公設民営理念の登場と運営方法の革新
「指定管理者制度」の意義
過日、国立教育政策研究所社会教育実践研究センターの講義を担当した時、これまでの社会教育施設が「指定管理者制度」によってどんどん民営化されるのは、生涯学習の後退ではないのか、という意見と質問がでた。筆者は、「制度」の使い方次第であると答えた。「指定管理者」を誰にするのか、どのような条件/契約によって管理を委託するのか、その方法/内容如何で生涯学習の未来展開が決まってくる。退職者や天下りに依頼すれば、確かに「後退」するであろう。しかし、優れた「指定管理者」を得れば、「前進」する。民営化は主体の選択を問うのである。「起業家」を発掘できれば、教育や事業計画の何たるかを分かっていない素人の行政職員が運営するよりは遥かに内容豊かで、効率的な管理が実現するであろう。要するに、「アウトソーシング」を選択する政治と行政の質が問われ、市民と行政の「協働」のあり方が問われるのである。
1 民営化の必然
変化が急速で、急激で、社会の全分野に及んでいる時代は、縄張りあらそいを続ける縦割り行政の非効率はすでに白日のもとに明らかである。少年教育の対応不十分、高齢者教育の趣味化、男女共同参画の口ばかりを見る時、一時的な混乱があったとしても、生涯学習の民営化は不可欠である。65号で報告した島根県の「リベロ」や広島県の「コーチズ」がその先駆けである。
行政部局間の連携と協力を模索した国や自治体の「生涯学習推進会議」はすでにその存在意義を失っている。連携はろくに実現せず、融合の形は全く見えない。連携のための「テーブル」は、あるに越したことはないが、「推進会議」は、会議の形が出来ただけで、具体的な成果はほとんどない。財政の逼迫に伴って、社会教育行政が音頭をとっていた各地の行政間連携による「生涯学習フェスティバル」もいつの間にか尻つぼみになった。生活の全分野を網羅した生涯学習革命の理念に比して、行政事務の総合化と連携は歯ぎしりしたくなるほど遅々とした対応が続いている。
宅急便があらゆる物流にコミットして、郵便局を置いてきぼりにしたように、公民館や学校もあらゆる教育資源を総合化するべきである。コンビニは銀行と組み、電話会社と組み、宅急便と組み、コピー機を配置し、弁当屋も兼ねて、従来の小売業に革命をもたらした。コンビニが果たした流通革命はショッピングの物理的距離の短縮と商品・サービスの総合化である。生涯学習の推進・支援はもとより、自治体の教育行政サービスはこの手本に全く倣っていない。郵便局の民営化の次は学校の民営化が必要である。それが「チャーター・スクール」であり、学校に「指定管理者制度」を導入すると言うことである。
2 教育における規制の弾力化
IT革命は人々を日常の時間的制約をから解放した。携帯電話がその象徴である。「いつでも、どこでも、だれでも」は携帯電話の命である。宅急便やコンビニのサービス時間の弾力化に比べれば、公民館、学校、大学など生涯学習の(潜在的)提供者のサービスは足下にも及ばない。これらはすべて迅速に生活上の需要に対応する「民間」だから可能になったことであろう。行政主導型の生涯学習事業は、生涯学習理念の紹介にこそ成功はしたが、市民生活にその理念が浸透すると共に、「親方日の丸」の悪弊によって、生涯学習普及の阻害要因に転化したのである。生涯学習はいまも重要な「知的風土」の革命であることに変わりはないが、宅急便やコンビニに比して社会に強力なメッセージを送ることが出来ていない。学校も公民館も民間の活力と工夫を導入した「チャータースクール」、「チャーター公民館」の実験を開始すべき時である。そのためにこそ「指定管理者」制度は力を発揮するのである。学校は規制の固まりである。学校教育には特定の時期に、特定の人が、特定の場所で、特定の中身を教える。主観的にはそれぞれ一生懸命にやっている筈である。せつにそう願いたい!しかし、教育成果は上がっていない。未だに、「生きる力」の向上が教育行政の目標である。裏返せば、「生きる力」は向上していないと言うことであろう。同じく、「学力」も向上していない。「学力」の定義などの評論は後回しにして、学校は学力テストの点数だけでも上げてみせて欲しい。
あらゆる関係者は、それぞれの持ち場で一生懸命にやっている。やっている筈である。にもかかわらず、期待した成果が出ないということは「熱意」や「努力」の問題ではない、ということである。「やり方」と「中身」が悪いのである。特に、学校の「やり方」と「中身」が間違っているのである。だからこそ様々な「指定管理者」の「腕」を試してみることが重要である。「チャーター・スクール」、「チャーター・公民館」のモデル事業が待たれる所以である。日本社会はいつになったらこのことに気付くのであろうか? |