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生涯学習通信

「風の便り」(第69号)

発行日:平成17年9月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 子育て支援の論理と方法 −「豊津寺子屋」モデルの意味と意義−

2. 子育て支援の論理と方法 −「豊津寺子屋」モデルの意味と意義−(続き)

3. 紅白まんじゅうが届いた!!

4. 戦後教育の核心を問う

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

子育て支援の論理と方法 −「豊津寺子屋」モデルの意味と意義−

青少年の健全育成ー高齢者の活力創造ー男女共同参画の条件整備ーコミュニティ・スクールの実現ー財政難時代の複合問題に対処する総合的システムの創造
 

  寺子屋モデルはいまだ未完である。特に、参加する子どもの「量」において不十分である。学期中は全児童の 10%、休暇中は同じく20%ほどの参加では、たとえ寺子屋活動が毎日行なわれたとしても、何百万もの公金を支出する「投資効果」の説明が出来ない。地域に途中参加の希望者がいないわけではない。受入れも指導も収容施設も十分可能である。現に、各人の習い事や学校行事と重なれば、集まるのは10数人に満たない日もある。にもかかわらず追加募集を行なわず、「量的制約」を課しているのは、試行段階における関係者のためらいと戸惑いが最大の理由である。現状では、よそ者の筆者の論理と説得では突破できず、慚愧に耐えない。それでも「豊津寺子屋」は疑いなく現代の子育て支援モデルである。以下はその理由と結論である。


*1*  結論:「豊津寺子屋」モデルの意味と意義 
  (1)  寺子屋の少年プログラムはその構成と実施方法が従来の学校教育や社会教育、当然、家庭教育とも大いに異なる。「半人前」の意志は「半分」しか認めない。教育の主導は指導者であり、指導の方法は子どもの生活に必要な「型」を楽しく工夫して反復する。子どもは「一人前」に向かって体力も、我慢強さも、礼節も、共同の精神も、思いやりの態度も身に付け、日本語の基本を「体得」する。子ども集団は小学校1年−6年までの異年齢構成である。


  (2)  指導者を構成するのは熟年を中心とした地域のボランティアである。熟年の活動は、子育て支援の中核としてプログラムを支えると同時に熟年自身の健康と生き甲斐に大いに寄与している。青少年育成が表の目標であるとすれば、熟年の活力創造は寺子屋の裏の目標である。
 

  (3)  現行システムの問題点は「保育」と「教育」を分業化して切り離したことである。その反省の上に立った「寺子屋」のシステムは「保育」と「教育」を同時に遂行する「保教育」を目的としている。それゆえ、時間帯は女性の就労と社会参画の条件整備を意識し、夏休みは土日とお盆休みを除く毎日8:00-18:00に設定し、通常日は15:00-18:00である。

  (4)  拠点は「学校」である。利用施設は体育館、運動場、プール、図書室、家庭科室、理科室などである。学校を活用すれば、子どもは移動の必要がない。施設も環境も、子どもが日常親しんだ、子どものために設計された専門施設である。学校施設であれば、参加者数が増大した場合でも十分に対応でき、地方自治体にとっては最も経済的であり、保護者にとっては最も安心出来る施設である。最終的に、必ず、学校の閉鎖性の打破に繋がり、コミュニティ・スクールの創造に繋がる。

  (5)  子どもの居場所を作っただけでは子どもの成長は保障できない。問題はプログラムであり、その実施方法である。それゆえ、ボランティアの指導者には「子育て支援」研修の受講が義務付けられ、子どもの指導計画は領域別にチームを編成して、チーム内の合議によって決定している。
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  (6)  ボランティア指導者は「他薦」方式によって発掘している。ボランティアの指導には3時間を基準として1、500円の「費用弁償」を支払っている。二つの配慮の組み合わせによって、脱落者はほとんどいない。ボランティアの「無償性」原則を「ただ」と解釈したことが日本社会;特に教育行政と福祉行政の最大の失敗であった。「無償」とは「労働の対価」を受取らないという意味に限定すべきであった。

  (7)  指導者を侮辱し、ルールに従わない子どもに対しては、教育も、指導も不可能である。寺子屋の指導にあたっては、塾長に限り、他の子どもに危険を及ぼす恐れのある行為を繰り返す子ども、ルールを無視して活動を著しく阻害する子どもに対しては厳しく対処し、「尻を叩く」などの体罰を導入している。「子宝の風土」の「甘さ」と保護者の「過保護傾向」を配慮して、親からは、寺子屋の指導方針に対して同意書の提出を求めている。

  (8)  家族、中でも女性が安心して子どもを育て、安心して社会に参画でき、安心して次の子どもを生めるようにすることが制度の目的である。寺子屋システムの最終的かつ最大の目的は「少子化」の防止である。


*2* 問題の複合性と事業システムの「数鳥性」 


  現状で提案されている子育て支援の方法は保育の視点から見ても、教育の視点から見ても極めて不十分である。保育には教育の視点がなく、教育には保育の視点が欠如している。それゆえ、子どもの「安全」と「発達」を総合的に配慮する視点を欠き、支援の方法は非効率的で、男女共同参画を推進する条件整備の課題に応えていない。また、支援の中身は、幼児に対しても、少年に対しても、地域プログラムは教育原理上のバランスを欠き、指導の体制も極めて不十分である。さらに子どもの参加者数が増大した場合、現行の社会教育施設では十分な活動を展開できないことは明かである。それにもかかわらず、地域の公共施設の中で、子どもの活動に最も適した学校は、人的、物的資源の地域開放において、極めて閉鎖的・非協力的であり、放課後や長期休暇中の学校施設は到底、子育て支援の「場」とはなり得ていない。

*3*  複合問題への対処の視点

  このように子育て支援をめぐる問題は複合的であり、その停滞の原因も多種多様である。その主たる原因は、現行の行政制度が保育と教育をバラバラに行っているからである。結果的に、子育て支援のシステムもプログラムも、人、もの、金、時間等社会的資源の無駄と徒労を生み出し、地域の複合的課題に応えてはいない。
  地域社会が当面する課題は、少子化であり、高齢化であり、男女共同参画の不十分であり、少年問題の多発であり、財政難であり、最終的には、これらの問題に対処する分業化された現行システムの制度疲労である。これらの諸問題は、同時多発的に発生し、それぞれに絡み合って、地域課題を複合化している。
  それゆえ、子育て支援の最適のシステムを構築するためには、保育と教育を結合することに留まらない。財政難を考慮し、高齢化も視野に入れ、社会に参画する女性の条件整備を果たし、学校のあり方を含め、従来の分業を見直し、行政の硬直的な縦割りを排さなければならない。
  問題の複合化は、当然、解決策の総合化を要求する。複合化する地域社会の課題を解決する為には、それぞれの課題に関わる諸要素・諸分野を組み合わせた総合システムが提案されなければならない。構想すべきシステムは複数の目的を同時に果たさなければならない。それが事業の「数鳥性」(山口県)である。「数鳥」とは「一石二鳥」の「鳥」が二羽以上になったことを意味する。子育て支援は従来の分業の論理に従って、子育て支援だけを目標にするだけでは十分ではない。高齢化も視野に入れ、財政難も考慮し、制度の効率的活用も果たさなければならない。複合問題は、システムの「総合化」と「数鳥性」を同時に必要としているのである。「タコつぼ」化した従来の分業システムを統合して、複数の目標を同時に達成する仕組みを発明しなければならない。
  それゆえ、求められている事業システムは、少子化の防止に繋がり、熟年の元気に繋がり、子どもの自立を達成し、女性の社会参画条件の整備に役立ち、行政の連携・融合を促進し、学校をコミュニティ・スクールに変革し得るようなものでなければならない。
  果たして、そんな事業システムが可能か!?福岡県豊津町が展開している「寺子屋」事業はまさに「保教育」を原理に掲げた「数鳥性」事業の実践モデルの創造を目指している。

*4*  保教育の不可欠

  子ども達にとっても、親にとっても、最も必要なのは安全な居場所であり、健全な成長を保障する「保育」と「教育」の同時提供である。これを新しく「保教育」という概念で呼びたい。従来の「一時預かり」や「学童保育」だけでは女性は安心して働きに出たり、心置きなく社会的活動に参画することは不安である。その理由は保育の機能が不十分であるというだけではない。もっとも肝心な点は、通常の「預かり保育」には、「教育」がなく、「遊び」がないことである。保育が保育行政だけに任され、教育は主として学校に分業化されたからである。一時保育や大部分の学童保育には、「預かり」や「安全管理」の機能はあっても、子どもの成長・発達を促進する十分な「教育」や「遊び」の視点がなく、教育プログラムを実行するシステムや機能が存在していない。2?3人の保育者が数十名の、しかも異年齢の子ども達を小さな空間に閉じ込めて、教育や遊びのプログラムを展開することはそもそも不可能であった。
  それゆえ、「保教育」の概念は、「預かり」や「安全管理」と「教育」や「遊び」の視点を結合することである。換言すれば、保教育は、親の不在の時に、子どもの居場所と安全を確保し、同時に、成長期の子ども達にその発達を促す教育と遊びの指導を保障することを意味する。保教育を必要とする背景は、「女性の社会参画」条件の促進であり、放課後や休日に残された監督者のいない「異年齢集団」の子どもを想定した教育的補完であり、失われた「地域の遊びや教育力の復活」であり、最終的には安心の子育て条件を整備して「少子化」を防止することである。

*5*  保育における教育の不在?教育における保育の不在

  保教育が実現できない理由は保育が教育機能を考えず、教育が保育機能を考えないからである。保育には、教育プログラムが不在であり、プログラムを実施する指導者が不足している。反対に、教育には、保育の発想が欠如し、働く保護者への支援機能がほとんど全く考慮されていない。保護者の労働時間帯や学校の長期休暇中の子どもの活動プログラムは、教育や遊びの枠の中だけで発想される。したがって、地域における既存の教育プログラムは、親の仕事には関係なく、時間帯も、日数も、不定期、不規則にしか提供されていない。結果的に、子育て支援の教育プログラムは質量ともに評価に値しない。なにより、参加する子どもの数は少数であり、不定期であり、参加者の延べ人数に至っては到底投入している公金の「費用対効果」の評価基準に耐え得ない。結論は、子育て支援の教育プログラムは「支援」の名に値しない。保育機能を伴わない教育プログラムは、男女共同参画時代の子育て支援にはならないのである。両親が就労している家庭にとって、子どもの居場所も、子どもの安全も確保されない自由参加の教育プログラムはほとんど意味がないのである。
  したがって、保教育が不可欠であり、対応策は子育て支援行政における保育と教育との結合である。
 

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