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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第66号)

発行日:平成17年6月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 「参画」・「発言」・「相乗効果」・「創造」の実感 −KJ法の威力−

2. 公設民営理念の登場と運営方法の革新

3. 異年齢の集団あそび

4. 第57回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第57回生涯学習フォーラム報告

  第57回のフォーラムの事例分析は、正平辰男さんの「生活体験学校が問うたもの」(第4回および第5回大会発表)と、永渕美法さんの「NPOコーチズの取り組み」(第24回大会発表)の2点である。論文発表は、「日本文化における知的風土の変革と生涯学習革命の軌跡」と同論文を素材とした同人の共同討議をまとめたものを提出した。(三浦清一郎)

1  「生活体験学校」の変わらぬ問い

  現代の少年には「困難体験」と「労働(生産)体験」が欠損している。生活体験学校が問うたものは基本的にこの2つの体験であった。発表はすでに20年もの昔に遡るが、当時に問われた問いは今も変わらない。確かに、生活体験学校は、少年の生活教育に理論的な衝撃を与えた。通学合宿も全国に多くが生まれた。しかし、当時、問われた問いは真っ当な答を得ていない。現代の少年教育は、「困難体験」も「労働体験」も実現してはいない。ままごとのような「職業体験」、さらに「ごっこ遊び」に毛の生えたような総合的学習は子どもの「生きる力」を抜本的に方向転換させるエネルギーにはほど遠い。子どもの各種欠損体験は、その度合いが悪化こそすれ、改善はほとんど見られない。その証拠が不登校であり、引き籠りであり、多発する大部分の非行であり、長じてはニートであり、フリーターにつながる。
  生活体験学校の理念も、社会教育が努力した「自然体験」も、「社会参加体験」も、上記2つの体験も、ついに学校はそれらの意味の重大性を理解することはなかった。それゆえ、学校が圧倒的な「ひと、もの、かね、時間」をもって支配する少年教育はいまだ変わりようがないのである。
  学校自身が欧米型の「児童中心主義」を信奉し、「子宝の風土」の両親を説得し得ない以上、少年の欠損体験の教育的補完は事実上困難である。自立のトレーニングは必ずなんらかの「鍛練」を不可欠とする。しかし、「鍛練」概念を「軍国主義」教育と混同し、少年の「主体性」とか、「自主性」に振り回されている日本社会では、子どもの主観が「辛い」と言えば、取りやめ、「苦しい」と言えばプログラムの挑戦のレベルを緩和する。子どもの機嫌を取り、そのわがまま、勝手に振り回されて、子どもの指導はできない。それゆえ、現状で、「生活体験学校」の理念や実践が一般化する可能性はゼロに近いのである。庄内町も来年の3月をもって新しいまちと合併する。結果的に、「生活体験学校」の守備範囲は一挙に拡大する。新市はこのユニークな施設とプログラムにどのような評価と位置を与えるのか、注意深く見守りたい。

2  「コーチズ」は先駆け

  「コーチズ」は広島県の生涯学習で「飯を食っている」自立するNPOである。その登場は「行政主導型生涯学習」プログラムの終焉を暗示している。福祉:介護におけるプログラムの公設民営化を示唆している。すぐれた市民の指導者が生涯スポーツや学習を担当出来るということは、「事業化」について素人である行政を大いに助けて、「協働」の可能性を拡大した。「コ?チズ」は自立する生涯学習NPOのモデルハウスである。その発展史の詳細は事例分析に譲るが、コーチズは指導のプロセスにおいて、雇用をつくり出し、その雇用機会を暴走族少年達の立ち直りに活用することもできた。行政では、福祉と教育が共同化というようなたった一つの縦割りの壁すら打ち破ることはできないのにNPOは軽々とそうした規制を乗り越えてしまうのである。コーチズの最大の意義は、生涯学習において、内容・方法ともに「特定非営利」事業の先駆けを為した点である。

3  知的風土は「革命的」に変わったか? −共同討議を振り返る−

  久々に5年前の共同討議の資料を点検して、改めて感じるところがあった。以下、順不同であるが、今回再整理した論文の中から、同人の発言を箇条書きに振り返ってみる。

(1) 生活実感にも、学校にも生涯学習は届いていない。
  生涯学習が「知的風土」に変化をもたらしたとしても、わたしの身辺の、日常生活レベルで実感できる変化はまだまだほのかで、ささやかなものに見えます。それは何ごとに限らず、政府が国のレベルで政策上の音頭を取っても、日常生活に届くまでには、文化浸透の時間がかかり、定着までの紆余曲折があるのだと思います。
  しかし、「革命」と言う以上、一番大事なことは、意識の問題であり、生活実感ではないでしょうか。都道府県さらには市町村レベルの個別の施策が市民の日常の具体的な活動実践として創出されない限り、生活上の実感には届かないのだと思います。(正平辰男)

  学校にも生涯学習は届いていない。学校は生涯学習システムの真中にあると言われながら、実質はほとんど変わっていないですね。これから変わるのでしょうか。生涯学習システムが進化していく中で学校はどんな機能と役割を果すことになるのでしょうか?私には生涯学習を展望した学校変革の完成予想図がほとんど見えてないような気がします。「社会教育の窓」から見た生涯学習が「革命」であったとしても少なくとも学校には生涯学習の風は届いていないと思います。(森本精造)

 (2) 変化は「古き、良きもの」も巻き込む
   消えそうになっているものも沢山ありますね。社会の変化あるいは生涯学習革命の進展によって、例えば伝統的共同体が育んできた古き、よき価値が滅んでいくとすれば、革命の進行をとめるため、伝統に育まれた価値を守るために「新撰組」を作りたいと思いますね。(今村隆信)

 「不易」の重さ
   社会変化の側面から見るとまさしく生涯学習は「適応」を目的とするように見えますが、変化すべきでないものに対する視点が抜け落ちる傾向がないでしょうか?教育には常に「不易」と「流行」の判断と発想があって、「不易」に対する感覚は重いものです。生涯学習によって様々な変革が実際に進行していても、かつてから存在する「不易」の部分が強力に残っていることも確かなのです。青少年教育分野では特に「不易」の部分をはっきりさせておく必要があると思います。(森本精造)

 どんな変化も直線的には進行しない

   もちろん、「革命」が常に正しいと言うつもりは全くありません。それまでの伝統や不易の価値をほとんどすべて否定して、全中国を大混乱に巻き込んだ「文化大革命」などが最近の一つの例ではないでしょうか。生涯学習革命に対抗するためかどうかは別として、「新撰組」は現にたくさんできつつあるのではないでしょうか。「町内会を守れ」、「青年団を守れ」、「婦人会をてこ入れせよ」などは、目的集団や自主サークルなどの登場によって一気に弱体化してきた従来の組織に対する応援歌である事は疑いないと思います。もちろん、これらの組織は理由なく衰退したのではなく、市民の選択によって衰退しているという事が注目すべき現象だと思われます。
   ある意味では皮肉な事ですが、社会教育行政が補助事業をもって、従来の伝統的な組織を守らねばならないという現象自体が、生涯学習の「選択原理」に基づく「革命」の進行を証明していることになるのではないでしょうか?とにかくどんな変化も直線的には進行しない事は間違いないと思います。(三浦清一郎)

(3)  学習は社会的風土と中身次第
   私が読んだ報告では、公民館などで最も空白になっていると指摘のあった30代の女性が都会では一番学習熱心で、自らに教育投資をしているということでした。公民館が壮年の世代を引き付けうるプログラムを提供出来ていないということもあるのではないでしょうか?公民館の学習者の現象だけを見て、生涯学習全体の傾向を判断することは危険なような気がします。学習要求が高い方々も、学ぶべき中身と雰囲気がなければ学ばないということではないでしょうか。(永渕美法)

(4)  完成予想図の不在
   (・・・)生涯学習による変化はまだ到底完了していないわけですね。生涯学習は今後どんな方向を辿るのかそれを明らかにする必要があると思います。改革の着地点はどこか?目指しているものは何か?学習社会の理想とするシステムはどんなものになるのか?それをさらに具体的に描き出す必要があると思います。学校はこれからどう変わるべきなのか?行政も少しづつ変わってきたが、情報公開や出前講座の次にはどこへいくのか?学習に関係するシステムの連携や融合のデザインはどうあればいいのか?整理すべき疑問がたくさん在りますね。
   生涯学習革命が進行していった後の全体社会のデザインはどうあればいいのか?個人と組織の関係、個人とコミュニティの関係、個人間のネットワークのあり方などすべてにわたって変化と適応が要求される事になると思います。これらの疑問についての答や見通しが明確ではなく、変革のデザインがはっきり示されていないので、「革命」と呼ぶことにためらいや逡巡があるのではないでしょうか。(古市勝也)

(5)  「概念付与」の循環
  交流会(中/四国/九州地区の実践研究交流会)が、生涯学習の旗を掲げて、発表事例を発掘してきた事は、結果的に教育分野以外の事例についても、それが生涯学習活動であるという視点を「与える」事になったのだと思います。
  従って、実行委員会を含め、大会の企画・運営に関わる人びとの事例発掘の視点が極めて重要だったと思います。初めから生涯学習活動があったのではなく、さまざまな活動は生涯学習の概念の下に「発掘された」ことによって、生涯学習活動として認知され、整理されたのだと思います。それゆえ、事例発掘者の視点と発想が、生涯学習を定義し、概念を整理するという機能を発揮したのです。そういう意味で20数年続いた大会は、発表事例を生涯学習の観点から意味付け、ひるがえって、発表事例の豊富化が、ふたたび、生涯学習の概念を膨らませるという「概念付与」の循環を辿ってきたのだと思います。20数年にわたって大会が発表事例を発掘し、推薦し、参加を依頼し、資料を作り、頼まれた人びとが手弁当で参加してきたというプロセスに最大の強みと特徴があったと思います。生涯学習の旗の下に多様な参加者が様々な分野から、それぞれの事例を引っさげて集まってこられた事が、まさしく社会の全分野の教育・学習活動を包含するようになった基本的な理由ではないでしょうか。生涯学習の総合性はここでは参加者と事例の多様性によって証明されたのだと思います。(大島まな)

(来年は交流会25周年を迎える。)
 

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