戦後教育の核心を問う
「子どもの主体性」をどこまでみとめるか!?
1 穂波町への提案−学校における児童観の転換と「教師主導?師弟同行」の復権−
福岡県穂波町の教員・PTA研修に連続してお招きを受けて4年になる。長年おつき合いいただいた教育長の信頼をいただいて、「耐性」の問題、「学力」向上の方策、具体的「鍛練」プログラムの提案など徐々に少年教育の核心に近づいて行った。結論は、「児童観の転換」と「教師主導?師弟同行」の復権である。子どもの欲求に振り回されている限りろくな教育はできない。それゆえ、現代の学校が金科玉条とする子どもの「主体性」、学習者の「自主性」の再点検こそが課題である。
戦後60年に亘って積み上げてきた「児童中心主義」は大学における教員養成教育/教育行政の指導を通して確固たるものになった。「子宝の風土」に「児童中心主義」が重なった時、家庭も、地域も、学校も、「子どもの気紛れと勝手とわがまま」に振り回される。「児童中心主義」が「子宝の風土」の「病い」として蔓延すれば、結果的に、「気紛れ」も、「勝手」も、「わがまま」も、「子どもの主体性」と混同される。子どもの言うことに振り回されれば、他律は不可能であり、子どもの了解を前提とすれば、「型」の指導は成り立たない。かくして、少年の「鍛練」は忘れられ、「一人前」の基準は低下し、「学校」は常識的な意見を聞く耳を持たなくなった。
筆者も、当然、児童中心主義教育の薫陶を受けた一人であり、教員養成大学の教壇にたった経験を持つ。それゆえ、戦後教育における民主主義の原点も、西欧に源を発した教育思想の流れもそれなりに理解していると自負している。西欧の教育思想も、その中核を為す児童中心主義も、その思想だけを点検すれば、論理も構成も極めて精緻で優れている。問題は思想そのものにあるのではない。日本の風土との組み合わせにあるのである。子宝の風土は子どもを宝として尊重する風土である。このような風土に「児童中心」の思想は屋上屋を架すものであり、不要である。
なぜなら、思想は現実の反映であり、実態の裏返しである。あってはならないにもかかわらず「あるもの」は「なくすべきもの」であり、必要であるにも関わらず「ないもの」は「あるべきもの」だからである。人間の暮らしは「問題解決」志向である。犯罪や争いに対して法律を制定し、公害が広がれば、公害対策を発想し、交通事故には「交通安全運動」を発明し、差別に対しては「人権」の思想を普及させる。同様に、子どもが中心でない社会は「児童中心主義」を生み出し、子どもが「宝」で、生活の中心に位置する社会では「過保護の戒め」が子育ての基本原理となる。子宝の風土において「修養」や「鍛練」が重視されるのはその為である。修養も鍛練も、「自立」と「一人前」のトレーニングを意味する。保護に傾く風土では、心身の修養・鍛練こそが基本の処方箋である。
しかし、児童中心主義を採用した戦後日本の風土は、「修養」の言葉を嫌い、「鍛練」は軍国主義の遺物として拒絶してきた。何よりも学校は、「他律」よりは「自律」を重んじ、「指示」よりは「自己判断」を大事にして、児童中心主義の思想を世間に流布した。戦後教育の金科玉条は子どもの「自主性」であり、教育民主主義の「主体性」であった。したがって、「他律」や「型の指導」を言う者は、「詰め込み」の一語で論難され、教育民主主義に反し、軍国主義教育を唱導するものとして政治思想的に非難された。
かくして、時に筆者の提案は「反動」の非難を浴び、時に時代錯誤の謗りを受けた。筆者が主張する他律も「型」の指導も、子どもの理解を待たない。子どもの了解や同意を必要とはしない。理解は「型」の体得の後から来てもいいのである。未熟な子どもが学ぶべきことを自ら決定出来る場合は極めて少ない。
しかし、学校も、世間も子どもに対する強制の「匂い」を嫌い、「他律」は教育の民主主義に反するとして拒否したのである。しかるに、子どもの理解を越えた修養にも、鍛練にも反発し、その方法論としてのドリルやトレーニングを憎んだ。
筆者の主張は学力向上の必要に迫られた状況の中で徐々に浸透し始めた。偶然ではあったが、長崎県壱岐市立霞翠小学校の「タフな子ども」を育てるモデル事業に参画したことが大いに助けになった。穂波町の教育長の理解に支えられて筆者の提案は回を重ねた。少しずつ先生方との面識もできて、筆者の考え方に対する「アレルギー」反応も少しずつ弱まって来たように感じた昨今であった。ようやく戦後教育の核心;「子どもの主体」問題を問うべき機会が到来したのである。以下は提案の結論である。
2 結論: 学校教育の核心は子どもの位置付けである
(1) 学校は子どもの「主体性」を認め過ぎである。原因は、欧米の教育哲学「児童中心主義」への過信である。「半人前」の「主体性」は「半分」だけ認めればいい。「半人前」には「半人前」に相応しい義務と役割を与えるべきである。義務と役割りを課す以上、その結果に付いての責任も厳しく問わなければならない。
ただでさえ「子宝の風土」は子どもの欲求も、言い分も十分すぎるほどに受け入れているのである。我が国の「子宝の風土」は風土の特性自体が「子ども中心主義」である。立ち止まって思想の成り立ちを思えば、「児童中心主義」は、欧米のように、子どもが中心でない社会が生み出さざるを得なかった教育原理である。屋上屋を重ねるような学校教育における「児童中心主義」の過信は百害あって一利もない。抜本的な児童観の転換が必要である。
(2) 学校の教育・指導は教師によって主導されるべきである。そうなれば教育結果の責任が明確になる。子どものしつけができていないのも、規範が確立していないのも、大部分は学校の責任である。彼らは教育のプロであり、その役割に対して給料や補助金を受取っているのである。
(3) 「子宝の風土」において家族外の指導者は基本的に親の過保護を抑止する役割を負っており、子どものわがままや勝手を制御する「守役」である。学校はその創設以来基本的に「守役」を代表する機関である。学校にあっては、子どもの「自主性」・「主体性」は指導の枠の中でのみ認めるべきである。
(4) 教育実践において、子どもの能力や権利を法律的に判断してはならない。確かに法は成人と子どもを比較して、子どもの「当事者能力」の不在を問題にするが、それはあくまでも社会的責任や処罰に関する法律上のことである。教育的には、10才の子どもには10才の判断や行動の能力があり、15才の少年には、15才に相応しい能力が身に付く。成人と同等の「当事者能力」がないからといって、子どもに行動上の責任や貢献の能力がないということにはならない。したがって、子どものルール違反を処罰しないことは教育の自殺である。明らかに子どもの過失による事故の責任まで、「当事者能力」の名の下に大人がかぶらなくてはならないというこの国の風土に従っていたのでは教育は出来ない。
(5) 学校教育の具体的役割は子どもの心身の機能の開発・向上に尽きる。事は結果が問題であって、プロセスは二次的にしか重要ではない。学校は結果を出さないのに、プロセスだけを言う。一生懸命にやったことは認められるべきだが、社会が期待する「一人前」の条件に即して、心身の機能が向上しなければ、教育は落第である。現に、多くの子どもは「一人前」の条件を満たしてはいない。
(6) 心身の機能を向上させ、その機能を存分に発揮することは「機能快」と呼ばれ、子どもにとっては快感である。走れる子どもは走りたい。覚える子どもは覚えたことを発表して認められたい。目的を達成し、「できるように」なれば、刻苦勉励は決して苦痛ではない。教育が結果を出せば、子どもは機能快によって救われるのである。他律や強制の中でも、子どもがたのしみ、いきいきと活動できるのはそのためである。
(7) 学校教育は理屈と能書きが先行して、体得を軽視している。体得の軽視は「畳の上の水練」と類似して、脳味噌の過信に通じている。何ごとによらず、教育は理屈ではない。教育の目標は具体的でなければならず、目標を実現し、指導した結果、子どもを想定通りに「できるようにする」ための基本条件の確立が先決である。学校の掲げる目標はそのほとんどが曖昧であり、抽象的であり、実現結果が不明である。
(8) 「学習」/「体得」の基本は「集中」と「持続」である。
集中と持続の土台が「体力」と「耐性」である。現代の学校にはこの二つの視点が欠落している。体力と耐性が欠如すれば、あらゆるトレーニングは不可能である。朝礼で立っていることが出来ないのも、低学年の授業が成り立たず、学級が崩壊するというのも現代の子どもが総じて、「体力」と「耐性」を欠如しているからである。主たる原因は鍛練の不足である。
(9) 少年教育は「模倣」が基本である。模倣は「モデリング」であり、「手本」に倣い、「型」に従う事を意味する。学び方は「体得」が基本であり、"習う"より"慣れる"が原則である。子どもの教育は型の体得から始めるべきであり、子どもの判断や子どもの思考から始めるべきではない。言葉の文型も、社会生活の礼節もすべて人間生活の経験と歴史が生み出した「型」に発している。子どもは「やったことのないことは出来ない」。「教わっていないことは分らない」。「練習しなければ上手にできるようにはならない」。
(10) 学校教育においては、「学習」と「体得」の大枠は指導者が決定し、子どもの「主体性」は学ぶべきことの枠内で認めれば十分である。「半人前」を「一人前」に処遇したことが現代の学校の最大の間違いである。
(11) 「模倣」には手本が不可欠である。最大の手本は身近な人間である。子どもが親や指導者に憧れ、敬意を払った時、教育の効果は倍加する。それが「同一視」であり、「あの人のようになりたい」という子どもの内面から溢れ出る学びの動機である。学校は「擬制」としての師弟の心理的距離を確立すべきである。指導者への「憧れ」や「尊敬」が手本の価値を高め、「その人のようになりたい」という子どもの内発的「向上心」を可能にするからである。「友だち先生」は教育の秩序を滅ぼし、指導者の指導力を弱体化し、子どもの内発的向上心を破壊する。現代の学校の病いは重い。
(12) 「学力向上」の基礎工事は学習の「構え」である。子どもと先生方との関係を通して、「あいさつ」、「姿勢」、「言葉使い」、「作法」、「時間厳守」、「整理・整頓」など社会生活の基本を「型通り」に厳しく体得させることが学習の「構え」を確立することに繋がる。
(13) 子どもの心身の向上には、「絶えざる負荷」と「絶えざる応援」の組み合わせが重要である。あらゆる学校活動を組み合わせて、心身に「負荷」をかける。子どもが「負荷」に耐え抜く為には、各人への教師の応援を欠かさない事が重要である。
(14) 少年が学習/体得した機能は、短期・定期的に保護者/関係者を招いて「世間」に披露し、子どもの表現力・発表力・集団の行動力の練習機会を確保し、合わせて彼らの自尊感情を高める。
(15) 指導の原則は徹底した「師弟同行」である。すべてのプログラムにおいて教師が同行し、参加する。苦労を共にすれば、信頼は自然に生まれ、憧れも敬意も、多くの場合、自然に生まれる。
(16) 「型」の指導の「副作用」は「型」にはまり、「型通り」にしかできなくなることである。その防止策はすでに世阿弥が喝破している。すなわち、"「型」より入りて「型」より出ずる"が原則である。「型」の修得が終わったら、応用の課題を与えて「君だったらどうする!?」と聞くのである。 |