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生涯学習通信

「風の便り」(第63号)

発行日:平成17年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 『むなかた市民学習ネットワーク』の20年

2. 中・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会第24回大会のご案内

3. 「アホな総合的学習」と「アホでない総合的な学び」

4. 第55回生涯学習フォーラム報告

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「アホな総合的学習」と「アホでない総合的な学び」
−長崎県壱岐市立霞翠小学校の3年間−

   すでに何回か論じたが、「子宝」という日本文化の風土において学校が引き受けたのは「守役」である。「守役」の任務は、親の付託を受け、世間を代表して「一人前」を育てる事である。それゆえ、「一人前」に関わる条件はすべて「守役:学校」が引き受けなければならない。家庭は基本的に「守役」の方向に従う。「一人前」に関わる条件とは、体力であり、我慢強さであり、学力であり、礼儀作法・道徳の実践力であり、思いやりややさしさの感受性を態度や行為に表す人の道である。当然、一人前の教育は「総合的な学び」でなければならない。この「総合的な学び」は、ままごとのようにちゃちな体験プログラムを切り取ってカリキュラムに張り付けたようなあのアホな「総合的学習」とは断じて異なる。以下は「アホ」と「アホでない」総合的なアプローチの違いである。


◆ 1 ◆  「体得」と「学習」の総合的視点 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  人間はやったことの無いことはできない。教わっていないことは分らない。練習が足りなければ上手には出来ない。それゆえ、「体得」と「学習」は車の両輪である。体力や我慢強さ、やさしい行為やルールへの服従は体得する。もちろん、知識や技術は脳味噌を使ってその事実、原理、仕組み、関係を学習する。両様相まって「一人前」が育つのである。然るに、当今の学校は「学習」に傾き、教室に傾き、教材に傾き、教師の説教に傾いている。したがって、学校教育には言葉が氾濫し、しかも具体的な基準を欠いた情緒的な言葉が多い。「生きる力」がその代表である。いわく「生き生きとした子ども」。いわく「豊かな心」。いわく「たくましい身体」。いわく「かがやく瞳」。いわく「わくわくした体験」。いわく「感動する授業」。いわく「主体的な行動」。その他延々とこの種の「形容詞」を組み合わせた叙述がつづく。しかし、これらの美辞麗句は「基準」を示さない限り具体的な意味を持たない。「指標」をもって説明できない限り、「生き生き」の中身も、「たくましい」の中身も具体的にはならない。
  言葉が氾濫すれば、行動は引っ込む。師弟同行は影を潜め、率先垂範も死語に近い。「ごっこ遊び」のような「総合的学習」が氾濫するのも、基本は「体得」を軽視した、「言葉の学習」に引きずられているからである。
霞翠小の実践には「体得」場面が溢れていた。それも子ども達が全身全霊を傾けなければ突破できない体得場面が一杯であった。教室での学習成果は実践によって試され、実践の中の子どもの疑問は知識や技術の学習によって一定の答を得たに違いない。


◆ 2 ◆  目標の総合的管理 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

(1) ボランティアの多面的活用                                               

  指導の中心は当然教員集団であるが、地域の学校支援ボランティアを多様な分野で活用した。ボランティアの範囲は教科指導の支援から、パソコン、昼休みのさまざまな遊び、図書、環境など多岐に渡った。特に、子ども達が挑戦した島一周をごみを拾いながら歩き抜くプログラムには多くの地域住民・保護者が参画した。保護者を最後に目覚めさせたのは地域の「助っ人」が学校教育に参画したからである。彼らの目覚ましい活躍はパソコンルームで見られ、英語学習で見られ、水も漏らさぬ6年生の太鼓打ちでみられ、その他あらゆるカリキュラムの場面で地域の人材が生き生きと指導に参加したのである。


(2) 目標別プログラムの実行と結果の記録

  各プログラムの中身は以下の通りであるが、それぞれの成果はすべて記録するように努めた。3年間の記録は結果の成否、実績の経緯を明らかにしたのである。

 * 体力プログラムは「おはようマラソン」、「全校体育」、「サーキット・トレーニング」(バービー→スクワットジャンプ→平均台→タイヤ飛び越し→鉄棒→立ち幅跳び→肋木上り下がりで1セット)に力点をおいた。最終報告を見れば、例えば「シャトルラン」の記録は全国平均、長崎県平均の2倍から3倍である。最大のイベントになった「ごみを拾いながら島を一周する壱岐一周ごみゲッツ」も脱落者なしで完歩しきったのである。あらゆる指標は4点満点で評価されたが、成果は著しく、平均点はほとんどが3点台の後半であった。

 * 基礎学力向上プログラムは読み書き計算力の定着を目的とした。そのため各種ドリルを充実し、「計算チャレンジ」、「音読タイム」、「漢字チャレンジ」、「読書タイム」検定などを工夫し、読書活動を平行させ、T.T.授業を導入し、習熟度別指導を導入した。
平成13年度において、算数の教研式CRTテストの全国平均と比べると、「関心・意欲・態度」においても、「数学的な考え方」においても、「表現・処理」においても、「知識・理解」においてもすべてが著しく劣っていた。しかし、平成16年度には、全学年が、すべての領域で悠々と全国平均を上回ったのである。国語のテスト結果も同じである。努力は裏切らず、記録も裏切らない。C判定の児童を無くすことを目的の一つに掲げたがあと一歩で及ばなかったと報告書は悔しがっている。教員集団の評価基準が今や従来とは全く異なった水準まで上がったのである。

 * 基本的生活習慣の確立プログラムでは年間を通して「あいさつ、ことば使い、忘れ物なし、後片付け」の重点指導を行った。「あいさつ」について、4段階評価で教師と地域住民の採点はすべて3点と4点であった。保護者の点が一番辛くて、回答者の10%近くが「あまりよくできていない」という2点を付けた。
それぞれの家庭の協力を仰いだ「親子の約束」運動は「約束」の実施報告書の提出がほとんどの学年で90%に近づいた。近年の教育に対する家庭の無関心と放任と学校依存の風潮の中で際立った数字である事は明らかであろう。

* 表現力とコミュニケーションのためには、朗唱、音読、太鼓、全校発表会等を企画した。その成果は「論より証拠」である。こればかりは実際に見ていただかないと子ども達の実力を伝える事は不可能である。

* 総合的評価: その他、挑戦プログラムの一環として、通学合宿があり、ドロリンピックがあり、マラソン大会があり、地域の行事に参加するさまざまなプログラムが工夫された。総合的に子どもは「タフ」になったのか?4点満点の評価で、平均値は地域住民による評価も、保護者の評価も、教師の評価もすべて3点台を越えて過去の結果を上回った。

* 最終報告書−平成16年度の成果と課題−結果の記録
   体力トレーニングの結果も学力チャレンジの結果も、その他の活動の成果に付いても極力指標化して、児童の向上の結果を記録し続けた。これらは「体力に関するデータ」、「学力に関するデータ」、「生活全般に関するデータ」、「挑戦プログラムに関するデータ」、その他「保護者や地域住民の評価に関するデータ」として保存されている。児童/教員の活動を指標化し、記録を継続した結果、問題の分析、解決処方の方向を定める上で客観的な根拠となったことはいうまでもない。データは平成16年度の成果と課題ー「タフな子どもを育むための実践モデル事業」の研究資料としてまとめられている。
 

◆ 3 ◆  「感謝の夕べ」 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  最終発表会の日はPTAの皆さんが総会をされたあと学校関係者に「感謝の夕べ」を催された。会費3、000円の会は、児童数120名弱の学校にもかかわらず、各テーブルが満席で、町の福祉センター大ホールが満杯になった。保護者が金を払って学校の教員に感謝の気持ちを表すということは近年めったにないことであろう。モデル事業を仕掛けられた長崎県の課長さんは「お酌ボランティアに行って来ます」、と嬉しそうに飛び出して行かれた。先生方も保護者やボランティアの中に溶け込んでおられた。学校を支援したボランティアも来賓の賛辞に誇らしげであった。「子宝」の風土は「守役」を大切にするのである。昨今の保護者が学校に厳しいのは、保護者のわがままも、その高学歴化も一因ではあるだろう。しかし、最大の原因は、学校という「守役」が守役足り得ていないからである。保護者の参画をいただき、地域の全面支援を受けた「総合的な学び」はようやく具体的な成果によってその意義を証明したのである。保護者は守役の気迫とその実績を認めたのである。もちろん、言葉の教育が氾濫する時代には、イデオロギー的に言葉だけに噛み付く保護者も出るが、所詮言葉は実績にはかなわない。保護者の評価は歴然であった。その一つの象徴が保護者主催の「感謝の夕べ」であった。


◆ 4 ◆  「戦友」概念へのイデオロギー的反発 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  これだけの事業を成し遂げて霞翠小の先生方はお互いが「戦友」となった。だから数々の困難が乗り越えられたのである。ところが筆者が総括した「戦友」概念に反発して一人の保護者が学校に食って掛かったと聞いた。平和を尊ぶ時代に「戦友」などと時代錯誤な用語を使うとは何ごとか、ということらしい。もちろん、この言葉を使ったのは筆者であって、学校ではない。文句があるのなら筆者に言えばいい。馬鹿な話である。霞翠小の先生方はまごうかたなき「戦友」である。発表会のまとめに筆者に最後のコメントの機会が与えられたので本意ではなかったが、この馬鹿な男のために自分が通って来た国際結婚の例をだし、混血の子どもを育てながら妻と私が戦友にならざるを得なかった話をした。戦いは戦争の中にだけあるわけではない。人生そのものが小さな戦いの連続である。
  戦友とは同じ目標に向かって力を尽くした同志である。人生が戦いである以上、困難場面に直面した同志は共に困難と戦う戦友にならざるを得ない。最後に行われた「感謝の夕べ」の懇親の中で多くの方々から賛同の共感をいただいて嬉しかった。霞翠小の実践が成功するためには実にさまざまな障害を乗り越えなければならなかったのである。「戦友」概念への言い掛かりもまた戦いの一つであった。


◆ 5 ◆  痛切なる理解と実践 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  霞翠小の実践によって、多くの方々が子どもの変容を理解された。多くの方々が先生方のがんばりを讃えられた。県の課長さんもモデル事業の最後に実践の成果を見られて、嬉しそうだったのでこちらも嬉しくなった。しかし、認識も理解もそう簡単には広がらない。まして、別のところの実践につなげるのは至難のわざである。課長さんが理解されたようには他の方々は理解されないかも知れない。「温度差」というのはかならずつきまとう。単なる理解と「痛切な理解」とは時限が異なるのである。理解と実践の間には深い溝がある。筆者の教え子達も事あるごとにさまざまなことを理解したといっていたが、実践に踏み切ったものは極めて稀である。伊藤 整のいう「求道者と認識者」はつねに分かれる。教育は求道者の仕事である。評論家の仕事ではない。いくら正確に認識したところで実践しなければ意味はない。教育だけは『実践なくして発言権なし』である。山口県の生涯学習センターが行った企画・実践のためのプログラムは、研修後の実践を約束して出発したはずであった。しかし、半年後の確認研修に集まってみたら、実践に踏み出した人は極めて数少なかった。それが普通なのである。もちろん、実践の報告は行われたが、実践者はすでに研修を受ける前から実践者であった。多くの研修は理解研修である。学んでその後に実践に移行するという原理を信奉している。しかし、この原理は人の世では通常機能しない。実践のためには「やりながら学ぶ」以外に道はない。霞翠小の成功の秘訣はそこにある。先生方は現にさまざまな試行錯誤の過程にあった。それゆえ、「理解」が「痛切な理解」になったのである。認識が実践的な認識となったのである。実践の渦中では物事の実際上の問題が見える。実践をしていない人には見えないものが見える。やっていない時の問題とやりながらの問題は質が違うのである。もちろん、渦中の人には見えない時代の流れがある。しかし、それは認識の宿命であり、後付けの理屈であって、その種の問題は当事者の実践者にも、非実践者にも見えないのである。渦中の人に見えない問題が渦の外にいる人に見えるはずはない。その種の問題を理解するためには時間を隔てて鳥瞰するしか方法がない。歴史学が必要になるのはそのためである。霞翠小が証明したのは「アホな総合的学習」と「アホでない総合的な学び」の違いである。しかし、このこともまた最終的には歴史の判断を待つしかない。
 

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