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生涯学習通信

「風の便り」(第68号)

発行日:平成17年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 生涯学習立国の条件: フォーラムレポート

2. 生涯学習立国の条件: フォーラムレポート (続き)

3. 補筆「寺子屋通信」

4. ふたたび英語教育の徒労について −現代学校教育における方法論との前面衝突−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

ふたたび英語教育の徒労について −現代学校教育における方法論との前面衝突−
 

◆ 1 ◆  初めての英語教育講演 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  福岡県穂波町と九州外語専門学校のご縁で、はじめての英語教育についての講演を行なった。主題は「話せる英語」である。
  いろいろ教育方法論上の問題を想定してレジュメを作成してみたら、結果的に少年の「生きる力」の育成と同じような中身になった。語学も、「生きる力」も「体得」が学びの原点である以上、方法論が一致して当然なのであろう。講演のタイトルは「学校英語は変えられるか」とした。結論は、「学校英語は変えられない」、である。学校英語の巨大な無駄と徒労は続く。英語教育の方法に各種致命的な問題がいまだ山積しているからである。しかも、英語教育の諸問題は当然学校教育の問題と重なっている。
  以下は講演を要約した6つの理由である。
  参加者の反応はそれなりにあったようであるが、提案の構成が明確ではなかったと反省している。講演では、指導の原理をより簡潔に提示し、学校教育における方法論上の問題点をもっと明確かつ対比的に論じるベきであった。以下は自戒を込めて講演の論点を再整理し、以前に執筆した分に補筆して再掲する次第である。

  (1)  学ぶ基本が、手本に学ぶ「模倣(モデリング)」であるにも関わらず、大多数の英語教員はクラスに「話す英語」の手本を示すことが出来ない。「手本」が不在なのに「話す英語」を学べるはずはない。
  英語を母国語とする外国人を採用すれば、事は一挙に解決するが、日本人英語教員の失業問題と英語教育の免許状制度がこれを阻んでいる。

  (2)  語学、特にコミュニケーション能力は「文型」の「体得」であるにも関わらず、現代の学校は、「個人思考」の重視、「自主性」の重視を言い張って、「型」の指導を受入れない。「型」の指導は「他律」であり、「詰め込み」であり、「自律と主体性」の敵であるというのが学校教育方法論の主流である。
  結果的に、現代の子ども達は英語の「文型」が分らないだけでなく、「礼儀作法の型」も、「共同生活の型」も、「思いやりの型」も分かってはいない。

  (3)  現代の学校を支配しているのは、大脳の働きを主とした「学習」であって、心身の全感覚機能を動員した「体得」に対する理解が欠落している。結果的に、口先の知識や概念が優先され、行為と行動の実践は後回しになる。

  (4)  現代の学校は、あらゆるトレーニング、あらゆる学びの基本となる「体力」と「耐性」の前提条件の重要性を、総じて看過している。それゆえ、多くの子どもは、心身ともにへなへなであり、英語に限らず、あらゆる学業の持続と集中に耐えられない。英語教育に限らず、集中と持続と学習の構えのないところで子どもに教えることは出来ない。

  (5)  学校教育は傾向として「競争」を禁じ、勝敗を避けようとする。しかし、「前頭葉連合野」を発達させた人間から闘争本能を抹殺することは不可能であり、不健全である。スポーツでも、ゲームでも、英語の学習でも、その他の勉学でも、競争の熱気と興奮を向上の意欲に代えて行く工夫が乏しい。別項の寺子屋通信補講を参照して頂きたい。

  (6)  師弟の心理的距離を消滅させたのは、戦後教育の最大の失敗である。学校民主主義の「バカの一つ覚え」は、「友だち先生」を大量生産した。民主主義の名のもとに、社会心理学上の「師弟の距離」を解消したことは、学ぶ者の指導者に対する尊敬と憧れの基本条件を破壊したことを意味する。指導者への礼儀を確立して、師弟の心理的・社会的距離を保障する教育上の仕組みは、日本の教育風土が工夫した最良の「擬制」システムであった。指導者への尊敬と憧れがあってこそ子どもは指導者に自分を重ねて学ぶ。それが「同一視」である。尊敬する指導者だからこそ、その人のレベルに到達したいという学ぶ者の自己向上努力が期待出来る。憧れと尊敬の仕組みを破壊し尽くした学校環境の中でどうして子どもは「あの人のようになりたい」と思うだろうか!?これも又英語教育だけの問題に留まらない。学校が子どもにルールと規範を教えられないのは、学校民主主義の最大の副作用である。ここでも又、『豊津寺子屋』は「友だち先生」の関係を否定し、子どもの指導環境の中に、かつての師弟関係を参考にした「尊敬と憧れ」のシステムをつくり出そうとしているのである。
  かくして「学校英語」が変えられない、ということは「学校教育」が変えられないということに通じている。



◆ 2 ◆  教育の3原則 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  教育の3原則は以下の通りである。

    「やったことの無いことは出来ない」
    「教わっていないことは分からない」
    「練習していないことは上手には出来ない」

  現代の多くの子どもが「タオルを絞れない」のも、「生卵が割れない」のも、「リンゴの皮がむけない」のも、「靴ひもが結べない」のも、その他諸々の生活態度、生活技能が身に付いていないのも、上記の3原則をクリアしていないからである。「英語を話せない」のも同じ理由による。学校英語はこのことにいまだ気付いていない。

◆ 3 ◆   「型」の指導は「体得」である ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


   (1) 「型」の指導は子どもの興味・関心から出発しない。したがって、現在、発展途上にある「半人前」の子どもを「一人前」には処遇しない。結果的に、「半人前」の子どもの主体性は「半分」しか認めない。子どもの「主体性」・「自主性」を全面的に信仰する現代の学校教育と「型」の指導は正面衝突を免れない。

   (2) 「体得」の指導法は、「あるべき態度や行動の型」から出発する。したがって、習得すべき「型」の中身と方法は先生が選択する。ここで教師主導型の教育は、多くの点で学習者主導型の学習と対立する。「体得」の指導は、習得させるべき「型」の「枠」の中でしか「君だったらどうしたい?」とは聞かない。「型」の教育は意味が後から来る。子どもは「型」を自分では選択しない。

   (4)  「型」の指導は「反復」を重んじる。練習を積む以外上達はあり得ないからである。

   (5)  「習うより慣れろ」が「型」の教育の原点である。

   (6)  最大の副作用は「型にはまる」ことであり、「型通り」にしかできなくなることである。予防法は世阿弥のいう「型より入りて、型より出でよ」であろう。「型」を体得したあとで、個々人が自由に創意工夫を施してみる事を奨励すれば、副作用は防止出来る。



◆ 4 ◆ 言語は「型」 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


   作法が礼儀正しい「態度と行為の型」であるように、親切な行為は「思いやりの型」である。当然、言語もコミュニケーションの「型」である。「文型」というのがその証拠であろう。日本語に「型」があるように、英語にも「型」がある。日本語の習得が、日本語の「文型」の習得であるとするならば、英語の習得も同じく、「文型」の習得ということになる。文法の基礎が大事なのは「文型」の成り立ちを理解するためである。もちろん、受験問題に登場するような高度にして難解な「文型」や文法はコミュニケーションの英語には不要である。われわれの日常的コミュニケーションがどの程度の種類と数の「型」を使うかによって、文型もその基礎となる文法も教えればいい。



◆ 5 ◆  学校英語は「型」を習得させていない ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  コミュニケーションのできない学校英語の状況を延々 100年以上も許して来た文科省はまともではない。現在の日本経済がおかれた怒濤のような国際化の波を思えば狂気の沙汰と言っても過言ではない。普通の日本人は最低でも6年間英語を学んでいるのである。高校進学率が90パーセントを優にこえる世界一の中等教育を擁しながら、中学3年、高校3年の6年の英語教育はほとんど実らない。
  大学を出ても話せないのだから、と国民の多くはすでに諦めている。英語への向学心は消えていないのに、自分が英語がはなせるようになるとは期待していない。学校英語は英語の「文型」を体得させていないのである。多くの関係者は、母国語が十分に出来ないのに英語ができるようにはならない、という迷信をまき散らす。しかし、「話す事」と「話す中身」は別の問題である。議論の中身は教養の中身に限定されるが、言葉が「文型」である以上、「型」を学びさえすれば、会話力は基本的に母国語のレベルとは関係がない。外国にはもちろん、日本国内にも、英語教育のモデルはふんだんにある。都市にはいたるところに様々な英語学校があって現実に機能している。これらの学習モデルが学校教育に取り入れられない理由はたった一つである。それは、誰かが「現状でいい」と主張しているからである。現状を容認している根源は教員制度である。換言すれば、英語教員の免許状制度が変革を拒んでいるのである。英語を話せない教員に話せる英語を教えられる筈はないからである。制度改革に着手せず、現状を放置している一方の代表が文部科学省である。他方の代表は、中学から大学までの日本人の英語教員である。多くは、英語を使って十分なコミュニケーションが出来ない教員である。当然、「英語で英語の授業はできない」。残りは、コミュニケーションの英語をばかにして英米文学を専攻している教員である。


◆ 6 ◆  「型」の指導の特性 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  「型」の教育は意味が後から来る。子どもは「型」を自分では選択しない。「型」は先人の知恵として子どもの興味/関心の以前に「先在」している。子どもの興味・関心の故に「型」をきめるのではない。「型」に価値があるので「型」の中身を決めるのである。それゆえ、「型」の指導は「子どもの主体性」論と正面衝突するのである。「型」の指導は、子どもの興味・関心を前提としないので「詰め込み」である、という非難が生じる。反対論の根拠は間違ってはいない。「型」は究極の「詰め込み」である。しかし、「究極の」とは単なる知識の詰め込みではないという意味である。「型」の指導は「体得」の指導である。「型」の指導は「子どもの主体性」をある程度無視せざるを得ない。「主体性」や「自主性」は「型」の枠内でしか認めない。学ぶべき「型」の枠の中で『君ならどうする?』と聞くにとどまる。
 「型」の指導の基本は「詰め込み」であるが、必要な基本的能力を詰め込むのは当然である。詰め込んでもらえなかった子どもの不幸を考えて見れば明らかであろう。「型通り」は、確かに「創造」の反対の極にあるが、対抗すべき型枠がなければ、それを打破するような創造性は生まれる道理がない。「創造力」こそは「基本型」に精通した人間による「型」の破壊であり、革新である。「型」の指導は知育ではない。「型」は体験を通した「体得」である。英語を話せないのはコミュニケーションに必要な文の「型」を「体得」していないからである。


◆ 7 ◆  「他律」と「管理主義」の混同 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  教育の管理主義は確かに学ぶ者の活力を殺してしまう。しかし、内部に自律を含んだ他律は教育の「管理主義」とは原理的に異なる。子どもは出発点において、自分の事も自分では十分には出来ない。自分の事も自分では十分に決めることは出来ない。自分の稼ぎは先の先の話である。だから「半人前」と呼ばれてきたのである。「一人前」に遇するには未だ先が長いのである。それゆえ、「やるべきこと」も「やり方」も、「決めるべきこと」も「決め方」も指導する者が主導する。それが「他律」である。「他律」から出発するということは、他律の中で自律の能力を学ぶことを意味する。「他律」は未来の「自律」を目的とし、「管理」を目的とはしない。これに反して「管理主義」は「支配」を目的とし、「抑圧」を手段とする。それゆえ、「管理主義」の中では子どもは、制約の枠を自身の判断で出ることは許されない。
  教育における「他律」は、「他律」から出発しても、やがて「他律」の枠を外して、「自律」へ移行することを想定している。「型より入りて、型より出ずる」と世阿弥が指摘した通りである。「型」を踏んだ後に、「型」から自由になろうとする世阿弥の哲学は教育に秩序を与え、同時に「型通り」の副作用を防止する。「型」が示されれば、子どもの活動に向上の方向を与える事ができる。浅薄な批判は「他律」と「抑圧」を混同するが、「他律」は、自律への移行を目的とする、教育的に配慮された指導の枠組みである。「管理主義」は、「抑圧」でり、「支配」であって教育ではない。それゆえ、管理主義は「支配主義」の別名である。管理主義の否定は、教育官僚主義/学校官僚主義への反動であるが、現代の教育は「抑圧」と「支配」を恐れる余り、「型」の指導、「他律の重要性」までをも否定してしまったのである。


◆ 8 ◆  成人の「話せる英語」実践 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  講演ではお集りの英語の先生方に、筆者が担当する公民館の英語講座の学習実践を紹介してみた。公民館では、つい先日第二回のスピーチプレゼンテーションを終わったばかりである。実践英語を説く以上は、具体的な証拠を示さなければならない。そこで英会話クラスで奮闘中の成人学習者が取り組んだ二つの学習事例を紹介した。教材は「落語」の「まんじゅう恐い」の英語版とシャーロック・ホームズの作者「コナン・ドイルについての逸話」である。いずれも講座の学習者が発掘し、暗唱してきた資料である。参会の皆さんには、教育は「論より証拠」であると申し上げた。いささか強気に過ぎたが、「型」の指導を反復することによって「英語のはなせる熟年」が育ちつつあります、と宣言した。夏の中間プレゼンテーションは学習者だけの内輪で行なったが、来年の3月には「風の便り」紙上にスピーチ・プレゼンテーション大会のご案内を載せたいと夢見ている。

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