にも動物的な生きる力と社会的に生活する上での人間的な「生きる力」にも順序性があり、その両方が段階的に達成される必要があるのです。
マズローによる人間欲求のハイラ−キー(*)
(*) A.H.Maslow, Motivation and Personality, Harper and Brothers, Newyork,
2nd ed. 1970
◆ 2 ◆ 「生きる力」の構成要因の順序性 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
人間の欲求が「動物的欲求」と「社会的欲求」に分けられるように「生きる力」も動物的な力と社会的・人間的な力に分かれます。「体力」が尽きた時に鳥も獣も人間もその生存を終ることを考えれば、動物にとって「生きる力」の第1は「体力」であり、生存に不可欠な「運動能力」ということになります。すなわち人間における動物的な個体としての「生きる力」の基本は、基礎「体力」や基礎的な「運動能力」のことを意味します。これが「生きる力」の第1条件です。基本条件の第2は社会的動物が生存を続ける際の基本条件です。それは「個」が「集団」の要請に従い、集団との衝突や矛盾を回避するための「がまんする力」です。社会的動物が集団の中で生きるためには、「個体」は集団の「掟」に従わなければなりません。「がまんする力」は個体としての自分の欲求にブレーキをかけて集団的行動を取るための条件になります。犬を始めとして、動物のしつけなどの事例から考えるとがまんの能力は動物と人間の両方にまたがる資質であると思われます。通常、人間の場合、「がまんする力」は「耐性」と呼ばれます。自分の欲求に相反する状況や己の心情のいらだちに耐える力の意味です。それゆえ、耐性は必要な行動を実行する力を意味する「行動耐性」と自分にとって不本意な状況の中でも社会の約束に従って努力を続ける「欲求不満耐性」に分かれます。「行動耐性」は体力と重なっていて、かなり動物的な能力です。一方、「欲求不満耐性」の方は人間の社会的欲求や感情に関係しているので、極めて社会的条件に左右される能力であることが明らかです。実際の生活の中では両方は分ち難く組み合わさって人々が困難に立ち向かう力になっています。
「生きる力」を考える上で大切なことは「生きる力」を構成する諸要素の「順序性と段階性」です。マズローが欲求の「ハイラ−キー」を示して、人間の幸福が「生存の欲求」や「安全の欲求」を無視してより上位の「愛情や尊敬や自己実現」の欲求を満たすことができないと指摘したように、「生きる力」もまた「体力」や「耐性」が備わっていないのに学力や道徳性などより上位の社会的能力を開発することは極めて難しいということです。
◆ 3 ◆ 土台は「体力」と「耐性」 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
以上の通り「生きる力」の順序性と段階性を考慮すれば、その基本は「体力」と「耐性」であるということになります。この両者がその外の「生きる力」の構成要因を獲得するための土台になります。家を建てることに例えて考えてみれば、基礎工事の重要性は明らかでしょう。土台が固まっていないのに柱や壁を作ることは到底不可能なのです。屋根を葺くことなど思いもよりません。それゆえ、「生きる力」を構成する様々な要因を想定することは可能ですが、最も重要なことは構成要因には順序性・段階性があるということです。土台を無視して柱や屋根を作ることはできないのです。
それでは子どもがこの世で生きて行くための力にはどのようなものがあるでしょうか?人間が人間である以上、時代が変わっても変わらないものもあれば、変わるものもあるでしょう。職業ひとつをとっても時代が変われば要求される資質や能力も変わるはずですから、「生きる力」の構成要因もまた時代とともに変わる部分もあると考えるべきでしょう。そうなると時代が変わっても変わらないものが土台で、時代が変われば変わってしまう要因はその土台の上の上部要因ということになります。それゆえ、生き物の基本となる「体力」と「耐性」はいつの時代も土台です。柱はそれぞれの時代の職業を支える知識や技術;子どもの場合は基礎学力ということになるでしょう。熟年の場合は国際化の知識やコンピューターリテラシーのようなものでしょうか?
また、人間は社会の中で生きて行くのですから社会の決まりや約束を守る道徳的実践力も重要です。もちろん、価値や倫理は時代によって変わる部分も大いにありますので時代に照らして絶えざる検証を続けることが不可欠であることはいうまでもありません。共同生活のあり方も変わりました。したがって、協力の仕方も分担のやり方も変わりました。やさしや思いやりという言語上の表現は同じでも、それを行為や態度に現わす場合の表現方法も表現対象も多いに変わりました。
しかし、原理的に言えることは、「生きる力」の構成にどのような資質や要因を追加しようとも、土台なくして上部要因を積み上げることはできないのです。「体力」も「耐性」も獲得していない子どもに学力や道徳的実践力を教えることは不可能です。自分を制御するだけの力が備わっていないものに、どうして「思いやり」の行動や「やさしい態度」などをのぞむことができるでしょうか。子どもが授業に集中し、先生のお話を持続して聞くことができない時、学力のトレーニングはできないということです。子どもが自分を制御できない時社会のルールに従えというのは無理ということなのです。子どもの学力が向上しないのも、子どもが簡単に切れるのも、それらの大部分の原因は「生きる力」の土台の欠如;基礎工事の不十分さにあるのです。
原理は熟年期の場合も同じです。熟年が遭遇する「老い」は「体力」を衰弱させ、それに伴って心身の「耐性」が衰退します。「生きる力」の土台が崩壊することによって、結果的に人々を支えて来たその他の要因まで失わせることになるのだと考えられます。老少いずれの場合も「生きる力」の土台が問題なのです。子どもが遊びやスポーツなど身体運動によって体力を養うように、熟年も生涯スポーツを続けることによって若い時に獲得した「体力」を維持し、生涯学習によって心身の「耐性」を存続させることができれば、熟年期の活動も社会貢献も続けることが可能です。熟年期も「体力」と「耐性」さえ維持できれば、時代が要求する新しい知識を獲得し、社会の変化に対応した生き方を持続することはそれほど困難なことではない筈です。
「耐性」
一般的に「がまん強さ」のことをいう。耐性には、アルコール耐性とか、薬理耐性のような特別な使用法もあるが、子どもの発達に関わるものは「行動耐性」と「欲求不満耐性」である。行動耐性とは体力を基本とした身体的適応力や慣れを意味する。はじめは辛かったり、難しかったりすることでも、身体の慣れや適応力がついて、できるようになった場合「行動耐性」が向上したと言う。他方、「欲求不満耐性」の方は、心理的・精神的適応力を意味する。私たちが種々の障碍、妨害、困難により、欲求の実現が阻まれることがある。その時の緊張や不満が欲求不満である。緊張と不満の苦痛に耐えて、状況を判断し、適切な現実処理ができる能力を「欲求不満耐性」と呼ぶ。この能力が乏しいと状況の苦痛に耐えられず、感情的、防衛的に不適切な反応を起こしやすい。「きれる」というのがそれである。この能力を高めるためには、発達の各段階において、適度の挑戦、緊張、失敗、挫折など「欲求不満」を伴う体験を通っておくことが必要である。
◆ 4 ◆ 「生きる力」の再定義 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
筆者は「生きる力」の基本要因を五つに定めました。土台は「体力」と「耐性」です。残る3つは「学力」と「道徳的実践力」と「思いやりの態度」です。学力は職業生活上の必修条件です。道徳的実践力は社会生活・共同生活上の最低条件です。そして思いやりの態度ややさしい行為は社会生活・共同生活においてお互いを幸福にする必要条件です。
付加できる資質はまだまだあることでしょう。しかし、「生きる力」は人間が一人前であるためのミニマムエッセンシャル:最低必要条件です。これらを欠如すれば子どもは一人前に到達せず、年寄りは一人前から転落するのです。かくして「生きる力」の定義は教育行政が言って来たような鍛えるべき領域と方法論を欠落した抽象的な説明では実際の役には立たないのです。「問題を発見し、問題を解決する」というような定義では何をどのように指導すればいいかが全く分らないからです。
筆者の定義は次のようなものになります。
「生きる力」を養うとは、「体力」と「耐性」を土台とし、その上に職業の基本となる学力を獲得し、社会のルールに従う最低限の道徳的実践力を身につけ、お互いの幸福な共同生活を成り立たせる思いやりの態度を発達させることです。知識や概念や関係性は脳味噌を使って読書や講義など座学でも学ぶことができます。しかし、体力にしても、耐性にしても、態度や行動のあり方にしても、教室や教科書で学ぶことはできません。実技は実際にやってみない限り身につけることはほとんど不可能です。昔から「畳の上の水練」は役に立たない教育の代名詞になっているのです。
したがって、上記五つの要因のうち「学力」以外はすべて体得によって学ぶべきものです。その他の資質は土台も含めて学校教育が進めて来た脳に依存した座学や教科教育の学習方法では学ぶことができません。教育方法としての「体験」・「体得」が重要になるのはそのためです。それゆえ、現行の学校のように指導の大部分を教室の中の教科書や先生方の授業に依拠したやり方で「生きる力」が開発できないのは当然の結果なのです。
◆ 5 ◆ 熟年活力の向上 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
熟年の場合も原理は同じです。生涯学習や生涯スポーツで心身の機能を維持している人と何もしていない人の格差は如実に現れます。昨今指摘されている定年うつ病や生き甲斐の喪失や心身の衰弱は明らかに労働という特別活動を終えたあとの活動の喪失や停滞に関わっています。使わない機能は衰退し、やがて消滅することは生理学上の法則だからです。
熟年期の生涯学習やスポーツは本人の健康や機能維持を目的とすると同時に彼らが依存する福祉や医療システムを存続する上でも極めて重要な働きをしているのです。肉体も、頭脳も、精神ですらも使うことを止めれば直ちに一気に衰え始めます。熟年期の生涯学習やスポーツには心身の機能を保持存続させるという大事な目的があるのです。定年までは特別な工夫をしなくても「労働」という活動が心身の日々のトレーニングを受け持ってきました。しかし、「労働」の季節を終った熟年にはそれに代わる活動が必要になるのです。人間の活動は心身の能力を発揮させ、その活力を維持する働きをするからです。生涯学習も生涯スポーツもそのための一つの仕組みです。それゆえ、「老人憩いの家」のプログラムも、老人学級や高齢者大学などの社会教育のプログラムもそれなりの効果を発揮したのですが、ゲートボールやグラウンドゴルフ、歌と踊りと風呂と趣味と教養を組み合わせた高齢者プログラムでは熟年の「生きる力」を支えることは到底不十分でした。ましてこれらのプログラムにすら参加していない人々は坂を転げ落ちるように心身衰弱の道を辿っているのです。それが生涯学習格差です。
◆ 6 ◆ 楽しみの活動だけでいいか? ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
定年後の熟年の活動は楽で、楽しいだけでいいのでしょうか?熟年のための教育行政も、同じく福祉行政も基本的に施策を間違ったと思います。熟年であるなしに関わらず人々はその労働を通して社会から必要とされることの意義を学んでいるからです。「存在必要」の実感は定年がその分かれ目です。熟年は定年によって社会から必要とされない「無用の存在」に転落しているのです。自分の存在が人々から切実に必要とされない時、人が生きる意欲を失うのは当然でしょう。生きる意欲がしぼんで行けば、生きる力を保持する活動も難しくなって行くでしょう。熟年にとって向老期に社会に貢献し続けるボランティア活動やパートタイムの労働などが重要なのはそのためです。関係行政は高齢者の賃金体系を変えたり、ボランティア活動の「費用弁償制」を創設してでも、高齢者の社会参加を促すべきだったのです。多くの生涯現役の方々がお元気なのは心身の機能を使い続けているに留まらず、その活動を通して世の中のお役に立っているからです。無為、無活動によって衰弱した高齢者は、今や医療制度を破綻に追い込み、介護保険の大部分を大赤字に転落させました。高齢者に楽をして、遊んで暮らしてもらうというプログラムがいかに間違っているかはすでに現行福祉制度の破綻の危機によって証明されているのです。
生涯学習の「選択原理」は、生涯学習格差を生み出し、熟年期にこれらを「選ばなかった人々」をも、そしてそれらの人々が依存している社会制度をも直撃するという副作用を生んでいるのです。
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