「強いチーム」の抱える大きな問題

 いかに組織を強くするかとか、コミュニティの魅力を高めるかとかいったことは、組織論や経営論などの分野でいつも語られる。何か他者と競争状況があったり、勝ち残らなければいけない環境がある場合には関心を持たれるテーマだ。
 強くなる、というのはその分野やそのチームや組織やコミュニティが抱えている目標によって意味が異なる。営業成績をバリバリあげることだったり、研究費を外部からたくさん取ってきて大きなプロジェクトをこなせることだったり、その分野で日本一になることだったりと、それぞれに手に入れたい強さは異なる。だが、どの分野のチームであっても、共通して強くなればなるほど大きくなる問題がある。


 まず、そのチームが強くなることは、相対的にほかのチームが弱くなることを意味する。強さでなくても、魅力あるチーム、と言いかえても状況は同じで、よそのチームは相対的に魅力がないように見えてしまう。それにチームが強くなるということは、その構成メンバーの結束や内側の関係性の強化を伴うもので、それは同時に外側との関係性の弱さや断絶を生む要素となる。
 チームやコミュニティという発想は、「ウチ」と「ソト」を分けるので、その内側にいる人たちは、そのチームの強さのおかげで余所の人よりも多くの利益が享受でき、強いチームにいることで所属欲求が充足でき、どうすれば強い状態でいられるかを知っている人のネットワークがあるおかげでその立場の維持もしやすくなり、いいことづくめになる。
 一方で、その外側の弱いチームにいるにとっては、得られる分け前が少なかったり、負け犬根性になったり、やる気があっても勝ち上がっていくためのサポートシステムがなかったりと、ろくなことがない。強い営業チームの影には泣かず飛ばずの営業チームがいて、常勝球団の影には常敗球団がいて、みんなが協力し合って元気なコミュニティの外側には、そのコミュニティに入れなくてつまらない思いをする人たちがいる。
 これは、南北問題のような国家レベルの話から、国内の格差社会の話、小さなムラのいざこざ、学校のクラスの中の話も同じようなところがある。ウチとソトとで格差が生まれ、ソトにいる人は面白くなくなる。そもそも人は、自分が関わっていないところで楽しそうにしている人たちを見ると面白くなくなるところがあるので、内側の人が実際にはそんなに利益を享受してなくても、「なんだ、あいつらばっかり」と勝手にへそを曲げる。いったんへそを曲げられてしまうと、そこから歩み寄るのは大変である。もう面倒くさくなって、断絶したまま突き進んでさらに状況を悪くしてしまい、全体の環境が悪化してしまう。
 わかりやすくスポーツの例を挙げれば、巨人のせいでプロ野球がつまらなくなってしまって、選手もファンも流出してしまって、関連ビジネスも衰退しているというようなことだ(この例には異論もあると思うが、別に巨人が実際にどうなのかと言うのは本題ではなくて)。ほかの分野でも例はいくらでも見つかるだろう。
 ではどうすればよいのか。どうしようもできていないから、世の中こんなに問題だらけなのだろう。考えていかないと状況は良くならない。万能な処方箋などたぶんなくて、戦略論だけでも解決しない性質の問題だと思う。むしろ、利己心を抑えて判断するとか、無理して全部勝ちに行かないとか、相手を追い込み過ぎないとか、教訓レベルの原則を根気強く保持し続けることなんじゃないだろうか。勝ちが続くとつい我がまま勝手になってしまったり、勝てない相手の気持ちをないがしろにしてしまいがちになったり、身内が得するようにこっそりズルしてしまったりするところを、そういう誘惑の影響を抑えて続く仕組みを作るのは必要な配慮だろう。
 おそらく、強いだけでなくてほかの魅力があるとか、周りと調和できているチームやコミュニティの事例などを見ていけばヒントもあるのかもしれない。あと、強さの質を考えて、たとえば「利己的でない強さ」とか「周りが面白くなくならない強さ」とか、一般的な強さとは異なる質の強さのあり方を追求することが一つの方向性かもしれない。
 なんだか、書き始めた時に考えていた考えが書いているうちにどこかに行ってしまった。まとまりがもう一つなのだが、今日のところはこの辺で。