ゆとり教育見直しの件

 教育を研究するものとして、ゆとり教育見直しについて、ちょっとだけ触れておこうと思う。(ソース
 論点は、(1)課題設定のそもそもの誤り、(2)教育理念を実現するための実務家の不在、である。


 (1)は、教育行政が長年間違い続けている問題である。いろいろ問題はあるのであげ出すときりがないが、たとえば、今後の課題としてあげられている「学ぶ意欲を高める」というもの。子ども達に学ぶ意欲があるという前提で物事を考えるのがそもそもおかしい。「生きる力を育てる」というのもずいぶんなものだが、それは今回は置いておく。
 今の学校の文脈で、子ども達の学ぶ意欲を高めるというのは無理である。世の大人たちはよく考えてみてほしい。自分が子どもの頃、学ぶ意欲なんてあったのか?そんなことを感じさせられる局面が果たしてどれだけあったか?少なくとも私は大学に入るまでは学校で学ぶこと自体に意味を見出すことは全くなかった。育ってきた周りの人間を見ても、そんな人間は一人もいなかった。勉強を真面目にしている子どもはいたし、私もその中に入っていたかもしれないが、それは学ぶ意欲があったから勉強していたのではなくて、つまるところは「やらないといけないからやっていた」だけのことである。他の理由としては、友だちに負けたくないから、先生に気に入ってもらいたかったから、いい大学に入りたかったから、という程度のものである。今の子ども達の学力が低下したのは、私たちの子どものころに比べ、やらないといけない縛りが緩んで、その分学ばなくなっただけのことである。ゆとり教育というキャッチフレーズは、その点においてたいへんに有害であったと言える。この20年ほどの間にずるずるとゆとりと称した「ゆるみ」が学校教育に蔓延したことが学力低下につながっているのであって、最近の総合的学習の時間導入やカリキュラム改訂は学力低下の主要因ではない。
 子ども達にゆとりがあるかといったら、ゆとりはありすぎですかすかなはずである。私の子どもの頃ですらゆとりがありすぎで、ゲームばっかりやってたんだから。私のように公立校で塾にも行かず、部活も熱心にやらない子どもは暇をもてあましていた。十数年前でそうなのだから、学校の指導もゆとりで緩みすぎて、しかも空き時間に熱中するネタもたいしてないとなると、今の子どもたちが刺激が強くて没頭できるネットやゲームなどの趣味に時間を費やすのも自然の帰結である。さらに悪いことは、子ども達は将来の希望が見えず、息が詰まるような日々を送っていることである。子ども達が疲れているのは、ゆとりがないからではなくて、日々がつまらなくてモチベーションが低下しているからである。教育行政と偉い先生方がゆとり教育かそうじゃないか、というような、子どもの実態とかけ離れた的外れな議論をしている間に、状況はどんどん悪化する。
 ここらで、論点(2)に移る。以前から触れているし、これは私が今のキャリアを突き進んでいる主要な理由でもあるのだが、教育改善の方法論を考え、実行レベルに落としこめる専門知識を持った人間がいないのである。偉い先生が議論して、役人が作文して物事は進んでいくが、それを推進できる実務の専門家は不在である。もちろん、そんなことに関わらず、方々に立派な先生はいる。幸運にしてその先生に出会えた子ども達はいいかもしれないが、大多数はそうではない。教育をよくしたいと熱意を持って学校の先生になる人や、私塾を始める人もいるだろう。それは立派なことだが、現状でそれをやっても効果は限定的である。方や教育行政を変えようと役人になる人もいるだろう。しかし古くて巨大な行政システムに素手で立ち向かっても、消耗して埋没してしまうだけであって、そんな人は山ほどいるだろう。個人の熱意は大事だが、それだけでは大きな変化は起こせない。その点、教育を志す人は概してナイーブで、物事をよく考える立派な人でも、声の大きい人やずるい人に打ち勝つパワーを持ちきれないで埋もれていく人が多いのだろう。
 何の分野にしても、何かを作っていくには知識を蓄えて、スキルを磨かないでできるものなどない。方や教育分野では、物事を作り、変えていく具体的な方法論を持たないで議論ばかりしている。なぜ教育だけはいつまでも素人談義ばかりしているのか。塾の先生にしても、教育評論家にしても、みんな「オレの教育論」である。そんなものはたいてい、テレビの移りが悪い時に斜め45度でチョップするとか、歯が痛いときに正露丸を詰めるというような民間療法の類である。それは全体に通用するものではなく、そんな民間療法しかしらない人間が知恵を絞ったところで、具体的に実行できるプランのない理念ばかりで、落とし込まれてない理念を現場に持ち込んでも現場は混乱するだけである。具体的な方法論を持たずして、ゆとり教育や学ぶ意欲などと議論するのは無駄である。もうそういうのは明日にでもやめた方がいい。
 最後に、学校という枠組み自体がどうかと思うのだが、あえて課題を設定しなおすとしたら、子ども達の自発的な意欲を育てるのでなくて、「子ども達が密度濃く学ぶ環境を作る」という感じだろうか。これは旧来の詰め込み発想ではない。とにかく学ばざるを得ない環境、理由はともかく学びたくなる環境、気がついたら学んでしまう環境を手を変え品を変え提供していく仕組み作りである。競争的発想でも義務的な必然性を高めることでもいいし、イベント的な学習の場を増やすことでもいい。とにかく子ども達を忙しく学ばせることである。その点は塾の方に一日の長がある。いい塾のよいところは吸収すればいいが、それでも十分ではない。とにかく現場の創意工夫レベルでできることを支援して、少なくとも学ぶ場としての機能を回復すること。そこからしか話は進まない。これまで具体性のない理念を掲げて、現場を消耗させてきたのだから、カリキュラムに小細工をするのはやめた方がいい。それは状況を悪化させるだけである。そんなことをするなら、教育の業務改善に目を向けて、教育活動に関係のないものを圧縮する施策を打つべきである。現場の先生が教育の質を高めるための時間を確保させた方がましである。仕事してない教師に仕事をさせ、暇な子どもを忙しくさせるための制度的な変更がむしろ急務である。