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生涯学習通信

「風の便り」(第68号)

発行日:平成17年8月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 生涯学習立国の条件: フォーラムレポート

2. 生涯学習立国の条件: フォーラムレポート (続き)

3. 補筆「寺子屋通信」

4. ふたたび英語教育の徒労について −現代学校教育における方法論との前面衝突−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

5   「公平」の生涯学習                                                               

   社会の活力の元が国民の活力である以上、国民の半分を支える女性の元気は社会の活力の半分を支えている。「女子は半天を支える」のである。社会を支える女性の元気は、男女共同参画によって実現する。この時、男女共同参画の具体化は、女性の能力の開発・活用にかかっている。女性には、従来、男性に比べて、教育の機会も、研修の機会も、就労その他の社会参画の機会も少なかった。それゆえ、女性の現状を真に変革しようとすれば、生涯学習や社会参画の実践を通して、女性自身が己の実力を向上させるしかない。女性の自立にとって生涯学習は社会参画の武器である。この武器を活用して学ばない限り女性の実力は向上しない。
  一方、男女共同参画の前に立ちはだかるのは「変わりたくない男」である。彼らの自己革新もまた、生涯学習の成果如何である。男性主導の現行システムの変革は、男性自身の学習によって意識の変革が実現しない限り決して進展しない。しかし、実際問題として、多くの男達は「公平の生涯学習」には聞く耳をもたない。かくして、「変わりたくない男」と「変わってしまった女」の衝突は長期化する。結果的に、農山漁村の嫁不足は全く解決せず、全体社会の少子化・晩婚化も止める事は出来ない。男女の争いがこじれれば 熟年離婚や家庭内暴力も多発せざるを得ず、現にその傾向はますます強まっている。男女共同参画を阻んでいる大部分の要因は「伝統」と「しきたり」による意識の固定化である。数万年、数十万年に亘って、筋肉の力に依存して、労働と戦争を続けてきた人間社会は、筋肉の働きに劣る女性を蔑視する傾向は免れない。特に、男の腕で支えてきた農山漁村の「筋肉文化」は女性を対等とは認めない。筋肉文化が生み出した「伝統」と「しきたり」は頑強であり、男女共同参画の実現を妨げて来た象徴である。それゆえ、農山漁村は、いまだに、時代の趨勢を理解せず、女性が歴史的におかれてきた不公平・不平等の状況を打開しようとはしていない。女性を蔑視する農山漁村文化が、後継者の「嫁不足」によって徹底的に復讐された今となっても、地方の男性支配と女性の参画を認めない様々なシステムは現存する。社会はいまだ、伝統としきたりこそが女性の敵であり、「公平」の敵であるとは認識していないのである。女を参画させない伝統としきたりこそが、「筋肉文化」の最後の抵抗であり、不公平の現代的象徴である。
   対等で公平な「共同参画」の理念はあらゆる人権問題の基本原理である。それゆえ、「いつでも、どこでも、誰でも、なんでも」市民がそれぞれの選択意志によって共同参画できる社会的システムを確立することは社会の最終目標となる。言うまでもなく開かれた共同参画の原理こそは生涯学習の出発点でもある。関心と意識が人々の行動の基盤であり、生涯学習こそが関心と意識を醸成する機能である。
  男女共同参画に限らず、あらゆる差別の問題を解く鍵は対等な共同参画を阻んできた「しきたり」と「伝統」の点検にある。それは「公平」の生涯学習に突き付けられた「変革の宿題」である。文化における「伝統」と「しきたり」を安易な「不易」に置き換えてはならない。歴史を見る限り、基本的に、どこの文化においても、絶対不変を主張出来る「不易」など存在する筈はないのである。


6   やり甲斐の基                                                     

@   新しい縁

   元気でなければ何も出来ないが、ひとりぼっちでも何も出来ない。第一、ひとりぼっちでは物事への意欲が湧いてこない。仲間がいて、集団の励ましや賞賛があって、初めて活動のやり甲斐も生じる。交流のネットワークは意欲の基である。「社会的承認の欲求」は人間存在の基本条件である。
   社会人類学者の中根千枝は、日本文化における交流のネットワークは「経験の共有」によって得られると指摘している。従来は、血縁、地縁、結社の縁(職縁)が交流の基盤であり、経験を共有する舞台であった。親族はもちろん、近隣社会の付き合い、学校のPTAや子ども会、同窓会、県人会、会社の同僚・仲間が大部分の経験を共有した。
   しかし、今はこれらに「新しい縁」が加わっている。それが「生涯学習の縁」である。それはボランティア活動のような「同志の縁」であり、職業訓練や生き甲斐学習が生み出す「同学の縁」であり、趣味の活動を共有する「同好の縁」である。新しい縁は、生涯学習の選択原理が造り出した縁である。

A   21世紀の「同じ釜の飯」

   高齢社会の平均寿命はあくまでも「平均」である。夫婦も、昔なじみも「とも白髪」となるまで生き延びる保障はない。それゆえ、パートナーに先立たれた孤独も、仲間が先きに逝ってしまう交流の「貧困化」もみずからが工夫して切り抜けなければならない。高齢社会に生き残った者は、確実に「心の支え」が先細りし、気持の拠り所が貧困化するのである。アメリカの心理学者ペックはそれを「情緒的貧困化(Emotional Impoverishment)」と名付けている。
   地縁、血縁、結社の縁は、核家族化、高齢化、国際化、選択原理の浸透などによってますます希薄化している。大部分の親はすでに成人した子どもと一緒に住むことはできない。子どもたちの地元就職はすでに不可能に近い。幸運にも地元就職が可能であったとしても、子どもたちは独立の核家族を形成する。職業上の地域間移動は今や地球規模で行なわれる。定年が過ぎて、生き残った高齢者にとって、従来の「縁」は、日常の暮らしから遠い。血縁も、地縁も、職場の縁も、具体的な交流の支えにはなりにくいのである。したがって、「心の支え」とならず、「気持の拠り所」となりにくい。それ故に、生涯学習社会、特に高齢社会は、「新しい縁」を支えに暮らす社会である。高齢者を支えるのは、生涯学習や生涯スポーツの仲間であり、ボランティアの同志の人々であり、活動の縁によって出会った新しい人間関係である。そのため、生涯学習を選択しなかった高齢者は、新しい縁に出会うことが難しい。生涯学習こそが21世紀の、なかんずく高齢社会の「同じ釜の飯」だからである。
   社会的承認の欲求は唯一仲間の存在によって満たされる。仲間に出会えない老後は意欲の基を失ってしまう。意欲が湧かなければ関心は育たない。関心のないところ新しい活動は始まらない。かくして生涯学習に巡り会わなかった高齢者は、意欲を欠き、元気を欠き、人間としての活力を欠くことになるのである。活力を失った人々は基本的に社会の負担と成らざるを得ない。
   高齢者が社会の負担と化せば、社会の全体活力は急降下する。かくして、高齢社会は生涯学習を社会の必需品にしたのである。



7  「訓練された無能力」の解消                                         

   「訓練された無能力」とはヴェブレンの言葉である。技術が変わると古い技術は陳腐化する。社会的条件が変わると従来の考え方や態度は時代遅れになる。訓練された過去の能力は、変化のフィルターを通り抜けると「訓練された無能力」と化すのである。世に言う「抵抗勢力」の多くは、あたらしい状況を理解せず、あたらしい知識・技術を活用せず、今まで通りを主張するひとびとであろう。問題は訓練の有無ではない。訓練された中身が陳腐化して役に立たない、ということである。
   当然、社会・経済の構造改革は多くの失業者を生み出し、多くの配置転換を必要とする。新しい職業とこれまでの労働力のミスマッチも発生する。再訓練と職種転換教育は不可欠となる。これらはすべて変化への「適応」を要請し、「適応」は当然生涯学習の重要課題である。人間の生涯に亘って、社会的諸条件が変わり続けるとすれば、人間の生涯に亘って、適応のための学習が必要になることは理の必然であるからである。最も分りやすい例がコンピューターである。コンピューターが使える国民とそれが使えない国民では、情報化の進展が異なる。IT講習が成功しなければ、情報の共有や伝達効率は上がらず、ビジネスにも、生活にも遅れを取る。情報機器を活用しない国民では、情報産業も栄えるはずがない。IT講習という生涯学習の成否が産業構造を変える引き金になり得るのである。技術の変化は常にシステム改革を要求し、構造改革を要求する。生涯学習が成功せず、変化を拒否する「訓練された無能力」を拡大再生産するとなれば、国際競争に勝ち目はない。労働力の再訓練がビジネスの最大課題になることは理の当然であろう。生涯学習、生涯研修は、社会システムの進化にとっても、産業の再生にとっても、雇用の促進にとっても、不可欠の条件であることは論を待たない。

8   格差拡大の不可避性                                               

   生涯学習が生み出す最大の危機は「格差」の拡大である。特に高齢社会においては「生涯学習格差」が高齢者の明暗を分ける。生涯学習(スポーツ)を選んだ老人と選ばなかった老人とでは健康の明暗を分け、交流の機会の可能性を分ける。社会・経済の構造改革の「副作用」を被る人々にとっても、生涯学習の成否が変化に対する適応の成否を決定する。生涯学習に出会った人とそうでない人、生涯学習を選んだ人とそうでない人との格差は無限大に広がる。子どもの学校五日制も同様である。教育行政は五日制の導入を「ゆとりと充実」のスローガンをもって説明したが、スローガンが実現できるか、否かは、子どもが過ごす週末の生涯学習(スポーツ)のプログラム次第である。自由時間の増大は選択可能性の増大である。選択する者としない者が分かれれば、子ども達にも又、「生涯学習格差」は確実に広がるのである。
  具体的な格差の中身は、知識格差・情報格差、健康格差、交流格差などである。結果的に、社会貢献の度合いや生き甲斐、自尊感情などにも「格差」が発生する。格差は人生の全領域に広がるのである。
   「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」という生涯学習のスローガンは選択肢の拡大と選択の自由を前提にしている。そして「選択可能性」の拡大はかならず「格差」を発生させる。生涯スポーツや生涯学習の実践の有無は当然、本人の責任である。しかし、生涯スポーツや生涯学習を選択しなかった人々のつけは、必ず全体社会に廻ってくる。「とじこもり」や「ボケ」や「寝たきり」の増加を予想し、社会的活力の低下を予見しながら、現在のような行政主導型の生涯学習プログラムでは、新しい学習者の発掘は出来ない。格差は拡大を続け、高齢化の先行きが思いやられる。
   官が民に劣るのは、工夫と意欲である。行政主導型生涯学習施策に意欲と工夫が劣るのは評価と競争原理が欠如しているからである。宅急便も、コンビニも、IT 革命もすべて「民」が先行してきた。「民」においては、情報と機会を開放すれば、必然的に評価がおこなわれ、競争原理が働く。評価と競争のあるところ、工夫も意欲も先行するのは当然である。幼稚園から大学まで、全ての公立の生涯学習関係機関には、基本的に職員評価も、事業評価も不在である。評価も競争もない「官」の事業は、安易な「親方日の丸」と化すことは不可避である。生涯学習が立国の基本条件となる現在、その機会の整備と提供を自己革新の出来ない「官」のみに任せることは極めて危険なのである。
   かくして民営化が必要になるのは特殊法人や郵政三事業の問題だけではない。社会が必要とする生涯学習の大部分は、「官」と「民」との契約による運営の実験に踏み出すべき時である。最小限「公設民営」の契約による「チャーター方式」へ移行すべきである。格差の拡大を防止するためにも競争原理と第三者評価の導入による新規学習者・新規実践者の開拓は生涯学習支援の焦眉の課題である。

 

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