空気を読み始めると人は沈黙する

 今の職場に移って2か月半が経ちました。業務から学会からいろんなレベルの仕事が集中していて、なかなか本業の研究で攻めの活動を行い難い日々に追われています。
 以前も決して暇ではなかったのですが、特任の立場で研究中心で仕事できた頃とはだいぶ違い、今は組織の運営や担当業務に関わる細かい調整や、各所からの依頼事項への対応が毎日発生します。学会の活動も査読や原稿の締め切りや、大会準備の作業依頼が常時入ってきて、学会関係の調整メールを送らずにすむ日はないような状況です。
 少しでも時間を作って、このブログのように何か発信していく時間を増やしたいと思いつつ、何か発信する時に気を付けないといけない「シガラミ」のようなものが増えていることを少し前から感じています。
 こういうことを書くと誰々が嫌な顔するんじゃないかとか、この人たちに失礼なんじゃないかとか、あれこれ気にしながら「政治的に適切な」文章を書こうとすると、結構時間がかかるし楽しく書けない。だからなおのこと、気軽に書けなくなります。
 書き手として訓練されたスキルの高い人はそういう問題もうまく乗り切っているのでしょうが、自分程度の書き手としてのスキルではなかなかうまくいきません。
 このブログも留学した頃に書き始めたので、気が付くともう10年ほど書いていることになります。昔の方が空気を読まずに好き勝手書けたのに、気が付くと、以前のように気軽に書けなくなっていました。
 以前は気晴らしに書いていたブログが、以前ほどに書いても気が晴れないし、あれこれ気にして書いていて、書いていて創造のスイッチが入って気持ち良くなるようなことが減ってきたということもありますし、歳を取って以前よりも集中力が落ちていることもあるかもしれません。
 少し前は、ツイッターやフェイスブックにちょこちょこと書いたら書きたい気分が満たされて、ブログで長い文章を書くのが億劫になっているという気がしていました。確かにその側面もあるのですが、最近はそのツイッターもフェイスブックも手が止まることが増えてきました。
「そんなこと書いてる暇があったら、こっちの仕事やってくださいよ」って思われるのではないかという自意識が働くこともあれば、口を開けば「忙しい」と言うような状況で何か書いても、忙しさ自慢みたいでみっともない、と思われそうだなとか、やっていることを書いたら、自慢すんなよとか思われたら嫌だなとか、あれこれと自意識なのか空気なのかわからないレベルで読み手のことを気にしていると手が止まります(笑。人によっては変なこと書いて炎上したら嫌だとか、変な人が絡んで来たら嫌だなとかいう気持ちで発信することがストレスになってやめてしまうこともあると思います。
 相手を慮って空気を読んでいる会議ほど沈黙の時間が多いように、空気を読み始めると、発信することがストレスになり、楽しくなくなってきます。そうすると人は沈黙し、発信することをやめてしまうのだと身をもって感じます。
 ブログやSNSの普及で、せっかく誰もが発信でき、発信する楽しさを享受できるようになったのですが、普及が一巡すると、メディアの利用され方も使い手側の文化的な要因に規定されるということでしょうか。
 最初に書こうと思って書き始めたことが書けなかったので、手が止まる自分を内省しつつ考えたこと自体を記してみました。たまに意識して書かないと表現力が落ちて書くこと自体がストレスになりそうだったので、リハビリ的にこういうことをたまに書いていこうと思います。