実践者と研究者の違い

 音楽、映画、文学などどんな分野のものでも、優れた作品に触れた時、何か心地よいもやもやした感情が残る。それは文芸作品だけでなく、料理でもスポーツでもそうだし、教育でも同じで、優れた教師のいい授業を受けて、とてもよくわかった、学習に没頭した、ものすごく興味がわいた時には優れた芸術作品に触れた時の「もやもや」とした感覚が伴っているのを感じる。
 この「もやもや」は、説明できなさが感覚となったものであって、優れたパフォーマンスや作品を絶賛するのに「これは芸術だ」という表現があるのは、説明できない要素を「芸術」という言葉で表現していると考えれば合点がいく。


 優れた実践者は、その実践を通して人々にこの心地よい「もやもや」を生む。優れた実践を生むには、その人の才能によるところもあれば、ベースとしてしっかり理論を身に付けて訓練を続けてきたところによるところもあるだろう。一般に「経験とカン」と呼ばれるものも、形式知化されていないだけで、その人が時間をかけて身につけた経験則や理論がベースとなっている。
才能に左右される部分はあるにしても、今日学んで明日できるようなものからは優れた実践は生まれにくい。
 かたや研究者の仕事は、人が何かもやもやしている時に、そのもやもやを要素に分けて因果関係を整理して、そのもやもや具合を解説することにある。文学であれば文学批評の用語、経営には経営学、教育には教育学など、それぞれの専門領域によって説明のための用語が発達し、それぞれの分野の文脈に沿って優れた作品や優れた実践の説明が試みられる。
 実践者と研究者の本質的な違いをざっくりとわけるとすると、実践を通して心地よい「もやもやした感情」を生み出す側か、そのもやもやを整理して説明する側かにあるのではないかと思う。
 ところが面白いもので、研究も優れたものになればなるほど、説明できないもやもやした感動を生むものになり、それらの優れた研究も「芸術品だ」と賞賛される。
 実践、研究、どちらの立場であっても、すでに説明された型どおりの「セオリー」をおさえているだけでは「芸術」と呼ばれるようなものは生み出せない。芸術と言う表現でしか説明できないものが生まれる時には、そこにその人の何らかの創造性が発揮されているのではないかと思う。作家、俳優、スポーツ選手、講師、料理人、職人、どんな分野の巨匠の作品にも、その優れた作品、パフォーマンスには、その人ならではの創造性が働いている。
 もちろん、いきなりはじめから「オレ流」でやってうまくいくことはなく、学習の過程にはセオリーや型を身につけた方が効率がよいと考えるのが一般的な「セオリー」だ。どれだけ早く一人立ちして、型から離れられるかには、才能が変数として左右する(この「才能」というざっくりとした言葉にも、「芸術」と同じく、説明できていない能力にとりあえず名前を付けている面はある。まあ、説明しだすときりがない)。
 そういう意味では、実践も研究も突き詰めていけば、先のほうでつながっているのではないかと思う。実践であれ研究であれ、すでに誰かが説明した範囲のことを平凡にやっていては芸術の域には達しないし、説明できないレベルのものを科学的でないとかセオリーに沿ってないから邪道だとか何とか言って無視するような人には優れた研究もできない。
 こんなことはとっくに誰か頭の良い人がもっとうまい形で説明していることだとは思うけれども、そういう人の説明を探す前に、自分の考えとして掘り下げて自分の見解を広げていくことがむしろ大事なのではないかと思うのでちょっと書いてみた。
 自分自身、まだキャリアの先は長いこともあるし、実践にせよ研究にせよ何をやるにしても、人が説明できない「心地よいもやもや」を生み出す仕事を常に目指してやっていきたい。今はまだ形にできなくても、まだ説明できなくても、その実現を目指して続けていく意志を失わない限りは、誰にとっても最後までチャンスは開かれていると思う。