異年齢の集団あそび
1 「夏休み寺子屋」
梅雨入り後も今年は雨が少なく、北部九州の水不足は正念場に差し掛かったようである。記憶では7月の半ば頃から咲くはずの合歓がすでに花を付けている。20数年前、筑前大島の休耕田をお借りして、3年間のそれぞれの夏を当時の学生諸君と少年キャンプの実践研究をして暮らした頃を思い出す。田んぼの畔に数本の大きな合歓の木があった。7月の終り、キャンプの始まる頃に花を付け、8月初旬、キャンプの解散時には紅の花の盛りであった。今年は、まだ、6月だというのに、カイザーの森の散歩道の頂に合歓の花が咲いた。まだ雨のない燦々たる夏の陽射しの中に心地よい海風が吹いて、小鳥の胸毛のような可憐な紅の花が揺れている。
近々に「豊津寺子屋」の夏休みのプログラムを確定しなければならない。今年から町内の3小学校全部が「夏休み寺子屋」に参加する。3小学校に分散した寺子屋に「有志指導者」の配置をするのは、もっとも困難な調整である。第1に学校間のプログラムのばらつきを避けなければならない。第2に「有志指導者」の個人的ご都合も最大限尊重しなければならない。第3に有志指導者の活用回数に際立ったアンバランスが生じるのも避けなければならない。しかも、今年度から「夏休み寺子屋」は学童保育を吸収して、その活動時間帯は午前8時から午後6時までの10時間である。熟年の有志指導者も、事務局の担当主事も2交替にしなければ、身体が持たない。また、10時間をプログラムで追い捲くれば、こんどは子どもの心身が持たない。そこで「自習」や「昼寝」や「自由遊び」の工夫が不可欠になる。
2 子どもの遊びを殺さない
夏の寺子屋は土日を除く毎日で、しかも一日朝の8時から夕方6時までの10時間である。機能的には家庭教育の代行であり、地域教育の代行であり、ごく稀には学校教育の代行である。地域が子どもの居場所を引き受け、その安全を確保し、合わせて彼らの活動を充実させると言うことは、保育も、教育も徹底するということに外ならない。子どもの睡眠時間を考慮すれば、一日10時間の活動は子どもの活動のほぼ全部に当たる。夏休みは学校から解放され、勉強から解放され、子どもにとっては待ちに待った「非日常」の空間であり、時間である。それゆえ、夏の寺子屋には、保育と教育に加えて胸のときめく遊びがなくてはならない。非日常的なプログラムは遊びと教育を兼ねたキャンプやカヌーや野外炊飯など特別プログラムを準備するが、問題は毎日のスケジュールの中の遊びである。「保育と教育の融合」プログラムとして発想された寺子屋にはややもすると「安全管理と教育指導」の発想が過剰になる。学校期間中の寺子屋プログラムと夏休み中のプログラムの最大の違いはふんだんに子どもの遊びが保障されなければならないということである。しかし、現代の学校発想は「宿題サポート」や「自習・勉強の時間」としてプログラムに侵入して来る。学校は午前10時までは外へ出ないで勉強しなさい、というような指導をしているので、ますます寺子屋プログラムから「遊び」の要素が削られてしまう。管理の発想からすれば、子どもがおとなしく宿題や勉強に励んでいれば楽に決まっているが、それでは寺子屋は第2の義務教育に転落してしまう。寺子屋は現代の学校に欠落している一部の機能を代行するが、断じて第2の学校ではない。
現代の子どもの生活に足りないのは「胸のときめき」であり、「したたる汗」であり、「臨機応変の工夫」であり、「挑戦」であり、「協力と助け合い」であり、異年齢の子どもによる、のちの社会生活の「予行演習」である。それゆえ、発達上の「欠損体験」は、子どもの「自然接触体験」であり、「たて集団体験」であり、思いきり頭と身体を使った「自発的活動体験」であり、時には社会生活を想定した「社会参加体験」である。これら一つ一つの活動が現代の子どもにとって「負荷」が大きく、頑張らなければやり遂げることができないような質と量を有したプログラムであれば、それは立派な「挑戦」であり、将来に備えた「困難体験」となる。夏休みは現代っ子の「欠損体験」を補完する絶好の機会なのである。
3 容易ではない「自由遊び」
20年ぶりに遊びの参考書を読みあさった。懐かしい遊びもあれば、新しく開発された遊びもあった。
いざ、探し始めてみると分るが、1年生から6年までの異年齢集団の子どもが一緒に遊べる適切な「あそび」はなかなかないものである。当面、「豊津寺子屋」のために選んだのは、かけっことじゃんけんを組み合わせて、相手陣地にどちらが早くつけるかを競う「へびおに」、上級生が小さい子を上に載せて速さを競う「騎馬リレー」、空き缶にひもを巻いて倒さないように一定のところまで運ぶリレー式の「缶送迎会」などである。参考書は沢山あるが、学校中心の考え方の影響であろうか、同年齢の子どもの遊びはあっても、異年齢の子どもが同時に楽しめる遊びは少ないのである。そこで異年齢の少年達が路地裏や空き地で遊んだ昔の遊びを調べてみた。
昔の子どもはタフである。従って、昔の遊びもタフであった。私たちも良く遊んだが「Sおに」というのがある。S字型の陣地を作って相手の宝物を奪い合うという遊びである。S字の陣地の外では片足の「けんけん」で移動しなければならない。「敵」に遭遇したら「けんけん」のまま取っ組み合う。両足を地面に付いた方が負けで、その時点でゲームから外れなければならない。その為、下級生を"救済"する為、1?2年生「はなれ島」、とか「やすみ島」とか呼ばれる小さな円を作る。チビ達はそこに逃げ込めば、外からの攻撃は受けなくても済むという約束にしていた。「はなれ島」に逃げ込める時間は30秒とか1分とか制約があったが、下級生はそこで束の間の安全が確保できるようにしていた。遊びの中には女の子もいた記憶があるので、お転婆さんは男の子に交じって"戦って"いたのであろう。とにかく互角の「敵」とはけんけん相撲で渡り合い、上級生に追われればどこまでも「けんけん」で逃げ延びたりするわけだから子ども達にとっては物凄い運動量であった。
下駄や靴の片方を丸い円の中の鬼に預けて、隙あらば取り戻す「釜鬼」というのもあった。大きな丸を8つに分けて線上の追いかけっこをする「八方跳び」というのもあった。「泥棒・巡査」といういささか品格にかける名称の遊びは、泥棒のグループが、巡査のグループに「逮捕」されないよう、「世界の果て」(子ども心にそう感じた)まで逃げ延びる遊びであった。余談であるが、私の経験の中には、「逮捕」した子どもを「巡査」が林の樹木に繋いだまま、誰も救出に行くことなく、日が暮れて、親の呼び声で、自然散会してしまって大騒ぎになった記憶がある。木に繋がれて、林の暗闇に取り残された下級生の恐怖は想像に余りある。
こうした運動量の大きい遊びは、今の子どもにそのまま導入するわけには行かないであろう。足が折れたり、倒れて顔を打ったりする光景を想像するだに心配で、恐ろしい。水不足でプールが使えなかった時の「裏番組」にどんな遊びが使えるか、頭をかかえながら、相談している。なんとも情けない時代になったものである。
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