*6* プログラムの実行を保障する指導者の重要性
(1) 多様・多数の指導者の必要
プログラムがあるだけでは子どもの活動は自転しない。現代の子どもは自らの集団も作り得ず、自分達で遊ぶことすらままならない。それゆえ、活動を組み立て、方法を工夫し、子ども達の安全を確保しつつ、彼らの活動を応援・激励してプログラムを実施する指導者が不可欠である。しかも、子どもの活動が多様である分、プログラムも多種多様でなければならない。従って、多様な分野の数多くの指導者が必要になる。もちろん、財源さえあれば、指導者は発掘出来るであろう。しかし、地方の自治体には、すでに、放課後や休日の子どもの指導に振り向ける潤沢な財源はない。地域での活動を希望する子どもに十分な数の指導者を雇用する予算はない。指導者の数は、プログラムの質・量に関係するが、放課後や休日の保教育を念頭におけば、学校教員に優るとも劣らぬだけの人数が必要になるのである。しかしながら、財政難の今日、実際問題として、職業的指導者は諦めなければならない。それゆえ、熟年を中核としたボランティアの養成確保が急務となる。
(2) 何故、熟年か?
定年を迎えるまで現代の熟年世代はお元気である。しかし、悲劇は、定年を境に一気に心身が衰え始めることである。医療費と介護費の大赤字がそれを証明している。急激な衰えは年齢からだけくるものではない。主たる原因は定年後の彼らが社会に「必要とされなくなること」である。労働の終りは、社会的生産とサービスの終焉を意味する。労働を通した「貢献」の終りであり、「役割」の消滅である。
結果として、定年後は人々に切実に必要とされる場面が激減し、自分の存在に対する社会的承認を得ることが難しい。この「無用」感こそが老いの最大の敵である。必要とされなければ必然的に心身の活動は激減する。使っている内は機能を保持出来るが、使わなくなれば、人間の機能は一気に衰退する。必要でない機能を保持する理由はないからであろう。人間の心身は合理的である。
それゆえ、熟年の元気を保持・存続させる最重要の方法は、彼らの「活動の場所」を創造し、彼らが社会的に「必要とされる」条件を発明することである。子育て支援の指導者の役割がその一つであることは疑いない。なぜなら、あらゆる子どもの活動の指導に熟年の能力は生かせる。特技を持っていない熟年でも安全の見守りはできる。ほとんどの熟年は子育て経験者であり、かつては多くの部下を指導した経験者である。しかも、他の世代と比べて、熟年が最も時間的自由に恵まれており、人生経験が豊富であり、経済的に一定の老後の保障も受け、エネルギーも残っている。
ただし、取り組みは急がなければならない。何ひとつ社会的活動に貢献しない彼らが要介護者に転落するのは時間の問題であり、心身の故障を多発して地域の医療負担を増大させるのも時間の問題だからである。
*7* ボランティア指導者の養成と活用
(1) 日本文化への配慮と「他薦」方式の厳守
「ボランティア」は輸入概念である。それゆえ、活用にあたっては、日本文化との整合性を配慮した工夫が必要である。ボランティアの発掘にあたって、最も配慮すべきは日本文化が強調する「謙譲の美徳」である。この社会では「良い人」や「誠実な人」は自ら名乗り出ない。「手をあげる」こと自体が謙譲の美徳に反する事が多いからである。斯くして、「能ある鷹」は爪を隠し、実るほどに「稲穂」は頭を垂れる。満開の藤の花は「下がるほどに」その名は「上がる」のである。斯くして日本社会のボランティアの「自薦」は禁物である。多くの自治体の「人材バンク」が機能しないのはその原因の多くが「自薦」方式を採っているからである。いささか乱暴な総括になるが、この国では、「自分で手を挙げて出てくる人」は多くの政治家を始めとして、危ないのである。そこで福岡県宗像市の「市民学習ネットワーク」事業の指導者も、同県豊津町の子育てボランティアの「有志指導者」も、「自薦」は受け付けず、「他薦」の方式を採用したのである。
「他薦」の場合、被推薦者の行動については、推薦者が責任の半分を負わなければならない。推薦を受けたものは推薦してくれた人の顔をつぶす事はできない。被推薦者が評価に適わなければ、推薦者は目利きではない、という評価に繋がり、推薦者の顔に泥を塗ることになる。それが日本文化の「掟」である。斯くして、「他薦」方式には、推薦者の威信と被推薦者の推薦者に対する礼節という2重の制御装置が働くのである。宗像も、豊津も「落ちこぼれ」は極めて少数であった。文化の抑止力は機能しているのである。
(2) ボランティアへの「費用弁償」
日本社会の失敗はボランティアを「ただ」でお願いしたことである。人間が動けばお腹は空く。交通費もかかるだろう。それらを総て「手弁当」で続けてくれというのでは、頼む方に無理がある。「ボランティアただ論」の根拠は、欧米社会が掲げたボランティアの「無償性」である。しかし、「無償性」とは「労働の対価」を受けない、という意味である。無償性に含まれた「償い」とは報酬や賃金を意味し、活動に必要な経費すら受取らないという意味ではない。第一、活動費用の弁償がないのに、活動を継続できる人は基本的に恵まれた人である。ボランティアは恵まれた人だけの特権ではない。さらに、社会が「費用弁償」の制度まで整えて、「有志」の参加と貢献を呼び掛けるのは、それが社会的に意義のあることであり、必要なことだからである。ここからボランティア参加者の「必要感」が生み出される。彼らが受取る「費用弁償」は彼らが社会的に「必要とされていること」の証明である。社会に必要とされることが彼らのエネルギーを生み出し、やりがいや生き甲斐に通じることは論を待たない。
(3) 子育て支援研修の義務化
子育て支援の場合、最大の試練は指導の中身と方法の研修である。なぜなら、戦後日本の教育は、「子宝の風土」の副作用を抑止できず、子ども達は「へなへな」であり、社会規範は身に付いていず、礼節は不十分であり、思いやりややさしさの態度や行為にもおおいに欠けるところがあるからである。したがって、ボランティアは指導を開始するにあたって、戦後教育とは異なり、現行の学校教育とは一線を画した指導原理と方法の研修を受けなければならない。それが日本文化における「守役」の指導原理である。中身は以下の通りである。
*8* プログラムの中身と方法の転換
(1) プログラムの重要性ー心身の発達を促す活動
保育の機能に教育の機能を付加するということは、子どもの「安全」に健全な活動を付加することを意味する。目的は立派に「一人前」を育てることである。「一人前」の定義は「保護」から「自立」へ向かうことだと簡単に考えればいい。保護の前提は「自分のことが自分では出来ず、自分のことも自分では決められない」ということである。それゆえ、自立の基準は「保護」が必要でない状態に達する事である。換言すれば、「自分のことは自分でやり、自分のことは自分で決めること」である。その前提がたくましい心身の育成である。
しかし、現代の子どもは心身共にへなへなである。それゆえ、プログラムの重点は心身を鍛える「体力」と「耐性」の育成である。具体的には、遊びと教育活動を組み合わせて、心身の挑戦を応援し、集団生活、社会生活の予行演習をたっぷり実施することである。
プログラムの中身と方法こそがいわゆる「教育力」の主要な構成条件である。家庭の教育力を言い、地域の教育力を問うということは、プログラムの質と量を問うことに外ならないのである。しかし、問題は、実施されている多くのプログラムが根本の発想において間違っている事である。「子どもの居場所」や「遊び場広場」へ出かけた子どもの態度や行動が悪くなるのはそのためである。子育て支援は教育原理と方法論を問わなければならないのである。
(2) 「四つの過剰」と「四つの欠落」
「四つの過剰」は「子宝の風土」の宿命である。子どもが宝であるという前提に立てば、「宝」を守り、「宝」に奉仕することが子育ての指針になる。「宝」こそが中心であり、「宝」こそが最も重要な存在だからである。
結果的に、日本の育児は「過保護」、「過干渉」の傾向を免れないのである。保護や干渉の過剰は、日常、「四つの過剰」として登場する。「四つの過剰」とは、「世話の過剰」であり、「指示の過剰」であり、「授与の過剰」であり、「受容の過剰」である。「世話の過剰」は子どもの自立と独歩を妨げる。「指示の過剰」は判断の停止と「指示待ち人間」の大量発生を結果させた。「授与の過剰」は子どもに感謝のこころを忘れさせる。「受容の過剰」こそはわがままと勝手の生みの親であり、「自己虫」を大量発生させた原因である。
もちろん、世話も、指示も、授与も、受容も、子どもの発達・成長過程においては不可欠/重要なものであることは論を待たない。周囲の世話がなければ、子どもは育たず、指示がなければ、日常に対処することも出来ない。授与が欠ければ生活が頓挫し、周囲に受容されない子どもは情に飢えて、自信を失う。これらの要因の内のどの一つが欠けても、正常な発達を期待することはできない。要因の不足は断じて避けなければならない。それゆえ、子育て指針の結論は発達要因の「バランス」であり、子育てに必要な条件の「さじ加減」である。
しかし、である。子育て実践の現実は通常「保護」に傾く。「子宝の風土」は「宝」を守ることが鉄則だからである。それゆえ、一般傾向として、「四つの過剰」は生じても、「四つの欠落」は生じにくい。「放任や虐待」は「四つの欠落」がもたらす現象であり、「甘やかし」は「四つの過剰」の子育て実践である。「放任や虐待」と「甘やかし」はどちらが多いか?断然、圧倒的に、「甘やかし」の方であろう。したがって、世間が受け継いできた「教訓」は「甘やかしの戒め」であった。「可愛い子には旅」や「辛さに耐えて、丈夫に育てよ!」はその代表である。しかし、戦後育児はもとより、戦後教育においても、実行される事は稀であった。
(3) 幼児教育/少年教育の誤謬
幼児教育/少年教育の最大の誤謬は保護と自立の「さじ加減」を過ったことである。子育ては「子宝の風土」の感情に流されて完全に過保護に傾き、時には教えるべき事を教えない「放任」との同時存在となった。この状況を修正すべき学校教育は「守役」の本分を忘れ、欧米流の「児童中心主義」を掲げて、「知育」に傾き、全人教育の役割を放棄したかのごとき様相を呈したのである。斯くして、子育てボランティアの養成研修の核心は、必然的に、失った保護と自立のさじ加減の回復、子宝の風土に伝えられた教訓の復活、児童中心主義の過剰信仰の戒めとなる。具体的なプログラムは、心身の鍛練と修養、礼節や規範の体得、異年齢の集団活動体験による社会生活の予行演習である。指導方法の中心は「型」の体得である。言語能力は言葉の「型」の体得であり、礼義作法は社会における人間関係のあり方の「型」の体得であり、やさしい行為や思いやりに満ちた態度は「豊かなこころ」の「型」である。「型にはまり」、「型どおりにしか出来ない」ことを予防する為には、「型」を修得したあとで子どもに自由な発想で活動する機会を沢山作ればいい。それが世阿弥のいう「型より入りて、型より出ずる」に外ならない。
(4) 保護者への説明、同意の確認、成果の発表
寺子屋の指導方針は通常の子どもプログラムと大いに異なっている。学校の教育方針とも大いに異なっている。それゆえ、プログラムに付いても、指導者に付いても、保護者に対する十分な事前説明と途中経過の報告が不可欠である。中でも子どもの安全と成長の方向;とりわけ指導の方法と原則については十分に理解してもらうべきである。家庭の理解が得られ、その協力が得られた時、寺子屋の活動は一気に向上するからである。又、いじめや逸脱行動に付いても具体的な
対処方法を事前に説明し、特に目に余るルール違反者に対する限定的な「体罰」の実施については、明確な「同意書」の提出を依頼すべきである。保護者とのトラブルは寺子屋活動を根底から破壊するからである。当然、学期の終りには子どもの成果を保護者や関係者に披露すべきである。それが子どもにとっても、保護者にとっても、指導者にとっても、事業の成果を確認し、それぞれの役割と責任を自覚する最善の方法である。
*9* 学校開放の不可欠性
(1) 「安全な居場所」ー「最適な活動場所」の確保
子育て支援が全町(市)的に展開されるとすれば、居場所と活動の拠点は社会教育施設では不十分である。児童福祉施設でも不足である。
理由は主として3つある。第1は子どもの参加者数が増大した時、公民館も、児童福祉施設の収容能力はパンクする。第2に放課後の子どもも、長期休暇中の子どもも学校以外の施設に通わなければならない。校区内の子どもはともかく、子どもが校区外の施設に通うことは、負担であり、危険であり、結果的に不公平である。施設までの慣れない子どもの道行きは安全上の問題も喚起する。交通事故しかり、犯罪への巻き込まれしかりである。指定の公民館に辿り着かないで、子どもが"蒸発"して大騒ぎになった事例も枚挙に暇がない。第3は公民館も、児童福祉施設も、通常は小規模であったり、成人との共用である為、子どもの多様な活動の同時展開には適していない。それゆえ、子育て支援の拠点には学校が最適なのである。
(2) コミュニティ・スクールの創造
学校は税金で建設された施設である。目的は限定されているが「公共施設」であることに変わりはない。しかも、なにより、学校は子どものために設計・配慮された施設である。学校教育法第85条には『学校教育上支障のない限り、学校には、社会教育に関する施設を附置し、又は学校の施設を社会教育その他公共のために利用させることができる。』とある。社会教育法の第44条は『学校の管理機関は、学校教育上支障がないと認める限り、その管理する学校の施設を社会教育のために利用に供するようにつとめなければならない。』とある。この場合の管理機関とは、市町村にあっては「教育委員会」を指すことはいうまでもない(44条の第2項)
筆者の提案は別の学校の子どもに施設を開放すべきであるといっているのではない。当該学校の子どもに放課後や休暇中の施設を使わせて欲しいといっているのである。そうなれば、どこの地域にも存在する子どものために設計・建築された公共施設が子育て支援の拠点になることは論理の必然であろう。学校は日々通い慣れた場所であり、使い慣れた施設である。広くて、施設設備の充実していて、子育て支援が想定するあらゆる活動に対応が可能である。授業の終了後校外施設への移動も必要無い。保護者もさぞや安心であろう。学校施設が子育て支援の拠点足り得れば、この国に初めて本格的なコミュニティ・スクールが始動するのである。頑に門戸を閉じ、子育て支援にすら施設を開放しようとしない学校管理者は「少子化」防止政策の「天敵」である。学校関係者の言い分にのみ耳を傾け、明確に法が定めた学校施設のコミュニティ利用を促進しようとしない教育行政には、子育て支援も、地域の教育力も語る資格はない。
校長の多くは施設を使わせて欲しいという多くの地域住民や母親に対して、学校教育に支障が出ると言い、バカの一つ覚えの『目的外使用』はできないのです、と繰り返してきた。試しに具体的な「支障」の数々を上げてみたらいい。又、『目的外利用』とは法律のどの条文に基づいて言うのか、その根拠も説明してみたらいい。政治家の不勉強は学校の閉鎖性を黙認し、その施設の占有と運営の独善を許してきた。少子化への歯止めが喫緊の課題といい、男女共同参画が国民的課題といい、その基本法まで定めるのであれば、子育て支援こそが学校変革の突破口であり、男女共同参画を促進する転回点である。る。全国の首長は学校施設の開放に協力しない教育長を直ちに解任すべきである。
*10* 行政部局間の連携・協力
保教育は「保育」と「教育」との結合である。それゆえ、保育を担当してきた部局と教育を担当してきた部局の連携・協力が不可欠である。また、子どもの指導に定年後の熟年層の力を借りようとすれば、高齢者の健康や福祉を担当する部局との連携協力も不可欠である。もちろん、保教育の事業を「子育て支援」と位置付ければ、それはとりもなおさず、「男女共同参画」の支援事業であり、女性政策の部局との連携も必然である。さらに、自治体全域の子どもが参加するようになれば、単一の公民館や児童センターでは到底、収容し切れなくなる。必然的に、放課後や休日の子どものために、学校施設のコミュニティ使用が始められなければならない。
大量の子どもの活動を安全に支え得る施設は学校をおいてはない。学校こそが子どものために設計・建築された公共施設なのである。保教育の舞台を確保する為には、学校の協力は不可欠である。
かくして、役場や市役所の中の「保教育」実行プロジェクトには、福祉と教育の関係部局が参加しなければならない。行政の異分野間連携は、縦割りの分業制を採っている現状では極めて難しい。行政の分野横断型のプロジェクトは、行政内部のイニシャティブに頼っては実現できない。それゆえ、行政による総合化のためのシステム化ができているところは皆無に等しい。しかるに、連携のためのプロジェクトは政治判断によらざるを得ない。首長のリーダーシップが問われるのはそのためである。 |