「好きを仕事にする」のはほんとに幸せか?

 高校時代、もうすぐ定年が近そうな年配の生物の先生がいた。彼がある時、授業中の雑談で「オレはずっと生物が大好きだったから、これを仕事にできたらどんなにいいだろうと思ってたんだけど、実際に仕事にしてみると生物が楽しみじゃなくなったんだよね」とボヤいていた。
 とはいえ、彼はいつも嬉しそうにニコニコと授業をしていたので、普通に他の仕事をしているよりは幸せだったのだろう。言ってみれば、そのボヤキは、自分の好きな生物に対するある種のノロケのようなものだったかもしれない。でも、彼のボヤキが表しているように、「好きを仕事にする」というのは、普通の人がイメージするほど幸せいっぱいの毎日が来るわけではない。


 趣味であれば、気が向いた時に気が向くだけ接すればよいので気が楽で、その「好きなこと」の嫌な部分や面倒な部分は見えてこない。それがいったん仕事になってしまうとどうか?趣味的にやって食べていける人はごくまれなので、普通は仕事として四六時中その好きなことに接する必要が生じる。それにその好きなことの周辺にある嫌いなことや苦手なことも含めて対応していかないと、食べていけるだけの仕事として成立しないのが通常だ。
 たとえば、ケーキ作りが好きだからといって、それを職業にしようとしたら、週一回焼いているだけではダメで、四六時中小麦粉やクリームにまみれて働かなければ生活はできないし、配達したりお客のクレームに対応したり帳簿をつけたりと、ケーキ作り以外の作業もたくさんある。好きなことを仕事にした時に、それらの周辺の作業も含めて好きになれるかどうかが、その好きを仕事にする試みがうまくいくかどうかの一つの基準になってくる。
 僕自身、ゲームを仕事にしているようなところが多分にあるのだが、ゲームを仕事にした場合も似たような状況がある。僕も最初はゲームを研究テーマにすれば、研究と称してゲームもできるし、他の学習ツールの研究やるよりはよほど楽しいだろうと思っていたところがある。知り合いのゲーム研究者や開発者たちと話をしても、みんな多かれ少なかれ似たような動機を持ってこの分野の仕事を始めているようなところがある。
 最初の頃はその動機を満たせていい気分で仕事ができるのだが、だんだんと佳境に入ってくるとそうのん気なことも言っていられなくなる。たいていの場合、楽しんでいる程度では平凡なレベルの仕事しかできず、付加価値のある仕事をするためには、自分の表現スキルや思考スキルを高めたり、たくさんの仕事をこなしたり、他の人がやっていないような面倒くさいプレイをする必要があったりする。そしてその作業には往々にしてかなりの苦痛が伴う。
 自分の能力に制約があって、それを超えた仕事をしようとチャレンジする時には、どんな好きなことをしていても苦しい時間を経なくては仕事は終わらない。普段は楽しくこなせる仕事でも、無茶な〆切を課されたとか、嫌な人とやり取りしないといけないとかちょっとしたことで、夢想していた楽しみはどこかへ消えてしまう。
 仕事として当たり前に経験することを繰り返しているうちに、その「好きなことを仕事にする」ことは、最初に描いていたイメージとは違ったものだったということに気づく。しかし、気づいた時にはもう遅く、好きだった対象を以前と同じように見ることはできなくなっている。趣味でゲームをしても、頭の中ではあーでもないこーでもないと、いつの間にか分析的に見ようとしていて、単純に楽しんでいない自分に気づく。どんなゲームをやっても、どこか研究とつなげて思考せずにはいられない自分とゲームの関係は、この仕事を始める前のその関係には戻れない。
 同じように、おそらくゲーム会社のQAとかでテスターをやっている人は、バグを見つける性分になっているだろうし、他にも開発者、ライター、プロゲーマー、ゲームに関わる人たちにはそれぞれに職業病的なゲームの見方ができてしまうのではないかと思う。人によってはそのうち嫌いになって、次の仕事を選ぶ時には全くゲームと関係ないものを選ぼうとするのかもしれない。
 これはゲームに限らず、最初の生物教師の話のようにどんな分野の職業でも似たような状況にある。それに職業でなくても、同じような状況はいくらでもある。たとえば、何か好きな作家の小説があったとして、好きな時間に趣味として読むのは至福の時間でも、それが授業の課題になって、来週までにレポートを何ページか書く必要があるという状況になって、とたんに楽しくなくなった経験をしたことがある人もいるだろう。読んで楽しむという行為が楽しくても、課題となった時点で発生する嫌なことがその楽しさを奪ってしまうのだ。
 そんな感じで、「好きを仕事にする」という考え方には、パッと見幸せそうに見えて実はなかなか厳しい問題もあったりする。かなり嫌な目にあっても好きと言える自信がなければ、おそらく趣味のレベルでとどめておいた方がよいのかもしれない。
 たとえば、食べるのが好きでもそれを仕事にするには、食べて回るだけでなくて、それ以外のところで表現スキルを磨いたり、仕事を取ってくるためのマーケティング力を高めたり、かなり根気よく努力を続ける必要が生じる。歌とか踊りとか芸事であればなおさらのこと。どんなことでも人に負けないスキルを身につけるには、どこかの段階で苦労や辛抱が伴う局面も生じる。中には、ごく一部の才能に恵まれた人もいて、普通の人が苦痛に感じることも楽しめたり、そもそもそういう壁がなかったりして自然と好きなことを仕事にできる人たちもいる。でもそれはごく一握りの運の良い人の話で、誰もがそんな幸運に恵まれているわけではない。
 前向きな話としては、あまり深く考えずに地道に続けていれば、最初に好きだった側面は途中で嫌いになったとしても、長く付き合っていくうちにまた別の側面を好きになってもっと楽しくなることもある。下手でも続けていれば、そのうち才能が開花してものすごいことになるかもしれないし、あまり人がやっていないことを地味に続けていたらいつの間にか周りが盛り上がって、収入につながって生計が立てられるようになるということもある。
 大事なのは、急いで仕事にしようとあせらずに、気長に楽しむ心持でいることだろう。好きで始めたとしても、仕事として成り立たせるためのスキルやビジネスなどの周辺知識が足りないと苦労するし、その苦労のせいで夢がついえてしまうこともある。そうならないためには、できればあせらずじっくりスキルや経験や元手を貯めつつ、時期を待つことがベストだろう。
 こういう考え方は、一見平凡で、僕自身も20代の頃はそんなのん気なことやっていられるか、と思っていたところもある。でも歳を取るにつれて、案外こういう地味な考え方こそパワフルだったりするのだなと感じる。まあ、これも実践することはなかなか難しくて、だからみんなができるわけではないのだけど。