「開かれた学校」の基本条件 −「学校支援会議」の背景−
長崎県教育委員会は県下の学校に「学校支援会議」の設置を呼び掛けている。提唱の主旨は「学校を開くこと」である。「学校を開く」とは、「学校に市民の声を導入し」、「市民との協働を実現し」、「地域の資源と機能を活用し」、同時に「学校の資源と機能をコミュニティに提供すること」である。学校が開かれれば、初めて、学校と生涯学習を繋ぐことが可能になり、学校にとっても、地域にとっても今以上の教育力の向上を目指すことが可能になる。しかし、事は必ずしも簡単ではなく、「支援会議」の設置には多くの学校が消極的であるという。理由は色々あるであろう。筆者の脳裏にはかつてアメリカで見た「コミュニティ・スクール」のデザインや福岡県須恵町の「学校公民館主事」の実践や「豊津寺子屋」での苦労の数々の思いがある。以下は校長会への基調講演を引き受けた筆者の分析と提案である。
● 1 ● 「会議体」の整理・統合 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
筆者はかつて関わった大学改革の中で、改革を推進するためには意志決定システムの確立が最も重要であり、そのための会議体の整理・統合が先決であることを学んだ。
見聞・体験の限り、学校組織の会議はその多くが、錯綜し、屋上屋を重ねており、決定の権限および機能が明確ではなく、決定結果の実践も検証も行なわれることは稀である。それゆえ、決められたことの責任は誰もとらない。筆者が勤務した国立大学の教授会などはその典型であった。ご多聞に漏れず「声の大きい奴」が会議を仕切ることになるが、要はほとんどすべてが言いっ放しであった。
一般に、会議の目的は多様である。目的には「意志決定」があり、「連絡調整」があり、「情報収集」があり、「学習」があり、「意欲の向上」があり、「動機付け」などがある。さらにこれらの会議体は「委員会」などに細分化され、問題別、時には対象別に編成される。それゆえ、トップが意識的に制御しなければ、組織体には沢山の会議が作られる。学校も例外ではない。見聞の限りでは、むしろ学校には通常の組織以上に会議体が多すぎる。ただでさえ関係者が日々超多忙であると嘆いている学校にこれ以上会議を増やさないでくれ、という学校の気持ちは十分察しがつく。それゆえ、学校の多忙対策は多すぎる委員会や会議体の整理から始めてはどうか?多忙の原因が会議体の錯綜にあるとすれば、その整理・統合こそが解決策ではないのか?
以下は長崎県教育委員会が調査した学校に関係する「会議体」の中から拾い上げた名称の一例である。消極論があるとすれば、こうした会議だけでも忙しいのだから新しい会議体の創設は"勘弁してもらいたい"、ということなのであろう。しかし、その発想こそが本末転倒である。これらの会議を整理統合してでも、「学校支援会議」が必要なのである。なぜなら、「地域との連携」にはあらゆる領域の問題が含まれているからである。
*学校運営会議
*学校安全推進委員会
*心の教育推進委員会
*学校地域連絡協議会
*学校開放推進会議
*いじめ対策委員会
*保健委員会
*小中学校連絡協議会
*校区連絡協議会
*PTA理事会
*PTA専門部会
*PTA地区懇談会
*教育情報交換会
*健全育成協議会
*民生委員との懇談会
*評価委員会
これらは外部者を入れた「会議体」である。校内には更に職員会議を始め、複数の会議や委員会があることであろう。校長も教頭も教務主任も研究主任もこれらの会議に全部出席していたら身が持つはずはない。予習も復習も、集中も選択も可能ではない。それゆえ「学校支援会議」の提案目的は、既存の「会議体」にさらに新しい会議を加えて、屋上屋を架すことでは決してない。逆に、提案の目的は、会議体の整理・統合・削減に繋げなければなるまい。それは学校における会議の省力化である。省力化は学校機能の総合化と焦点化によって可能であり、教育機能の集中と選択のすすめである。集中と選択の理論的背景は、学校を生涯学習体系に組込むことであり、実践の目標は学校のコミュニティ・スクール化である。それゆえ、筆者は「学校支援会議」では事の半分しか達成できないと考えている。なぜなら、「学校支援」の概念には、学校のコミュニティ支援機能は謳われていないからである。しかし、現状の閉塞状況の中で一気に理想としての学校開放を実行することは出来ないであろう。それゆえ、まずは「学校支援」から始めることでいい。
具体的には、地域と学校が力を合わせて取り組むことのできる教育の仕組みを作ることである。なぜならすでに学校だけでは現今の少年問題の解決は不可能である。すでに、家庭も、地域も状況は著しく変わってしまっている。学校だけがこれまで通りの組織とやり方でその任務が遂行できる筈はないのである。
● 2 ● 「学校支援」とはなにか? ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
子宝の風土は保護者が学校に子どもを託す。保護者が付託する目的は「一人前」を育ててもらうことである。それゆえ、学校の役目は、学校制度が始まって以来一貫して、「守役」であり、保護者に代わって「一人前」のトレーニングを受け負う機能集団であった。それゆえ、人々は学校に特別の信頼を寄せ、教師に特別の尊敬をはらって来たのである。
「子宝の風土」にあっては、「宝」である子どもの自立のトレーニングを請け負った寺子屋も、学校も、先生方も、常に、特別の存在であった。学校が頭をさげて依頼すれば、誰も断らない。夏休みあとの草取りから運動会の会場設営まで保護者や地域の人々が応援する。筆者が「学校神話」と呼んできた学校の「特別視」・「特別待遇」である。
しかし、学校は保護者の信頼も、社会の共感も失いつつある。最大の原因は自立を請け負ったはずの子どもが「へなへな」だからである。「自立」どころか、心身はひ弱で、不登校から非行まで少年問題の発生は枚挙に暇がない。少年の危機的状況は、すでに現在の学校の実力では対応不能である。更に悪いことは、天に唾するごとく、多くの学校、多くの教員は自らの非力を棚に上げて、少年問題の発生を、家庭や社会環境など学校外の要因に帰している。もちろん、事実は決してそうではない。
いつの時代も子宝の風土の家庭教育は十分なものではなかった。「一人前」の教育は常に第3者の「守役」が行なったのである。それゆえ、学校は近代の「守役」を制度化したものであった。したがって、学校が「守役」の機能を果たし得ていない事が「へなへなな子ども」の主たる原因である。少年の危機は学校の機能不全と教育力の衰退に主たる原因があるのである。ここでいう「教育力」とは基本的に「プログラム」の中身と方法を指すことはすでに何回か論じたところである。現在の学校が「自立のプログラム」を実践出来ない以上、子どもの自立を促す「プログラム」を強化するためには、地域の支援をお願いしなければならない。
心配なのは学校の「自己診断」である。現在の学校の多くがみずからの機能低下を自覚していないのではないか?それゆえ「学校支援」発想への反発や消極性があるのではないか?公平に見るところ長崎県教育委員会の診断は間違っていない。現在の学校には明らかに「人・物・金・汗・知恵」の支援が必要である。ルールに従い、規範を守り、責任を全うし、協力を惜しまない子どもを育てるためには、学校に市民の常識/社会の基準を取り入れることが不可欠である。「学校支援会議」はこうした応援や常識の「取り入れ窓口」である。問題はどんな支援が必要で、かつ可能であるか、である。現状の診断がなければ、解決処方の採用はあり得ない。診断も、処方も学校だけではうまく行かなかったことはすでに自明である。地域の力を借りて教育を立て直さなければならない時期に来ていることは明らかである。「学校支援会議」が登場した背景がここにある。
● 3 ● 「生きる力」の向上と「会議体」の統合 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
生きる力は体力と耐性を土台とする。学校はこの土台の上に学力の柱をたてる。社会生活の基礎のためルールを教え、規範に子どもを従わせる。できれば思いやりもやさしさも行動や態度に表せるよう教えたい。しかし、現代の子どもの多くはいずれの視点から評価しても落第である。学校だけでは向上の目標は達成できないことは明らかになった。それゆえ応援が必要である。応援は地域からいただく。その窓口が「学校支援会議」である。上記に列挙した各種分野別の会議体は総合的な会議のもとに統合すべきである。企業や行政であれば、「本部会議」のもとに「事業部制」を敷くのが普通である。保健も、安全も、学校資源の開放も、心の教育も、地域との協働も、PTAとの連携・家庭との2人3脚も、課題別部門として、すべて「学校支援機能」のもとに統合することができる。それぞれの会議体は解散して、「学校支援会議」を強化すれば、どの課題にも対応が可能である。どうしても特別の専門家を呼ばなければならない時は、会議体の規約に「必要に応じて専門の人材を招請することができる」と謳っておけばいいのである。
統合の目的は集中と選択によって、時間とエネルギーを省力化し、そこから浮いた力を人材の確保と教育実践の強化に廻すべきである。学校が緊急に成すべきことは子どもの自立を目指す教育プログラムの強化である。
● 4 ● サポート・ティーチャーの確保 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
体力が不足し、耐性が低ければ、授業はもとより、あらゆるトレーニングにおいて、子どもは集中も、持続も出来ない。教室の授業中ですら問題行動は多発する。授業崩壊や学級崩壊はその極端な現象である。今や多くの学校は通常の授業にすら担当教員を支援するサポート・スタッフが必要である。特別プログラムには尚更のことである。
近年、長崎県が実践した「タフな子どもを育てるモデル事業」は地域の支援をいただいて数々の成功事例を残した。その遺産を生かさない手はない。学校支援ボランティアを組織化した成功例は近隣に豊富にある。その事例に倣えばいいのである。モデルを探し、手本に倣うことは改革の基本である。しかし、モデルを実践するためにも、手本を導入するためにも地域と学校を繋ぐ「システム」が不可欠である。それが「学校支援会議」である。「支援会議」が機能し始めれば、学校支援ボランティアが自立する。
学校がお願いしたボランティアだからと言って、学校が組織化して学校がお世話をしなければならないというものではない。ボランティアによる支援活動の企画は、学校との事前調整がきちんと出来ていれば、ボランティア自身がコーディネート機能を担当できる。多くの地域人材は学校の教員より優れているのである。学校はこのことを胆に命じておくべきである。
● 5 ● 市民の常識の導入 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
「支援会議」の導入は市民が学校に入ることである。会議での協議と報告を通して、市民の常識が学校に入ることになる。それゆえ、「支援会議」は多頻度・定例的に行なうべきである。多くの学校において教育成果の検証が不足である。教育実践結果の記録がない。学校外への情報公開がない。学校支援会議は学校という教育の「執行機関」に対して、「議会」の機能を果たすことになる。学校はこれまで「議会報告」を免除され、「議会質問」を受けて来なかったのである。
報告は簡潔でいい。何のために何をやったのか?結果はどうであったのか?成果は満足すべきものであるか?変化はどのように検証できるか?市民が教育実践を聞き、評価するプロセスで、市民の常識が学校経営に反映する。長い眼で見ればこのことが支援会議の最大の成果になるであろう。学校が「支援会議」を嫌う理由が、もしも市民の「評価」を避けたいという点にあるとすれば、学校の病いは重い。
● 6 ● 双方向の開放 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
学校は地域の支援を受けるだけでいいのか?長崎県壱岐市立霞翠小学校の「タフな子どもを育てる」モデル事業が完了した時点で筆者が実感したことはそのことであった。霞翠小学校は先生方が団結し、協力し、存分に学校支援ボランティアのお力を活用した。指導の成果も大いに上がった。しかし、地域は学校の支援をしたが、学校は地域の行事などを活用しただけで、支援はしていない。放課後や休暇中の子育て支援は話題にすらならなかった。
折から福岡県豊津町では、「豊津寺子屋」を企画していた。寺子屋は学校を拠点とした地域の人々による放課後と休暇中の子育て支援事業である。しかし、学校は冷たかった。町長から強力な学校資源のコミュニティへの開放要請が行なわれるまで、地域の「子育て支援」事業に対して学校施設の利用を拒否したのである。
すでに論じたところであるが、学校は税金で建てた施設である。子どもの為に設計した施設である。環境は子どもの活動を想定して整えられている。しかも、地域の子育て支援は当該学校の子どものためである。学校教育法85条は学校施設の地域活用を謳っている。「学童保育」にとっても、「子ども教室」事業にとっても、学校は格好の活動拠点である。学校が施設の利用すら拒否する神経がわからない。いまだに多くの学校は頑に資源の開放を拒み続けている。それゆえ、「学校支援会議」は学校の生涯学習体制を確立する第1歩である。地域が学校を支援すればそれを契機にGive
and
Takeが起りはじめる。地域が様々に学校を支援し、学校がその資源を地域に開放した時、初めて双方向の支援が始まる。学校のコミュニティ・スクール化が「学社連携」の目的である。それができれば初めて学校は生涯学習の一翼を担い、財源の節約にも重要な機能を果たすことになる。「学校支援会議」はその1歩である。
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