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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第72号)

発行日:平成17年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 2007年問題への挑戦

2. 「豊津寺子屋」に見る「子どもの居場所」の総合評価

3. 「人生の時差」−16年前の教育論

4. 第62回フォーラムレポート

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

明けましておめでとうございます
2007年問題への挑戦

  2006年度は"2007年問題"への挑戦の年にしようと考えました。昨年の敬老の日に地区の自治会から「紅白まんじゅう」も届き、名実共に高齢社会の問題を論ずる資格が生じたと考えています。毎月の生涯学習フォーラムに継続的に高齢化に関する論文を提出します。2007年問題が含むであろう諸原因を分析し、生涯学習・生涯スポーツの視点で処方を論じて行こうと決心しました。2006年度が終る頃には、2007年問題の処方箋を1冊の書物にして世に問いたいと願っています。筆者も年を取りました。筆者の生き方が2007年問題への具体的な答になるとも想定しています。ほどにもなく、老いぼれて朽ち果てるか、それとも衰え行く心身をなだめながら多少は世の中のお役に立てるか、2006年度は新しい挑戦です。挑戦の答は生涯学習と生涯スポーツの中にあると信じています。衣食住学が21世紀の日本の必需品になったからです。

■1■ 「老い」を知らぬ研究の現状 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

  かつて、熟年の危機を論じた際に参考にした多くの文献が役に立たなかった実感があります。その最大の理由は、いまだ「老い」を知らぬ現役世代の研究者がおのれの「想像力」に頼って分析や提案をしているからだと感じました。この分野の研究は、現役の若い研究者だけに任せておくわけにはいかないのです。
  筆者が若かった頃と同じように、彼らはまだ「反応速度」の衰えも、平衡感覚の揺らぎも、頻発する「物忘れ」も、硬直化する筋肉と関節の悲哀も知らないでしょう。「入れ歯」を入れたことはなく、息が上がって「駅の階段を駆け上がれなくなった」現実も知らないのです。要は、「老い」を知らない研究者が「老い」の問題を書いているのです。2007年問題は、人口構成上圧倒的な重要性を持つ「団塊」の世代が、現役時代の想像を絶するダブルパンチを食らうのです。右のパンチは「定年」、左のパンチは「老い」です。


■■2■■ 先輩世代の無惨な衰え ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

  研究のヒントは先輩世代のおとろえにあります。筆者より10年先輩の世代は、戦後の瓦礫の中から今日の日本社会を創り上げました。先輩世代は、我々はもとより、団塊の世代に比べても、遥かに「タフ」で、働き者で、粗衣粗食に耐えた世代でした。その先輩世代ですら、定年後は見るも無惨に「おいぼれ」ました。先輩世代は、「定年」と「老い」のダブルパンチに身を持ちこたえることができなかったのです。その何よりの証拠が現在の医療費の破綻であり、介護費の大赤字であります。定年後の「生涯時間」が20年にも達した現在、「衰弱と死」に向かって緩やかにソフトランディングをすることがいかに難しいか、先輩世代が身を持って実証してくれたのです。高齢者大学も、老人憩いの家も、ゲートボールも、グランドゴルフも彼らの活力を支えることは出来ませんでした。働いている間はタフで、粗衣粗食に耐えた彼らが、職業を離れると同時に老い、衰えたということは熟年の活力が如何に「はたらく」ということと密接に関わっているかを暗示して余りあると考えるべきでしょう。熟年の活力にとって「はたらく」ということの意味はどこにあったのか?それが筆者の研究課題になって行くだろうと予想しています。定年は「労働」との訣別です。だったら、「労働」から「活動」への移行はどうするのか?どんな活動が「はたらく」ことの代替機能を果しうるのか?筆者の当面の研究仮説の答は「読み書き体操ボランティア」です。


■■■3■■■  熟年期の危機 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

  熟年期には、人々のライフサイクルに関わる心身の発達課題の上でも、職業や実生活に関わる社会的課題の上でも様々な人生の危険要因が待ち構えています。それらは基本的に心身の変化、生活の変化に対する「適応」の課題であると考えられます。それゆえ、加齢とともにやってくる危険要因についての知識と準備があれば、ある程度の問題は回避することが十分可能なのです。しかし、高齢社会への突入が叫ばれながら、労働や福祉の分野はもとより、生涯学習や生涯スポーツの分野ですら向老期に向けての知識も対応も極めて不十分であり、結果的に人々の実践はほとんど出来ていないというのが実情です。
  「準備不十分」の最大の理由は助言を行なうべき研究者も、実践の指導を行うべき指導者も、その大部分が「老い」を経験したことのない現役の若い世代だからであろうと思います。自分の若い時代を振り返っても、「若さ」が「老い」を理解することは難しいことです。「体験したこと」のないことをどうやったら理解できるでしょうか。ひとり一人が別々に分離されて存在しているという「人間の個体性」はいつも「共有」・「共感」を拒絶します。他者の痛みを分つことはできず、人の思いをわが思いにすることは至難のわざなのです。それゆえ、日本人は昔から、「他者の痛いのなら3年でも辛抱できる」と言ってきたのです。
  若い世代には、「入れ歯の不自由」は分らないのです。膝が痛いのも、腰が痛いのも、体力、気力が衰えるのも、若い人々の想像を越えているのです。未だ、親になったこともない人々に、子どもが巣立って親だけが取り残される状況の淋しさがどうして実感できるでしょうか。定年によって労働の季節が終ることは、見方を変えれば、熟年世代にとって、社会に必要とされない時間の始まりです。熟年期はこうした諸々のことが同時に起るのです。発達上の様々な変化への対応を体験したことのない現役世代に十分な理解を求めることは無理というものでしょう。また、彼らが十分に理解しないからと言って、その「鈍さ」を責めることもできないでしょう。彼らもやがて、次の世代から理解されず、順送りに「老い」の悲哀をなめることになるのです。人間にとって体験したことのないものを理解することは至難のことなのです。「存在の個体性」は頑固です。その頑固さ故に、人間は世界中に悲劇や不公平が存在していても平気で暮らすことができるのです。アイマスクをしたり、車椅子の体験をしても、その程度の事で障害者の状況が理解できるなどと想定する方が浅薄であることは言うまでもありません。人間は自分から切り離された他者の心身の状況を共有することは不可能なのです。それが人間の認識の限界であり、ひとりで生まれ、そして一人で死んで行く人間の宿命でもあります。それゆえ、「老い」もまたそれが現実のものとなるまで人々が実感できないのは当然なのです。いまだ老いを知らない現役担当者の指導や助言の多くが役に立たないのはそのためでしょう。
  筆者もまた自らが「老い」の領域に踏みこんではじめて、存在についても、老いについても「存在の個体性」をより一層実感するようになりました。眼鏡は3つも持っています。部分入れ歯の世話にもなりはじめました。腰も、膝もなだめなだめ使っています。階段には手摺を付けました。若い頃には想像も出来ない条件下で暮らしています。それゆえ、ますます生涯学習も生涯スポーツも必需品になったのです。今年は初めて熟年のための本を書く資格が整ったと実感しています。今度の本はこれから向老期に向かう人々のための未だ見ぬ人生の風景についての理論的地図でありたいと切に願っています。
 

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