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生涯学習通信

「風の便り」(第71号)

発行日:平成17年11月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「開かれた学校」の基本条件 −「学校支援会議」の背景−

2. 第61回生涯学習フォーラムレポート

3. アウトソーシングの株を買おう!!

4. 「型」の指導の成果を問う(ご案内) −「豊津寺子屋」合併前最終発表会−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「型」の指導の成果を問う(ご案内) −「豊津寺子屋」合併前最終発表会−

  福岡県京都郡豊津町も来る3月20日に周辺2町と合併し、「みやこ町」となります。今回が合併前の最終発表会になります。本事業の存続の可否は政治の判断であり、政治が決断するためには人々の声が政治に届かなければなりません。
  それゆえ、発表会には保護者、「有志指導者」はもとより、合併予定の3町の議員や行政関係者にもご案内を差し上げることにしました。直接子ども達を観察し、保護者や指導者の率直な意見・評価を伝えることが何よりも雄弁に事業の意義を語ることになると、実行委員会は判断したからです。
  
■ 1 ■ 「型」の指導は反教育的か!!? ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                                                         

  「豊津寺子屋」の指導法を説明するといわゆる進歩的と称する人々が「詰め込み」と言い、「強制」と言い、時には「軍国主義的」とまで言う。要するに「型」の指導は、子どもの「主体性」を無視した反教育的な方法であるという批判である。その方々は喜々として寺子屋へ通ってくる子ども達を知らない。前の晩から明日の準備をして眠る、という保護者の報告を知らない。指導にあたる人々が、決められた指導の枠の中で「自分でやってごらん」と子ども達に沢山の自由を与えていることを知らない。批判者の想像力が問われている。
  寺子屋が反教育的なプログラムだったとして、わが子の教育への注文に厳しい現代の親が果たして子どもを送って来るか?人生に熟達した「有志指導者」が納得して指導の原理に従うか?
  現状の子どものへなへなぶりは現代教育の結果ではないのか?戦後教育の思い込みは非論理的で、結果の検証を忘れている。自分達が関わった子どもの現状を棚に上げて、政治・教育のイデオロギーに毒された見方しかできていない。日本の教育の不幸の原因の一つがそこにある。
  やったことのないことは出来ない。教わったことのないことはわからない。反復して練習を積まなければ上手にできるようにはならない。そのため少年教育の出発点は「型」の指導から始めるしかないのである!!まして未だ発展途上にある「半人前」の子どもの自主性や自発性に基礎・基本の「学び」を委ねることくらい危険なことはない。


■ 2 ■ 「体得」を重視、「型」の指導を導入 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                                             

人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感・会得する「体得」がある。学習も、体得も「学ぶこと」には違いない。それゆえ、二つの概念の理解が混乱する。「学習」は脳を使う。知識や考え方や関係を学ぶ。これに対して「体得」は身体で学ぶ。学ぶのは主として「生き方」であり、「やり方」である。体得の対象は知識ではない。実践である。
  「身体で覚える」ということは、自分の状況を自分の身体で確認することである。何よりも言葉による「ごまかし」がきかない。「身にしみる」、「腑に落ちる」、「自然に手が動く」、「身につく」、「身体が反応する」、というのが「体得」である。「体得」は「体験」を通して学ぶ。それゆえ、昨今の「体験学習」という言い方は概念が混乱している。当然、「体験体得」と呼ぶべきである。教科教育が学校を支配し、学校がその影響力を増した時、「学ぶこと」は「学習」に偏り、「体得」は忘れられた概念となったのである。
  しかし、事実は明瞭である。幼少期の「生きる力」の大部分は「体得」するものである。


■ 3 ■ 掃除も型、日本語も型  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                                               

  いささか大袈裟であるが、掃除も手伝いも子どもの「義務履行の型」である。幼少期の日本語は「文型」として模倣の中から体得する。同じく、礼儀作法は共同生活の「行動の型」として父や母をモデルとする。協力や責任は「集団生活の基本型」である。親切な行為、やさしい言葉は「思いやりの型」である。子どもは未熟であり、今だ「半人前」である。それゆえ、「型」の習得は指導者による他律を主とする反復と練習によって行なう。「君だったらできる」と背中を押してやり、そのプロセスを応援し、楽しい時間にすることが指導者の「腕」である。もちろん、こうした「型」を体得する基本条件こそ、子どもが反復と練習に耐える「体力」と「耐性」である。
  「豊津寺子屋」は「体力」を重視し、「耐性」を強調し、「型」の教育を再評価し、「知識の理解」より「『型』の体得」を優先したのである。


■ 4 ■ 「欠損体験」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                                                    

  「豊津寺子屋」は学校の専門性にはほど遠い。指導者も素人集団である。給料ももらってはいない。それゆえ、残念ながら、体験機会の創造も、「型」の指導も末だ中途半端である。それでも徐々に効果は現れている。今回の公開発表会は世間に対する中間報告である。
  子どもの体験は体得の原点である。それゆえ、体験の欠損は「体得」の欠損を意味する。少年は「一人前」への成長プロセスにおいてさまざまな不可欠の体験を通っていない。例えば、それらは、基本的生活習慣の確立であり、自然接触体験、異年齢集団体験、自発的活動体験、社会参加体験、困難体験などである。これらの体験が欠損していれば、子どもは生きるに必要な資質を学ぶことは出来ない。学習だけでは、「半人前」は決して「一人前」にはならない。「欠損体験」は現代教育の混迷を解くキー概念である。「豊津寺子屋」の最終目標はこれらの「核体験」を豊かに準備することである。


■ 5 ■ 「核体験」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                                                    


  「体得」の意味が忘れられた時、親も社会も、学校ですらも、これら欠損体験の重要性を見のがす。結果的に、その教育的補完の必要を見落とす。それゆえ、問われるべきは、「欠損体験」を補完すべき指導のプログラムである。中でも、子どもの未来を形成する礼節や共同、挑戦とがんばり、役割と責任、成功と失敗などが体験の中核を成し、人生の「核体験」と呼ばれる。子どもの人生理解と納得はそれぞれの核体験を通して進められる。自分が身を持ってくぐった体験だから愛着も湧き、関心も深まるのである。関心が育ったところで興味もやる気も高まっていく。それゆえ、子どもが生きる力を学ぶためには、責任も、役割も、困難も、集団も、自分で生きてみる場面が必要であり、自分でやってみる体験が不可欠である。昨今の体験の強調は、遅ればせながら、「学習」主導で進めて来た戦後教育の欠陥を修正する機会になりうる。いまだ道半ばながら「豊津寺子屋」の子ども達を見ていただきたく発表会のご案内を申し上げる次第である。


■ 6 ■ 「豊津寺子屋」2学期発表会ご案内 


(1) 日時: 12月18日(日)の午後1時〜約1時間、
発表会のあとは子ども達を交えて、「持ち寄り方式」のささやかなクリスマスパーティーです。ご自分の分プラスアルファーの茶菓をご持参の上、保護者の皆さんや「有志指導者」の先生方と自由にお話下さい。
(2) 場所: 豊津町中央公民館大ホール
(3) 資料: 一連の寺子屋資料をご希望の方は事前にその旨お申し出下さい。資料代は300円です。但し、教材をまとめた「寺子屋手帳」は残りわずかです。全部出払った場合にはお許し下さい。
(4) 事前連絡: お客さま受入れ準備の都合上、必ず事前に豊津町役場企画調整課女性政策係(0930ー33ー3111、内線411)までご連絡下さい。
 

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