『むなかた市民学習ネットワーク』の20年
「市民学習ネットワーク」
街灯のまわりに闇が立ちこめ
霧はやさしく家々を眠らせ
街の音も絶え
家路の鐘が聞こえる頃
宗像中央公民館に
乏しいラーメンをすすりあって
ああも論じ
かくも言い合い
やっと一枚の地図に辿り着いた
われらは互いに熱を発し
時代の翼の音を聞いた
仲間は未来を共有し
この国の先駆の予感に高ぶり
美しい人の世を夢見ていた(*)
1 市民による市民のための生涯学習
この詩は20数年前の「むなかた市民学習ネットワーク」事業の準備作業を歌っている。事業の主旨に付いて、人々の理解はなかなか得られなかったが、意欲的で、理想を共有する優れた仲間に恵まれた幸せな日々であった。2005年3月5日に上記事業の20周年の記念式典が行われた。驚くべきほどに時は流れた。
この間、日本社会は一挙に高齢化し、少子化の問題は待ったなしになった。筆者が「生涯学習革命」と呼んだ市民参画の時代も目の前まで来ている。人々はもはや「鑑賞者」に留まらず、「見物人」に留まらず、「創造者」となり、「演技者」となった。「むなかた市民学習ネットワーク」事業は、市民による市民のための生涯学習システムである。当時は、「教えるもの」と「教わるもの」は職業によって明確に区分されていた。教育制度は両者の2分法の上で機能していたのである。一般市民は、あくまでも「学習者」であり、「見物人」であり、「鑑賞者」であった。それゆえ、一般市民が指導者になることはほとんど不可能であった。「ネットワーク」事業は、従来の概念を破壊して、市民を「創造者」に位置づけ、「プレイヤー」に位置づけ、然るに「指導者」にも位置づけたのである。「ネットワーク」事業によって宗像市は「学習者」と「指導者」の概念を相互に乗り入れ、学習者が指導者であり、指導者もまた学習者であるという双方向の考え方をシステム化することに成功したのである。
2 「先駆の予感」
上記の詩が夢見た「先駆の予感」とは、固定された「指導者」の特権を剥ぎ取り、その権威を否定し、市民が参画できる「指導の舞台」を創造することであった。それ故か、市民の推薦によって誕生した「有志指導者」の認定講習は、教育の「素人」には受入れられたが、教育経験者からは手酷い反発をもって迎えられた。結果的に、百数十名におよぶ「有志指導者」の中で教育の経験者はわずか2-3人を数えるのみであった。"おかしくって素人と一緒の研修など受けられるか"というのが表の感情であったが、本当の理由は「市民教授」の誕生によって、指導者の権威と特権が薄められることへの拒否反応であったろう。大学の教員が学生による評価や第3者による外部評価に最後まで抵抗を続けたのも、原理的には同じ理由である。指導資格、教員資格は、特権であり、一般人と自らを差別化する根源である。学生や一般人の教授評価は彼らの治外法権を犯すことになるのである。学会の閉鎖性も、論文や研究だけに依拠した教員審査の狭量性も、大学改革の遅々たる歩みも、教育関係者の既得権益を犯すことへの抵抗が根強いからである。
「ネットワーク」事業は、趣味や芸事、教養やスポーツに秀でた市民がその指導の資格を受けるところから出発する。時に彼らはプロよりも魅力的であり、プロよりも効果的であった。年間何万人もの人々が学び、結果的に何万人もの人々の交流をつくり出すことができた。それゆえ、もはや旧住民と新住民との交流の必要はまちの話題にもならない。
3 未来への提案
20周年の記念講演で筆者は「ネットワーク」事業が未来に生き残る条件を提案した。提案の重点は、市民の「有志指導者」を高齢者福祉と結び、高齢者の「生きる力」を支える講座を拡大することであり、最大の強調点は指導の対象を大幅に子どもにシフトすることである。社会的にハンディキャップを負っているのは子どもと高齢者である。生涯学習革命の浸透によって、生涯学習のプログラムも、生涯スポーツのプログラムも町中に溢れている。成人は少なくとも自立的な選択が可能である。もちろん、自立的な選択の中には「生涯学習」を選択しないという選択も含まれている。生涯学習がなまじの方法ではパチンコ屋さんには勝てない、と何度も書いた通りである。魅力のない生涯学習プログラムは選択されない。選択されないプログラムは基本的にすでに不要である。
それゆえ、「ネットワーク」事業に限らず、従来の社会教育行政は、福祉と共同して、その施策の重点を高齢者と子どもにシフトすべきである。市民を対象とした生涯学習や生涯スポーツの企画であれば、すでに公民館職員は不要である。公民館の館さえ自由に使えれば、市民は市民のための活動を自由に創造する。図書館も公民館も官民協働の運営システムに移行し、公務員を減らし、営利を目的としないNPO費の節減につながり、事業費にまわす予算も確保できる。
「ネットワーク」事業は100名を遥かにこえる経験豊かな「有志指導者」を擁している。この方々が学校に入り、放課後や週末や休暇中の子どものプログラムを担当すれば、「戦力」は一挙に倍加する。子どもの活動プログラムも、居場所問題も、女性の社会参画支援も同時に解決ができる。市民はその威力を実感するであろう。ゲストティーチャーに当てられた予算を活用すれば、「ネットワーク」の有志指導者の活動範囲も、リクルートの範囲も遥かに拡充できるのでる。
4 縦割りの中の縦割り
しかし、講演を終えて聞いてみたら、教育行政は愚かにも、「学校教育に関する指導ボランティア」と「一般市民を対象とした指導ボランティア」を別々に組織化したという。それゆえ、「ネットワーク」事業の指導者には学校に関わる子どもの指導はシステム上廻って来ないというのである。なんという思考停止であろうか?生涯学習の対象領域に学校だの市民だのという区別があるはずはない。スローガンは明快である。「いつでも、どこでも、誰でも、何でも」である。学校はもとより、教育行政も生涯学習を口にするが、その原理を具体的には理解していないのである。
近々に、日本が当面する財政危機は、生涯学習における市民の自立を促す。この場合の「自立」とは、学習もスポーツも「自己負担でやれ」ということである。唯一、公的機関が負うべき生涯学習施策の責任は自立を要求することの出来ない高齢者と子どもに限られる。支援対象は基本的に社会が重大な関心を払っている子どもと高齢者にシフトする。もちろん、高齢者の問題は福祉が前面に出る。それ故、教育行政の重点は子どもの向上と少子化対策にならざるを得ない。結果的に、子どもの活動プログラムにも、少子化対策にも対応できない「ネットワーク」事業はやがてその存在意義と力を失うであろう。福岡県穂波町が「ネットワーク」と同じ発想の「穂波学びネット」を活用しながら、学校に「高齢者寺子屋」を創設し、合わせて「いきいきサタデースクール」や「子ども学び塾」を生み出した展望を宗像市は共有していない。せっかく20年もの長きに渡って、この国の先頭を走って来た「ネットワーク」事業であるが、生涯学習と学校教育を分離する固陋な思考の中では衰退せざるを得ないのである。
(*)拙著、「不帰」、平成2年、pp.148〜149
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