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「風の便り」(第105号)
発行日:平成20年9月
発行者:「風の便り」編集委員会
1. つくられた「女性性」−男女共同参画ノート−
2. 人生80年時代の「死に方講座」
3. 教員研修会覚え書き−「他律」と「負荷」の教育論再考 -幼少年教育の革新-
4. 教員研修会覚え書き−「他律」と「負荷」の教育論再考 -幼少年教育の革新-(続き)
5. MESSAGE TO AND FROM
6. お知らせ&編集後記
つくられた「女性性」−男女共同参画ノート− 男女共同参画の勉強は途中で興味を持っても、問題の「幅広さ」に圧倒されて自分なりの意見を持つことが難しいものです。うっかりしたことを言えばいろいろ叩かれると思えば、なおさら自分の意見を持つことが億劫になります。 フェミニズム(英: Feminism)は、定義だけでも錯綜しています。筆者の最も短いフェミニズムの定義は「男女同権主義」です。または「男女同権の実現を目指す運動」と言ってもいいかも知れません。今ではたくさんの研究書が出版されていますが、基本的知識がなければとても原典は読めません、そこで解説書を読むわけですが、その解説書もまた用語も論理もやけに難しいのです。そこで「自分語」に翻訳することにしました。蛮勇を奮って論理や証拠資料の枝葉を切り払い、幹だけを残し、時には幹も切り倒して森の全貌が見えるように工夫しました。もちろん、要約の責任も、省略の責任も筆者にあります。しかし、これで、自分にだけは分かるようになったのです。「ノート」と名付けた所以です。 初めのうちは、依頼を受けた講演も、既存の解説書や政府公報の文言などの忠実な紹介に努めていました。しかし、聴衆は遠慮会釈なくあくびをし、「はやくおわれ!いいかげんにやめろ!」という顔をし、時には、用もないのに途中で席を立ちます。動員研修以外は聴衆はいつも少数です。自由参加であれば10人にも満ちません。社会教育の現場で、多くの皆さんが男女共同参画の「解説」など「聞きたくない」ことは明らかなのです。 一生懸命やっているのに、聴衆の冷ややかな反応に直面すれば、さすがに頭に来ます。ある時から筆者は講義調と解説調を止めて、「自己分析と自己主張」に切り替えました。小さな町の研修会で、破れかぶれで、農業後継者に「嫁」が来ないのは、農村の母親が「反面教師」になっているからだと切り込んで論じました。結婚も出来ず、女も知らずに田舎町に朽ちて行く青年の無念が分かりますか、と出席していた偉い男達を問いつめました。これまでの地方政治は女性の自由を向上させるためにも、未婚青年の結婚への道を切り拓くためにも何もしなかったと批判しました。「敵」は農村の顔役の頑固じいさんに代表される二本足の「伝統」と「しきたり」であると断じたのです。眠っていた聴衆は顔を上げ、ノートを取り、時には、拍手もしてくれました。遅まきながら筆者も男女共同参画の難解な参考書の借り物知識を捨て、自分の頭で考え、自分の主張で勝負をするしかない、と改めて学んだのです。 だんだん自己流の解釈、自己流の分析を重視し、参考書の読み方も「枝葉」を切り払い、「幹」だけに注目するように留意し、時には「幹」も無視して、背景の森だけを見るように努めるようになりました。以来10年、今年はようやく提案したこと、主張したことのまとめの作業に入りました。以下は筆者が自己流にまとめた「男女共同参画ノート」の一端です。 I あらゆる「らしさ」は作られる-ジェンダー論の先駆者 「らしさ」の中身は社会によって異なります。「男らしさ」も「女らしさ」も絶対的に決まったものはありません。したがって、「男の役割」も固定的に決まったものはありません。違いは文化が生み出しているのです。どの文化にも「らしさ」はあるのですが、いろいろな文化がある分だけ、「らしさ」もいろいろあるということです。 「らしさ」はあらゆる人間の特性や言動に要求されます。体格も、役割も、職業も、気質も、言動も、性行動も「らしさ」の中身です。マーガレット・ミード(*)は様々な社会の男女の関係や生殖に関する役割を研究し、男女の「性行動」も、「養育行動」も、性衝動や妊娠など生物学上の「自然」条件をベースにしながらも、社会によって様々に異なることを指摘しています。「らしさ」を決定する行動様式はすべて社会的学習の結果なのです。「自然なものは一つもない」ということが結論になります。言い換えれば、あらゆる「らしさ」は作られたものなのです。彼女の時代には「ジェンダー」の概念はなかったそうですが、男女ともに文化の要請にしたがって「生き方」を学ぶということを指摘した先駆者なのです。 (*)マーガレット・ミード、「男性と女性」、田中寿美子・加藤秀俊訳、東京創元社、1961 II 時代とともに変わる「家族」-「夫」による「妻」の支配- 1 家族を変えたのは「男性支配による私有財産」が登場したからです 婚姻と家族の変遷を女性の解放の問題に結びつけて論じた功績者はエンゲルス(*)です。 彼は、生産手段や生産力の発達に応じて、社会の発展を野蛮→未開→文明と分類し、その中で婚姻や家族のあり方が変わって行くことを説明しました。中でも最大の変化は、土地や生産手段を肉体的力に優る男性が私的に「所有」するようになったことです。「男性支配による私有財産」が生まれたのです。すでに労働と戦争における男性の女性に対する「優位」は決定的であり、財産は父から息子へ相続されるようになります。それが「父系相続制」です。エンゲルスは「母権性の転覆は、女性の世界史的な敗北であった。男性は家の中でも主導権をにぎり、女性を支配し,時には、隷属させ、女性は男性の情欲の奴隷、子どもを生む単なる道具となった」と書いています。 2 「父系相続制」が男性支配の象徴です 結婚の形態は、「集団(婚)家族」→「対偶(婚)家族」→「単婚(一夫一婦制)家族」と変わって来たと言われます。真ん中の「対偶婚」とは、特定の男女が結びついた家族を意味しますが、夫婦関係が永続的でない中間的なものを言います。 ところが「父系相続制」の確立は、「相続者」の男子を特定しなければなりません。したがって、私有財産の登場、父系相続制への移行によって、「単婚」の「一夫一婦制」が始ったと断定して間違いないでしょう。「一夫一婦制」と言っても、夫には権力者たる主人として妻以外の女性奴隷を自由にできるわけですから、実質は「妻だけの一夫一婦制」であったということです。当然、ここから「夫による妻の支配」が始ったということです。 (*)フリードリッヒ・エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」、戸原四郎訳、岩波文庫、1965 III 男女共同参画-女性解放運動の原点 参考書を読み進めて行くと男女共同参画を推進する思想と運動が1冊の書物を原点としていることが分かります。それがボーヴォワールの「第二の性」(*)です。 1 作られた女性 「第二の性」は、「女は女に生まれない。女になるのだ」という名文句が鍵になった書物です。女が第二の性に甘んじて来たとすれば、「第一の性」は当然男です。どういう女になるかは男及び男が支配する社会システムによって決められてきたということです。 ボーヴォワールは、女は男を基準にして、「娘」や「妻」や「母」として「定義される」のである、と指摘しました。男は定義をする側の主体であるのに、女は一方的に定義を受ける「他者」である、と言ったのです。人生において、男は「自分でいる」ことができますが、女は常に男の定義のなかで生き,「自分が決めた自分でいる」ことは許されないのです。自分が自分の「主人公(主体)」になれないということをボーヴォワールは女性の「他者性」と呼びました。 2 制度や仕組みからの解放 筋肉にすぐれた者が社会を支配するとすれば,その社会の文化は筋肉文化です。当然,筋肉文化の支配者は男性です。それゆえ、社会制度も、経済制度も決めるのは男性です。資源や財産を支配するのも男性です。「女性のあり方」を決定するのも男性です。女性を男性の支配から解放し、男女の対等を実現するためには、男性が支配する制度を変えなければだめだと言うことは明らかでしょう。女性を「女性抑圧のシステム」から「解放」しようという運動(フェミニズム運動やウーマンズ・リブ)はここから始まっているのです。 3 文化的性差 また、「女」は男によって定義された通りの「女になる」という考え方は、「女は作られたのだ」という文化の側面を浮きぼりにしました。「妻らしさ」も、「娘らしさ」も、「母らしさ」も、「女らしさ」そのものが、生物学上の性差とは別に、男支配の文化が作り上げた「文化的性差:ジェンダー(Gender)」と呼ばれるようになりました。ジェンダーの大部分は言葉やイメージになって社会に溢れています。女性解放論者が、父兄は「保護者」に、兄弟は「兄弟姉妹」に、「主婦」は妻に、婦人は女性に言い換えようとしているのは、性別の役割を事前に決めてしまい、女性のあり方を一方的に規定する言葉の意味を否定するためです。 (*)シモーヌ・ド・ボヴォワール「第二の性」、井上たか子・木村信子監訳「事実と神話」別に第2部「体験」の訳がある。新潮社、1977 IV 言葉は男が支配するー女性に対する言葉の不公平 1 言葉は男が作る 「言葉は男が作り、男の目的に合わせて使って来た」と指摘したのはデール・スペンダーです(*)。言葉は私たちの経験を表したものです。私たちはヘレン・ケラーとアン・サリバン先生の物語を知っています。聞こえない、見えない、話せないという三重苦の中でヘレン・ケラーは「言葉とは何か」が分からなかったのです。サリバン先生は庭のポンプで水をくみ上げ、ヘレンの片方の手を水に曝し、もう片方の手のひらに指文字で水=w-a-t-e-rと書いたのです。ヘレンの理解は衝撃的でした。経験と言葉が結びついたのです。直ちにヘレンは大地を叩いて"これは何か"とサリバン先生に尋ねたのです。ものには名前があり、意味があり、人間は言葉によってそれらを共有するのです。だから話が通じるのです。言葉を共有するということは世の中が認めるということです。ところが言葉の意味を認めた世の中を代表したのが「男だった」のです。世の中を支配したのは男であり,言葉の意味を支配したのも男だったのです。結果的に多くの言葉は男に都合の良い使われ方をしました。言葉が性別による差別を含み、文化的性差(ジェンダー)を生み出したのは必然の成り行きだったのです。それゆえ、言葉を変える事と制度を変える事が同時に必要になるのです。スペンダーは「言葉を変えれば社会が変わり、差別を弱めることができ」、「社会の仕組みを変えれば、言葉も、その言葉の意味も変わる」と指摘しています。それを「言葉と社会の弁証法的関係」と呼んでいます。M・ミードが指摘した通り「自然なものは一つもない」のです。 (*)デール・スペンダー「言葉は男が支配する 言語と性差」、レイノルズ・秋葉かつえ訳、勁草書房、1987 2 しかし、文化はそう簡単ではないのです。 インタビュー番組などが「奥さん」などと女性に呼びかけることは、暗に「奥さん」と「主人」の主従の関係を前提にしています。本人が意識しなくても,歴史的に妻と夫の主従の関係を含んでいるのです。 それゆえ、断固自分の夫は「夫」であって、「主人」とは呼ばない、という多くの女性が登場しました。筆者がシンポジュームの司会で登壇者の女性に「お宅のご主人」はと問いかけた時に、大いに抗議を受けたこともあります。しかし、友人の「夫」や「妻」を礼儀正しく呼ぶためには、「奥様」や「ご主人」に代わるどんな言い方があるでしょうか?会話の中では、だれも「あなたの配偶者」とは言わないでしょう。「あなたの妻さま」とも言わないでしょう。一度「あなたの夫さん」と言う人に出会ったことがありますが、周りが眉をひそめました。日本語文化はいまだそうした表現を認めてはいないからです。 新しい男女共同参画の思想と歴史的・文化的表現の間にいまだ多くのギャップがあるのです。主従関係を認めているわけではありませんが、文化の要請にしたがって相手に対する丁重さを表そうとすれば、「お宅の奥様」や「あなたのご主人」という「符牒」になるのはふつうなのです。それともいささか不自然ながら、「あなたのお連れ合い」とでも呼ぶ習慣を作って行くのでしょうか?
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