生涯学習立国の条件: フォーラムレポート
ようやく中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会25周年記念出版の原稿の編集を終えようとしている。8月の定時生涯学習フォーラムには曲がりなりにも一冊のモデル本を提出することができた。これから同人諸氏のご意見を聞きながら来年5月の大会時の出版に向けて推敲を重ねて行きたい。以下はフォーラムレポートに代えて、生涯学習立国論の「序文」原稿に若干の補筆を施したものである。
1 変革の根源
経済における構造改革も、政治におけるリーダーシップの確立も、司法の改革もすべて日本社会の根幹に関わる重要事項である事に異論はない。しかし、何がもっとも重要かと問われれば国民の「質」である。それゆえ、あらゆる改革の基本も、あらゆる外交の根幹も、あらゆる経済活動の土台も、教育に依存し、「生涯学習」の成否を反映せざるを得ないのである。すべての変革の成否は国民の理解と姿勢と活力が決するものだからである。すべての活力の根源は人間の生き方に掛っているからである。そしてまた、人間の生き方・姿勢はすべからくその関心と意識の有り方に掛っているからである。
もちろん、人間を育てるのも、その生き方を決するのも最後は最も広い意味での学習と教育になることはいうまでもない。特に、生涯に亘って変化が連続する時代には、生涯に亘る継続的な学習が最も重要になることは論理的な必然なのである。それゆえ、今や、人々の生涯学習の成否が国家社会の根幹を決定するようになったのである。経済も、政治も、司法も、改革の成否は、詰まるところ、国民の理解と自覚の如何に掛っている。国民が理解しないあらゆる改革は一歩も前に進む事なく、国民が自覚しない改革は確実に挫折せざるを得ないからである。生涯学習が立国の条件となる所以である。
2 変化の連鎖?革新の連鎖
生涯学習の登場はそもそも「変化の連鎖」が生み出したものである。変化は連続し、変化は拡散し、変化はスピードを増しつつ次の変化を生み出す。「変化の連鎖」は、時代の最大の特徴になったのである。変化の推進力は技術革新であり、それが社会システムの革新につながり、更にふたたび、新しい社会の仕組みが技術革新を加速させる。この間、変化に適応できないものは、取り残され、必然的に陳腐化する。かくして、変化への適応が生き残る為の条件となる。そのメカニズムが生涯学習の生みの親である。
高齢化は保健医療技術の革新によってもたらされ、情報化は情報技術の革新によってもたらされる。当然のことである。全ての技術革新は総体としての生産力を向上させるので、技術力の高い日本の製品は、性能も、価格も、耐久性も世界の製品に優っている。かくして、日本の製品は世界の市場で歓迎され、日本は貿易立国が可能になる。貿易立国とは世界との付き合いを意味する。それゆえ、経済も、生活も、教育も、世界の中の日本を成り立たせるためには、国際化が不可欠となる。すべての国際化は世界との交易がもたらすものであり、かつまた、世界とのいっそうの交易のためには更なる国際化が必要となるのである。
ある分野の変化は別の分野に影響をもたらし、変化が変化を呼ぶ連鎖反応を引き起こす。それゆえ、変化はほとんどあらゆる分野において、かつての知識・技術・考え方を陳腐化する。変化は革新を要請し、変化の連鎖反応は、革新の連鎖反応を要請する。技術革新を震源とする社会変化は生活の全分野に及ぶのである。かつての制度は制度疲労を起こし、かつての役割分担は無境界化現象によって新しい役割と責任の守備範囲を決定しなおさなければならない。新しい技術も、新しい関係も、新しい仕組みも、すべて新しく学び直さない限り役には立たない。それゆえ、変化は新しい教育を必要とし、革新は絶えざる学習を要求する。日本企業はその要求に応え得たからこそ世界に通用するのである。同じことは政治にも、行政にも、教育にも、メディアにも、地方の暮らしにも、男女共同参画にも、子育て支援にも、高齢化対策にも要求されている。果たして、現行の生涯学習施策と実践はこれらの要求に応え得ているか?立国の処方箋を書く為には、生涯学習の現状診断が不可欠である。
3 変化は願望の実現
変化は必要があって起こる。変化は人間の夢と希望の実現の結果である。それゆえ、変化の総体は人間の願望の実現を反映している。もちろんどのような変化にも、副作用があり、行き過ぎがあり、変化の過程が不公平を生み、不利益を被る人々も発生する。しかし、そうしたマイナス要因にも関わらず、変化を目指すエネルギーが人間の願望を原点としている以上、人間生活をよりよいものにしようとする「変化の連鎖」を止めることは出来ない。全ての変化の基本は人間自身が望んでいることだからである。
変化をより早く、より公平に、より合理的に、できれば不利益を被るひとを説得して、その犠牲を最小限にとどめようとすることが、社会変革である。それは技術の変革であり、思想の変革であり、システムの変革である。あらゆる変革は人々の理解と活力なしには起こり得ない。かくして、生涯学習は社会変革を迅速かつスムーズに進行させる原動力として登場したのである。「学習」こそが理解の根源であり、社会的条件の変化に対する適応の手段であり、より豊かで、より人間的な「自分」への自己変革の方法だからである。かくして、生涯学習は衣食住と並んで変化の時代の必需品となったのである。
4 活力の基
生涯学習は個人の向上と幸福に関わっているが、それに優るとも劣らぬ比重で社会の活力創造に関わっている。社会の活力は、社会を構成するひとり一人の国民の活力の総体だからである。国民の活力はひとり一人の元気と健康を基盤とし、ひとり一人の独立心、自己革新、挑戦の精神を基盤としている。国家・社会の発展方向は、発展の必要条件についての国民の自覚と理解に掛っている。
もちろん、国家社会の未来は現在育てている子どもたちの資質と能力の如何に掛っている。その彼等がさまざまな危機に当面している。危機とは少年の「弱さ」であり、彼らが身につけた社会規範の貧困であり、自らの資質を十分に開発出来ていない実態である。学校の責任は大きく、生涯学習施策の責任も大きい。少年の危機は必然的に未来の社会的危機に繋がる。少年における「生きる力」の欠如は、早晩、社会を脆弱にし、国家を衰退させるからである。
次に、高齢化の急激な進行も大問題をもたらす。労働から引退した高齢者を放置すれば、心身の衰弱は不可避であり、必然である。労働において活用していた機能を引退と同時に休止すれば、頭も、身体も、精神もその働きは急降下する。人口の高齢化と高齢者の衰弱が同時進行すれば、医療も、介護も当然破綻する。結果的に、老人は社会のシステムを破壊し、若い世代との世代間対立を激化させる。高齢社会における地方の活力は、高齢者の活力の関数である。増え続ける高齢者が元気を失わなければ、地方も活力を維持することができる。「老い」は基本的に「衰弱と死に向かっての降下」(ボ?ヴァワ?ル)であり、「活力の喪失」は年老いた生物の必然である。「老い」は、当面、なんびとにも止められない。それは肉体的衰えに留まらない。社会的な自立能力も衰え、精神的な自律能力も衰える。この時、高齢者の元気は生涯スポーツや生涯学習やボランティア活動の関数である。生涯学習は元気と活力の「必需品」である。
老いがもたらす衰えをソフトランディングさせることが、生涯スポーツと生涯学習の課題である。その成否は、個人の幸、不幸をわけ、高齢者の社会貢献や医療や介護を通して、社会の活力の浮沈に大きく影響する。高齢者教育の現状は明らかな失敗である。医療も、介護もこのままでは疑いなく破綻する。現代の日本を築き上げて来たタフな人々が引退と同時に一気に老衰し、衰弱している。高齢者大学や老人センターに見るごとく、老人の活動が、ゲートボールやグランドゴルフ、歌や踊りの娯楽、趣味、教養ざんまいに明け暮れ、残された生涯時間20年を遊びと風呂で過ごそうとしている。気楽な余生を、気侭に送って、加齢とともに老いぼれて行くだけでいいのか?労働が終わった定年後は社会に必要とされなくてもいいのか?現状の財政難が続いた時、果たして若い世代は高齢者の気侭な贅沢三昧を保障する負担を許容できるのか?高齢者の社会貢献活動が問われ、生涯学習の中身と方法が問われている。
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