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風の便り
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「風の便り」(第105号)
発行日:平成20年9月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. つくられた「女性性」−男女共同参画ノート−
2. 人生80年時代の「死に方講座」
3. 教員研修会覚え書き−「他律」と「負荷」の教育論再考 -幼少年教育の革新-
4. 教員研修会覚え書き−「他律」と「負荷」の教育論再考 -幼少年教育の革新-(続き)
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
7 「世間」もしらず、「他人」も知らず−抑止力の崩壊 児童中心主義は「子宝」の保護を助長します。「守役」が守って来た「負荷」と「他律」の抑止力を破壊しました。結果的に、止められない4つの過剰が発生し,「過保護」と「放任」が同時存在するようになったのです。4つの過剰とは「保護」を構成する4つの要因です。もちろん、4つとも大事な要因ですが、問題は「過剰」であることです。過剰はもともとの保護の意義を根本から破壊する「副作用」があるからです。養育の副作用はまさに薬の副作用に酷似しています。 4つの過剰とは下記の通りです。 i「世話」の過剰 ii 「指示」の過剰 iii「授与」の過剰 iv「受容」の過剰 保護を構成する4つの要因が「過剰」であるということは、子どもの周りに常に過剰な保護の環境が存在するということです。換言すれば、現代の子どもは、「自分でやること」も、「自分で決めること」も、「欠乏に耐えること」も、「思いが思いどおりにならないこと」もほとんど体験していない(できない)ということです。 現代の子どもは、常に、「家庭」あるいは「家庭の延長」のような環境にいて、「厳しい」世間や「冷たい」他人と巡り会うことはないということです。 結果的に、家庭のぬくもりを実感することも少なく、親のありがたさも痛感することはないでしょう。先人が、「他人のメシ」を勧め、「世間の風」に当てよ、と言ったのは、子宝の風土が「4つの過剰」に傾くことを警戒した上でのことでした。子宝の風土に「子ども宿」をつくり、「子やらい」や「人なし」の実践を勧めたことは何とすぐれた発想だったことでしょう。「子ども集団」そのものが「世間」となり、子どもは「他者」との共同を身をもって体験することを知っていたからでしょう。 幼少年教育には、親元を離し、人工的に「世間」を構成し,他人との共同が必要になる「合宿」や「キャンプ」が不可欠なのです。合宿は巧まずして「他律」も、「自律」も「負荷」も含んでいます。しかし、期間が短くては、「他律」も「負荷」も十分な体験にはならず、「世間」や「他人」との共同実践にもつながりません。多くの実践研究が証明している通り、合宿効果が一気に現れるのは三日目からです。小学校教育に毎年3泊4日以上の合宿を入れることが出来れば、指導法いかんで、現代の「子ども宿」を創出することが出来るでしょう。すでに、家庭のしつけが頼りにならない以上、4つの過剰は現代の「子ども宿」を創出して、解消して行くしかないのです。果たして、現代の学校にその実践ができるでしょうか? 8 抹殺された「守役」への尊敬 児童中心主義は子どもを教育の中心に置きました。そのことは「教わるもの」と「教える側」を心理的にも、社会的にも、対等に置くことになりました。幼少年期の教育に「負荷」や「他律」が不可欠であることを思えば,なんたる愚行でしょうか。子どもに限らず、人間は対等の相手の指示や命令にこころよく従う筈はないのです。 かくして、親子の対等はしつけの不能を引き起こし、師弟の対等は教えることの放棄につながりました。子どもは「きついこと」も「興味のないこと」も拒否するようになったのです。もはや指導者による指示、命令は通らなくなったのです。 一方、保護者も教師も子どもの自主性や主体性を楯に教えないことの責任回避をするようになったのです。子どもは、当然、自分と対等に置かれたものを尊敬しようとはしません。子どもの指導者に対する尊敬は、心理適距離、社会的距離、実力上の距離の3つから生まれます。師弟対等は心理的距離と社会的距離の2つを同時に破壊したのです。実力で子どもを凌駕できない親や指導者が崩壊するのは時間の問題だったのです。「守役」が尊敬されなくなったのは、当然の帰結でした。 9 教育の3原則を忘れた幼少年教育 教育の3原則は以下の3つです。 i やったことのないことは出来ない 不可欠なことは、子どもがするのを待つのではなく、子どもにさせるのです。 ii教わっていないことは分からない 教えるべきことは子どもの興味関心の有無にかかわらず教えなければならないのです。 iii練習なしに上手にはならない 以上の基本原則に異議がないとすれば,幼少年期は「やること」も、「教えること」も、「練習」も強制しなければなりません。教師を中心に置かなければならない理由はここにあります。 すべての練習は、武芸の鍛錬と同じく、他律と強制によって反復するのです。子どもの判断や意欲にまかせるのは、少なくとも思春期以降のことです。 10 「赤い旗」の内側の自由 海水浴は幼少年教育の原理を象徴しています。危険な水域には赤い旗を立て、時にはロープでつなぎ、間違っても子どもが深みにはまらないように、厳重な注意をします。子どもが自由に遊んでいいのは「赤い旗」の内側に限られます。子どもの「主体性」・「自主性」は常に「赤い旗」の内側でのみ認められるべきなのです。「赤い旗」は危険の象徴であり、規範の壁であり、ルールの境界を意味します。赤い旗の向こう側は「一人前」の世界です。こちら側は「半人前」の世界です。こと赤い旗に関する限り、子どもの「主体性」・「自主性」は「考慮」しても「尊重」してはならないのです。それは子どもの欲求と同じです。「考慮しても尊重せず」ということは、「赤い旗」を断固優先させ、赤い旗の内と外の子どもの自由を峻別するということです。 この世は不思議と魅力に満ちていますから、多くの子どもが「赤い旗」の向こう側に行ってみたいと思うことでしょう。それだからこそ「赤い旗」は断固として守られなければならないのです。「赤い旗」の意味は幼稚園児でも分かります。「赤い旗」を越えて行けば、罰せられることも知っています。指導者はひたすら「赤い旗」の意味を子どもに教えればいいのです。 これまで、「赤い旗」の禁止区域を超えて行って事故にあった子どもがいます。事故は悲惨で、哀れですが、「赤い旗」を超えて行った以上、その子の責任なのです。「赤い旗」を立てていなければ、そして「赤い旗」についての注意を与えていなければ、大人の責任ですが、赤い旗が立っていて、注意が繰り返されていた以上、子どもと言えども、結果の責任は超えて行った本人が負わなければならないのです。 三重県のボランティア裁判で、指導者の指示を無視して「赤い旗」を越えて行った子どもの海難事故を付き添ったボランティアの責任に帰し、子どもには「当事者能力」がないと言って、子ども自身の責任を問わなかったのは司法の蒙昧です。「赤い旗」の意味は5歳の子どもでも分かるのです。日本の裁判官は教育の基本が分かっていないのです。 11 「赤い旗」のない学校、「禁止事項」だらけの学校 かつての学校は「禁止事項」だらけでした。些末な禁止事項と「赤い旗」を混同していたからです。前髪のチェックから靴下の模様の検査まで教師が大まじめでやった時代を憶えていることでしょう。学生服も坊主頭の考え方も同じでした。個性を言い、創造性を重んじると主張しながら、教育界が実質的に主張したことはまったく逆の「画一性」でした。学校は海水浴に行って子どもに泳ぐことを禁じたようなものでした。そして逆に、あるべき「赤い旗」はなかったのです。社会の常識に照らした「赤い旗」があれば、髪型も、服装も、基本的には子どもと保護者に任せてよかったのです。「赤い旗」のこちら側では基本的に児童生徒に自由を与えるべきなのです。逆に、「赤い旗」の向こう側については妥協してはならないのです。学校の「赤い旗」は、「授業妨害」、「教師への侮辱」、喫煙、飲酒、器物破損、暴力など、「法を犯す行為」です。こうした「赤い旗」を越えたら、「登校禁止」を始め、現行法の可能な範囲で断固として処罰すべきだったのです。それこそが教育界が守るべき「赤い旗」の境界であったのに,学校はそこに目をつぶったのです。荒れていた多くの学校、授業が崩壊していた多くの学校がありました。その原因の多くが個別の教師の指導力に帰せられていました。しかし、真の原因は、学校も教育行政も「赤い旗」を立てていなかった、ということにあります。「赤い旗」を忘れて、些末な髪型や服装の注意に終始していた教育委員会と管理職の責任は重いのです。当時の校則の多くは誠に馬鹿げたものが多く、恐らくいまでも残っているところがあるでしょう。 12 技法:ほめごろし 幼少年教育の基本は「他律」と「賞賛」を組み合わせることです。「ほめる」ことは,承認であり,応援であり,信頼であり,背中を押してやる意味があります。特に,「他律」と「負荷」を強調した指導法をとる以上,子どもは「きついこと」にも、「おもしろくないこと」にも挑戦しなければなりません。「きついこと」に意義を見いだし,「面白くなかった」ことに張り合いを感じるためには,自分の修練を先生を始め、他者が認めて下さることです。 「できていないもの」を「できた」と言ってはなりませんが,褒め方は多様にあります。 前向きの態度は「チャレンジング・スピリット」として褒め,少しの進歩でも「筋がいい」と褒め,向上心は「将来が楽しみである」と褒め,「がまん」も「集中」も本人の心映えとして賞賛するのです。子どもの潜在力,子どもの成長の可能性は驚くばかりの早さと上達で指導者に応えます。現代の幼少年教育はこの一点を忘れているのです。
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