十二年ぶりの父との再会

 昼前にうちを出て、鈍行電車に乗った。妻の実家を訪ねる以外は特にあてもない二泊三日の小旅行であった。とりあえず、途中に父の田舎があるので、立ち寄ってみることにした。私が19のときに両親が離婚して以来、父とはまったく会っていない。12年会っていないことになる。父の田舎にくるのは14年ぶりくらいだろうか。電車で出発したのはよいが、目的の駅までは電車が2時間に一本もない。しかたないので、ひとつ手前の駅まで行く電車に乗って、ひと駅歩くことにした。歩いたことはなかったが、子どものころの遠い記憶では、歩けないほど遠い距離ではない気がしたからだ。目的の駅に着くと、駅前はなんとも言いようがない田舎の駅前通りである。変な演歌が流れていて、タクシーも暇そうである。ちょっと歩くとスーパーマーケットが見えてきた。昼を過ぎていて小腹がすいたので、食べ物を調達することにして中に入った。入り口には、野菜や果物の特売とともに、ジャージやモンペのような着物が売っていて、田舎風情をかもし出している。店内も、ワンフロアに生鮮品から衣料品から雑貨、レンタルビデオ屋まであって、この街の文化の発信地らしい田舎センスが光っている。惣菜コーナーで、この旅にふさわしい巨大な田舎おにぎりを見つけて購入。さっそくそれをほおばりながら、田んぼ端の道をてくてくと歩いた。天気はすこぶるよく、気候も心地よい。この地方では寒い方らしいが、どうも私は2年間の北国暮らしで寒さへの耐性がついたらしくむしろ暖かく感じる。


 変わり映えのない田舎道を30分ほど歩くと、見覚えのある風景が遠くに見えてきた。幼いころに何度か釣りをした記憶のある川べりを歩くと、微妙な懐かしさがこみ上げてくる。ただ、この田舎での私の思い出は、別に美しいものでもなく、来るたびに退屈でしようがなかった記憶しか残っていないので、わくわくするような懐かしさではない。このエリアの駅前通りは、さっき電車を降りた駅前に比べ、さらに閑散としている。コンビニですらこの街にはない。何屋だかわからない商店や、古びた肉屋が並んでいるだけである。見慣れぬ建物も多くて、記憶もおぼつかない。昔はずいぶん遠く感じた道程も、今はあっという間である。先ほどから自分が巨大化したような錯覚に陥るのは、記憶にある子どもの頃の目線よりも、今の自分の目線が高くなったせいだと気づいた。何があるのかわからないが、とりあえず昔歩いた道をたどっていけば、誰か知っている人が住んでいるところにたどり着くじゃないかと思って、さらに歩いた。
 歩きながら、そもそもなぜこの地を訪ねてみようと思ったのか考えた。今さら会ってどうということはないのだが、このままどちらかが死ぬまで会わないというのもどうかと思っていたし、この帰国の機会を逃すと次はいつになるかわからない気がしたので会いに行こうと思った。私の足を運ばせたのは、会いに行って喜ばせてやろうなどという気持ちではなく、自分の中で折り合いのついていない父との関係を一区切りつけたいという気持ちだったと思う。ここに住んでいるかどうかも知らないので、もしいなければいないで、今回はこの田舎を久々に眺めて帰るだけにしようと思っていた。父に会うのは懐かしくも楽しみでもなく、むしろ気が重かった。あたたかく迎えてほしいとは思わなかった。それよりも、今頃どの面下げて帰ってきたんだ、おとといきやがれバカ野郎、と塩でもまかれて追っ払われた方が気持ちがすっきりする気がしていた。
 そんなことを考えながら歩いていると、祖父が住んでいた団地に着いた。父は三人兄弟の次男坊で、父の兄弟たちはまだここに住んでいるというのはなんとなく聞いていた。見覚えのある表札があったので、これが祖父のうちかなと眺めていると、一軒隣で猫を抱えたおばさんがこっちをみている。会釈をしたら、どこか探しているのかと聞いてきたので父の名前を言うと、ここだと言っている。この猫おばさんは父の再婚相手だった。手短に事情を説明すると、歓迎してくれ、家の中に迎えてくれた。父は仕事で出ていて留守だった。このおばさんは、父が通っていたスナックか何かの人だったそうで、私とも昔会ったことがあるといっているが、こちらはまったく覚えていない。茶を入れてくれて、ここ10年ほどの出来事をあれこれ聞かせてくれた。父は離婚した後、この今の奥さんとすぐ再婚し、しばらくして事業を興したが程なく失敗し、脳梗塞で倒れたりしながらも回復し、今は勤め人に戻って土木会社で働いているという。祖父は昨年亡くなったそうで、生前は私のことをずっと気にかけてくれていたという。なんとも申し訳ない気がしてくる。祖父の仏壇に線香をあげに行くと、伯父が迎えてくれた。この伯父にはほとんど会ったことがなかったのだが、元気のいい伯父だったという記憶は残っていた。その記憶のままに元気な伯父であった。彼は若い頃はいろいろ問題があって、そのために父はいろいろ苦労したという話をかすかに聞かされていた。そういうこともあり、父は私をこの伯父にあまり会わせないようにしていたらしいということを初めて知った。叔父のうちにも顔を出した。この叔父とは家族でよく行き来をしていたのでよく覚えている。ずいぶん老けていたが、昔の記憶のままのおとなしい気のよい叔父だった。
 果たして、父と十二年ぶりに再会した。事業に失敗したり、脳梗塞をやったりしたせいであろう、年齢以上に老けた容貌で、どこか弱々しく動作もやや緩慢である。父にしてみれば、私は10代から30代になっているので、見た目もずいぶん変わり、ひと目では自分の息子であると認識できなかった様子である。よくあるような感動の再会という感じではなく、時がすべてを洗い流して打ち解けあうという感じでもなかった。別れる前と同じような空気が流れ、よい父子関係を築けないでいた当時の気分が戻ってきただけだった。
 父と焼肉を食べ、焼酎を飲んだ。奥さんがいそいそと世話をしてくれている。父はこの奥さんと一緒のおかげでずいぶん助けられている様子がうかがい知れた。もともと言葉数の多くない父とぽつりぽつりと言葉を交わす。そのたびに何となく気が滅入った。父は、自分の血を分けた息子が立派になって、自分には想像もつかない世界で活躍しているようだと理解して、とても感慨深げにしていた。私は父のその後の状況を聞くにつけ、いたたまれない気持ちがしたが、これも彼の選んだ道であると思って静かに聞いていた。いろいろと近況について話をしたが、今の自分の身に起こっていることを説明するのはひどく煩わしく感じて、何も言わなかった。田舎の価値尺度でしかものを考えられない人に言葉を尽くしても何も伝わらないし、そこまでする意欲を持ち合わせていなかった。哀れな父に同情されるのが嫌だっただけかもしれない。
 父の兄弟たちの家族に軽く挨拶を済ませ、帰途に着いた。駅まで父が車で送ってくれた。駅の様子など、とりとめない話をしながら電車を待った。次にいつ会えるか、見通しがほしそうな父に、私は何も約束できなかった。遠い外国にいるということで、会えなくても仕方ないと諦めてもらうのが一番よいと思った。今の自分があるのは苦労して東京の私大に出してくれた母のおかげであるし、そこには父は何も関わっていない。その上、母に離婚の際に卑怯なことをして別れたという経緯もある。すべては終わったことであるが、終わり方があまりにもまずすぎたために、父はちょっとした金銭を手にした以外、家族とは完全に切り離されてしまった。そのため父もいつまでたっても後ろめたさが残っているのだろう。積極的に私に働きかけてくることはできないでいる。気の毒な気はするが、これ以上何もしてあげる気にはならなかった。こんな父でも支えてくれる奥さんと一緒に、つつましく幸せに余生を送ってくれることだけを願った。
 しばらくすると、電車がやってきた。身体に気ぃつけや、元気でな、と弱々しく声をかける父に、ありがとう、父さんも元気で、と応え、小走りに電車に飛び乗った。遠くの方で見送る奥さんはすぐに私を見つけ、手を振っているのに、ホームにいた父は、電車の中にいる私を見つけられないでいる。きょろきょろと私を探す父をホームに残し、電車はゆっくりと駅を後にした。近くにいても父は私のことが見えてなくて、最後まで心の触れ合わなかった私たちの父子関係を象徴するような別れだった。