先日、日本シミュレーション&ゲーミング学会(Jasag)の春季全国大会に参加してきた。今回は初日のセッションだけの参加。この日は大会シンポジウムと二日目のポスターセッションの予告プレゼンと学会総会、それに懇親会という流れだった。
シンポジウムは『JASAG1.9:新しい理論と実践に向けて』というテーマで、教育、都市計画、ビジネス、社会心理、の各分野の研究者がパネリストとしてこれまでの取り組みを紹介し、今後の展望を議論するといった内容だった。この学会の学際性を意識した人選になっていたため、各分野でどのようなことが行われるのかをおさらいするには良いセッションだった。各分野それぞれに長年の取り組みの中で実践の型のようなものができているような様子だったし、ゲーミングシミュレーションという枠組みで共通認識が形成されていることも伺えた。
最近のシリアスゲームへの関心の高まりや、ニンテンドーDSやWiiのヒットによるゲームと社会の関係性の変化など、この学会が関係する領域が大きく動いている現状がある。この学会コミュニティでも、シリアスゲームがバズワードとして使われて、多少のプラスになっている面はあるようだが、大勢としてはそうした社会状況の変化に呼応する動きはあまり見られないし、社会の側からこの学会の活動が再評価されるようなことも起きていない。
この学会にとって、現在の社会的なゲームを取り巻く状況の変化はチャンスになるはずなのに、なぜそれが見えてこないのか参加しながら考えていた。その理由として、次のような点が考えられる。
まず、学会の機能として、学際的な人々による情報共有の面は機能しているものの、学会の外への情報発信の機能がうまくいっていないこと。今日ではオンラインで論文全文が入手できる学会が増えているが、この学会の論文は書誌情報の検索すら困難。論文誌の目次は2004年分まで見られるがそれだけ。学会の外からは何をやっているのかが見えない。このコミュニティで蓄積されてきた知識を発信していこうという関心がそれほど高くないのか。論文自体は有料でもなんでもかまわないが、アブストラクトくらいは提供しないと発信していることにはならないし、学会がハブとなって個別に情報発信されている各研究者の情報がネット上でつながっていくだけでも知識基盤の形成という面ではかなり意義があるだろう。
つぎに、この学会コミュニティの中心的な人々はゲーム世代よりも上の世代であること。残念ながら、最近のゲームが昔とどんなに変わっているかをウォッチできている研究者はほとんどいない。そもそもデジタルゲームへの関心が高くない人が中心なこともあり、「ゲームでできること」の幅がどんどん広がっていることが感覚的に共有できていない。
この学会の活動の歴史的な経緯も影響している面があると思う。ゲームというテーマには社会的な偏見もあるせいで、この学会は学術性や、教育的な正当性を社会に認めてもらうのに苦労してきた歴史があるため、それがずっと尾を引いているようなところがある。研究タイトルとして、ゲームであることを隠すための婉曲的な名称を名づける必要があったり、ゲームを利用した教育アプローチへの社会的な無理解と闘いながら活動してきたようなところがあった。エンターテインメントゲームとは一線を画してきたのも、ゲーム業界との連携が深まらなかったのもそのような経緯が何らかの形で影響していると思われる。
この学会の学際的なコミュニティのため、以前から関係する人材層の薄さや個々人のコミットメントの量が限られていることも影響しているだろう。社会的なプレゼンスを高めるにはタスクフォース的な活動で学会としての学際分野を取りまとめた知識基盤を作っていくことも重要になってくるが、そこまでに達するだけのコミットメントもリーダーシップも期待することは難しいため、研究者の属人的なモチベーションで可能な範囲で努力する体制が続いている。
また、シリアスゲームのように、ゲーム開発者と連携してゲームを作るという発想自体が主流でなく、自前で開発することに重きを置いていることもある。シリアスゲームはゲームの開発に多様な主体が参加することで予算規模拡大や成果物の質を高めることにつながったが、Jasagでは自分たちの作りたいものを自分たちの手で作ることに価値が置かれる向きがある。これはどちらがよいという話ではなく、価値観の違いの問題だ。
Jasagとシリアスゲームいう視点では、以前この学会に参加したときにも書いたが(「Jasagとシリアスゲームの違い」)、Jasagとシリアスゲームは同じような関心を持ちつつも、価値の置き方やアプローチの仕方が異なり、Jasagの人々からは同じ宗教の別の宗派のような趣きで捉えられているところがある。他の学会コミュニティと比べればJasagの規模は大きいものではないし、シリアスゲームに至っては、日本ではまだコミュニティそのものが十分に確立されていない。
今回、何人もの研究者の先生方と交流を持つことができて、今後協力して知識を共有していけそうな期待が高まったのはうれしかった。しかし中には不快感をあらわにして、シリアスゲームなんてアカデミックな世界では通用しないから気をつけろ、というようなことを言ってくる方もおられた。別にこちらはシリアスゲームを学術的に普及させようなどとは考えていないし、マイナーな分野の研究者がその学術的な正当性を云々しても意味がない。
この学会が約20年の歴史の中ですぐれた実践を積み重ねてきた一方で、理論構築や普及の面で抜け出しきれてない感があるのは、実践活動が主体になっていて、研究アプローチに関する知識や教育学分野の知識が十分にフォローされていないことによる面も大きいように思われた。学習理論や教育方法のフレームワークを取り入れて実践をすればさらに成果が上がるのにもったいない限りだ。
理論研究をする研究者もわずかにいるようだが、最新の、といって紹介されるものはずいぶん古かったり、最近の事例の調査が不十分なものも多い。学際領域だから仕方ないところもあるが、たとえば最近の学習科学系のゲーム利用教育の研究をフォローすれば、研究と実践のバランスをとりながらすぐれた事例を生み出すための知見は多く手に入る。シリアスゲームを単なる流行りものや別物として捉えるのではなく、共通するところを辿って研究成果を見ていけば、役に立つ知見は山のようにある。