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「風の便り」(第99号)

発行日:平成20年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 熟達の証明 「仕上がりが速くなる」〜「八木山小学校プロジェクト」顧問総括〜

2. 熟達の証明 「仕上がりが速くなる」〜「八木山小学校プロジェクト」顧問総括〜(続き)

3. 「熟年者たち」

4. 「後顧の憂い」 男女共同参画社会−もう一つの阻害要因

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

「後顧の憂い」 男女共同参画社会−もう一つの阻害要因
◆1◆  「へなへなの半人前」が少子化を助長する

  「後顧の憂い」があれば、女性ならずとも、家を空けられず、社会で活躍することなど出来る筈はありません。心配で気もそぞろになるからです。ここで論じる「後顧の憂い」とは、現代の子どもが「へなへなの半人前」であることを意味しています。子どもが「一人前」の道筋に添ってちゃんと育っていないとき、女性の就労は挫折し、「母」は男女共同参画どころではないでしょう。前回も指摘したとおり、女性の社会進出に立ちふさがった主たる障碍は、「筋肉文化」が女性に課した「性役割分業」でした。具体的には、家事と、育児と、介護です。これら3者に関わる時間的、物理的な制約こそ女性が家をでて社会に出ることを不可能にする重大な家族機能維持の責任だったからです。それ故、前回論文で論じたように、社会進出を志した女性も、それを応援しようとした男性も、次々と家庭の機能・家族の役割を「アウトソーシング(外部委託)」して来たのです。そして最後に残された外部委託の機能こそが「子育て」であると指摘しました。しかし、果たして、子育てまでアウトソーシングして、女性が社会に出たあとの家族はどうなるのか、答えは未来の家族が握っているとも申し上げました。
  ともかく、主として女性が担当した家庭の機能を全て外部に委託することが出来れば、女性が社会に参画する物理的な条件は整うかのように見えます。しかし、こんどは、教育問題が「後顧の憂い」となっているのです。大切なのは、子育ての結果であり、子どもの順調な発達、「一人前」の成長の実感です。ところが不登校が蔓延り、非行が止まらず、いじめや引き蘢りが世間を騒がし、中には家庭内暴力や少年犯罪まで話題となる昨今、「へなへなの半人前」は心配の種なのです。親を尊敬せず、自分のことが自分で出来ず、規範を守らず、体力、耐性ともに「へなへな」の子どもが育っていれば、母の社会参画はもとより、次の子どもを産み育てることなど思いも寄らぬことでしょう。結果的に、「へなへなの半人前」は少子化を助長することになるのです。少子化を防止し、男女共同参画を推進するためにも、「しつけを回復し、教えることを復権」して家庭と学校を建て直すことが急務になる所以です。


◆2◆  「家庭教育全面責任論」から「家庭教育部分責任論」へ

  筆者は「豊津寺子屋」の立ち上げに関わって以来、家庭教育に対する考え方を大きく転換しました。転換した主要点は、子育て責任の「分担」についてです。男女共同参画を言う以上、現状で、「家庭にすべての子育て責任を課すこと」は間違っている、と自覚したからです。したがって、それまで自分が唱えていた「家庭こそが子育ての原点で、家庭こそがしつけの全責任を負うべきである」という「家庭教育全面責任論」を「家庭教育部分責任論」に修正したのです。代わりに「養育の社会化」論を展開するようになりました。男女共同参画を社会の基本方針とする以上、社会は家庭を支援して「養育」の責任の部分負担を負うべきである、という考え方をとるようになりました。ここでいう社会とは、具体的に保育所であり、学校であり、学童保育であり、その他諸々の子育て支援事業を指します。
  子どもは家族に属していますから、子育ての第1責任は家庭にあることは言うまでもありませんが、それだけを言っていたのでは少子化は決して止まらず、男女共同参画は決して実現しないことを理解したからです。「養育の社会化」とは子育てのある部分は社会の責任で行なうべきであるという考え方です。要約すると、結論は以下の通りです。
  少子化の防止を言い、男女の共同参画を主張し、女性の能力を社会に引き出すことが大事であると言うのであれば、子育ての責任の一部を「家庭」から「社会」に移すのは当然のことではないでしょうか?家事と育児のほとんど全部を女性に背負わせておいて、なおかつ「少子化」は止めなければならない、というのは無理というものです。現在、女性が背負っている「肩の荷」を軽減しないかぎり、次の子どもを産んだり、育てたりすることはほぼ不可能ではないでしょうか?男女共同参画の建前は、論理の本筋として、家事・育児の役割の半分は男が分担しなければならないということになるのですが、一方では、男が容易に、責任と役割の分担に応じず、他方で応じようにも、男が置かれている労働環境がそれを許さないことは明らかです。だとすれば、女性の「負担」を軽減するためには、養育機能の相当部分を社会が引き受けるべきだということになるでしょう。原理的に、子育て支援論はそこから出発している筈です。
  かくして、男女共同参画と「子育て支援」は表裏一体であり、「少子化」の防止と「養育の社会化」もまた表裏一体であるのです。なぜなら、第1に、仕事も育児も、両方を同時にかつ立派にこなすことは「スーパーウーマン」でも至難のわざでしょう。第2に、少子化の解消を家族なかんずく女性だけの意欲や努力に帰することは極めて"アンフェアー"だからです。


◆3◆  「後顧の憂い」をなくし、「一人前」を育てる方法

(1) 「欲望の野放し」を「価値の多様化」と呼ぶな!                  
  近年の教育の失敗は、子どもの「欲望の野放し」を保護者や社会一般の生活における「価値の多様化」と混同したことに起因しています。とりわけ幼少年教育の失敗は、いまだ未熟な子どもの「自我」と「欲求」を「社会規範」のしつけで抑制しなかったことです。時には、子どもの欲求と「子どもの主体性」を同一視しました。
  社会のコントロールが及ぶと及ばないとにかかわらず、幼少年期の子どもは生物学上の欲求のかたまりです。食いたいものを食いたいといい、やりたいことをやりたいといいます。もちろん、その逆もあるでしょう。食いたくないものは食いたくないとだだをこね、やりたくないことはやりたくない、と泣き叫んだりします。子どもの自我を放置することは、フロイド心理学のいう「快楽原則」の支配のままに、子どもの「欲望」を「野放し」にすることです。戦後教育では、家庭も、教育界も、社会化されていない子どもの「欲求」を「子どもの興味・関心」と置き換えてはこなかったでしょうか?子どもの「欲望の表現」を子どもの「主体性や自主性」の発現と取り違えてこなかったでしょうか??
  社会規範や日常生活のルールのしつけを、子どもの「主体性を縛るもの」と考えて否定すれば、その瞬間から子どもの「快楽原則」に則った行動は制御できなくなります。子どもの欲望は野放しになり、子どもはやりたい放題になります。「好き・嫌い」だけで動く子どもを制御できなければ、礼儀は崩壊し、作法は壊滅します。礼儀作法がすたれれば、やがて集団や個人の約束は成立せず、社会的資源の配分の秩序に混乱が生じることは必然です。霊長類ヒト科の動物もまたジャングルの獣と同じになるということです。
  共同生活に秩序を取り戻すためには、ルールを強制し、子どもに「超自我;社会規範」を内面化しなければなりません。それがしつけであり、保護者や指導者を通して学ぶ現実原則です。言い換えれば、共同生活における規範や日常生活のルールです。?
  いささか単純に過ぎる事を承知で言えば、「自我」は子どもという車のアクセルとハンドルの一部であり、「超自我」はハンドルとブレーキの役目を果します。両者のバランスが崩れれば車は方向も出力も定まらなくなります。それゆえ、社会規範を教えて、子どもの自我を抑制しながら、子どもの行為の「方向」と「中身」を指示して行くのです。しかも、社会生活上の重要な規範は子どもの生まれる前から既に決まっています。それ故、規範の中身について、幼少年期の子どもに相談したり、子どもの意見を聞く必要など毛頭ないのです。幼少年期のことですから、たくさんのルールは不要です。誰もが同意できる主要なものは恐らく以下のようなものでしょう。「親や指導者には敬意を払いなさい」、「他人のものは黙ってとってはなりません」、「弱いものは助けて上げなさい。虐めてはなりません」、「自分のことは自分でやりなさい」、「多少の辛いことがあっても、与えられた責任と役割は果しなさい」。
  これらの教えは共同生活から導き出され、社会が受け継いできた人生の基本ルールです。それゆえ、これらの考え方(「価値」)が子どもに教えられていなければ、家庭内暴力も、対教師暴力も、万引きも、いじめも、不作法も無責任も当然の結果であると言わなければなりません。

* 「自我」とは、フロイドのいう性欲エネルギー源である「イド」から分離して発生したもので、他者と自分を区別する意識であり、行動原理は本人にとっての快・不快を基準(快楽原則)とする。
* 「超自我」は父母を代表とする社会的現実の「掟」であり、「快楽原則」だけで生きようとする「自我」に社会生活上の現実原則への適応を強要する。

(2) 「強制」は「非教育的」か?
  昨今の教育観は「強制」を真っ向から否定しています。「強制」は子どもの「主体性」と対立し、「自主性」を否定することになるからです。「強制」が「非教育的」であるという見方は、学校教育を中心に幼児の保育や教育において信仰に近いものがあります。しかし、本当に「強制」はすべて「非教育的」でしょうか!??一度、子どもに「強制」せざるを得ない状況に立ち返って考えてみれば答は自ずと明らかでしょう。
  第一は「危険を回避」しなければならない場合です。無知かつ未経験な子どもが危険な状況に近づこうとすれば、親ならずとも必死で止めようとするでしょう。子どもの危険を避けるためには、時に、物理的な強制力をもってでも阻止しなければならないのです。「手をつかむ」のも、「尻をたたく」のも、「大声で叱る」のも当然教育の一環です。
  第2は「他者への迷惑を回避する」場合です。周りの人への危険や不快を回避するためにも、聞き分けのない子どもには強制以外の手段はないでしょう。大人の世界でも法律上の禁止や道徳上の不文律の多くは強制を意味しています。言葉を飾らずにいえば、「強制」とは「力づく」を意味するのです。「強制」の裏づけは、道徳的非難を受ける時の「羞恥心」や法律上の「罰則」によって処罰される時の「恐怖」にほかなりません。いまだ発達途上にある幼少年期の子どもは、無知で未熟のゆえに、法や道徳上の罪を問わないことにしているだけです。
  多くの児童中心主義の論者が幼少年に対する「強制」は非民主的で、非教育的だと言いますが、時と場合を考えなければなりません。幼少年期の教育において、すべての「強制」を否定する一般論は極めて危険なのです。「強制」が子どもにとってマイナスに働くのは、子どもが一定の年齢に達した後のことです。子どもの自我が成熟し、経験や知識が子ども自身の判断力を向上させた後は出来るだけ「強制」はしない方がいいでしょう。思春期は自我が成熟し、人生への挑戦が始まる時です。自意識や誇りにかけて様々な「試行錯誤」が始まる時期でもあります。中学生や高校生を規則や監督によって強制し、その行動を縛るのは幼少年期のしつけが不十分であるが故だと思いますが、誠に愚かなことだと思います。逆に、幼少年期はのしつけや教育の原点には「強制」が存在することを忘れているのではないでしょうか?「型」にはめるのも、「しつけ」の糸でとめるのも、時に、物理的に「力づく」で抑制するのも、「三つ子」の将来のためです。体力・耐性のような生きる力の基礎基本を養い、「危険回避の判断」を教え、「共同生活の条件」を整えるためです。幼い子どもは尻を叩いてでも火や熱湯にひとりで近付けないのは彼らが無知で、未熟でその危険を回避できないかも知れないからです。危険な道路で必ず手をつなぐのも、海水浴で赤い旗の向こうには絶対に行ってはならないと叱るのも危険の回避に強制的教育がもっとも有効で重要だからです。幼少年教育にはかならず正当な「強制」が含まれていることを理解しなければならないのです。友だちに向かって固いものを投げたり、棒で叩いたりした場合には時に大怪我を引き起こすかもしれません。その時は間髪を入れずに、強制的にでも加害者の子どもを止めなければなりません。その子は、動物の調教における「刷り込み」のように、「羞恥」と「恐怖」と「罰則」によって二度と同じ過ちを繰返さないように「条件付け」をしなければならないのです。棒や石を使って他の子どもに対する加害者になることは、共同生活の安全に対する重大なルール違反ですから「尻を叩く」くらいの「体罰」は瞬間的に不可欠なのです。?
  現代の幼稚園や保育所や愚かな保護者が"悠長に"やっているように、「相手の子どもも痛いのだから・・」よく考えなさい、とか、「固いものがあたったら怪我をするでしょう」などと「教育的説諭」に終始する暇はないのです。
  人間の存在は99パーセントの生物と同じように「個体」です。「個体」は他者の痛みは実感できないのです。人間の肉体が分離している以上、原則として他者の痛みを分け持つことはできないのです。
  まして、相手の身になって考えることは極めて高度な共感能力を必要とします。それゆえ、通常、子どもにできるような事ではありません。いじめが止まらないのも、差別が続くのも、暴力が止まないのも、基本的に、相手の痛みが自分の痛みにはならないからです。しつけや教育において「やったらただではすませない」という社会のメッセージが現代の子どもには伝わっていないのです。
  常連の苛めっ子は相手のことなど屁とも思っていないでしょう。まして、説諭の言葉などが耳に入るわけはないのです。だからこそ日本人の常識は、「他者(ひと)の痛いのなら3年でも辛抱できる」と言ってきたのです。
  要するに、子どもは相手の痛みが分からないから、石を投げたり、棒で叩いたり、いじめを続けたりするのです。?
  過日、何処かのスーパーでエスカレーターに首をはさまれて重体になった子どもがいました。しつけや教育における「強制」が正常に働いていれば、事故は回避できたはずです。「よい子の皆さんはエスカレーターの近辺で遊ばないようにしましょう」という程度のメッセージで悪ガキの行動が抑制できるなどと思う「子ども観」がまちがっていたのです。浅薄な子どもの「主体性」論や「人権」論に振り回された教育論は「強制」を「非教育的」と断じがちですが、断じてそうではありません。将来、社会人となって、他人の中で気持ちよく共同生活をさせたいと思うのであれば、幼少期の教育は「危険回避」と「迷惑防止」の「強制」から始まると言っても過言ではないのです。
  今や、「しつけ」は大事です、と言っただけでは意味が通じない時代になりました。「過保護」は行けません、と言っても過保護の人々は自分が過保護であるとは思っていないのです。それゆえ、幼少期の指導はもっと具体的に言わなければなりません。「訳なく他所の子を叩いたら、即座にその子の手をたたくのです」。「お前が訳もなくこのように叩かれたらどう思うか!」と厳しく叱るのです。子ども自身に叩かれることの痛さと屈辱を思い知らせなければなりません。「親を侮辱したら容赦なくその子の尻を叩き、そういう口を2度ときいてはならぬ!」と厳重に叱るべきです。謹慎させて、夕食の一度ぐらい抜いてもいいのです。「危険の制止を無視した時は、手でも足でも尻でも容赦なく叩き、大声で2度とするな!2度と触るな!2度と近づくな!と本気で怒鳴るのです」。人間になり切っていない「ヒト科の動物」には、親や指導者の心配と怒りの真剣さが身体に染み込まなければ抑止の効果はありません。

(3) 「なる」から「する」へ−甘い日本語発想
  日本語の教育発想はいかにも甘いのです。我々は"いい娘になった"と言います。"立派な跡継ぎになった"とも言います。あたかも山の木々が自然に"大きくなった"かのように言うのです。ほとんどの人間の子どもは、実際には、多くの人の手が加わって「いい娘」に「した」のであり、「立派な跡継ぎ」に「した」のです。青年や成人はいざ知らず、幼少年教育の本質は「なる」ではなく、「する」です。幼少年教育は基本的に「他動詞」で語らなければならないのです。
?  「学力保障」の考え方も原理は同じです。「学力」が「つく」のではありません。大部分は先生が「学力」を「つける」のです。学力をつけるためには「集中」と「持続」が不可欠です。繰り返して論じたように、「集中」と「持続」の大元は体力と耐性です。それゆえ、体力と耐性を欠落すれば学力は育たないのです。したがって、「学力」を「つける」ためには、「体力」も「耐性」も育てなければならないのです。両者を欠けば、あらゆるトレーニングがなりたちません。体力がなければ身体的努力の持続は困難を極め、耐性がなければ心理的・精神的に踏ん張りはききません。それゆえ、学力向上のためには「集中」と「抑制」の能力をつけてやらねばならないのです。?ここでも体力も耐性も「つく」のではなく「つける」のです。育児も教育も他律の手が加わった「他動詞」であることを理解すれば、子どもは基本的に「育つ」のではなく、「育てる」のであることが了解できるでしょう。幼少年教育の目的は、社会生活に必要な諸々の知識/技術を「理解させ」・「体得させる」のです。子どもの発達が別名「社会化」と呼ばれるのも同じ理由からです。「教育」は確かに「教える」部分と、自然に子ども自身の内在する力によって「育つ」部分を含んではいます。しかし、子どもが本格的に自らを育て始めるのは幼少年期の基本的トレーニングを終えて「ヒト科の動物」が「人間」になってからのことです。幼少年期には、原則的に、「教えて」、「育てる」というように他動詞を二つ重ねることが正しいのです。それが「しつけを回復」し、「教えること」を復権するという意味です。幼少年期の教育は、子どもの成長が「自転」を始めるまで、「学び」のあらゆる領域において、その子にかかわるものが背中を押してやらなければ先へは進めないのです。社会が「教育」を「義務」にしなければならなかったのはその為です。少年教育の原点は「する」であって、「なる」ではないのです。

(4) 「他律」の中で「自主性」を育てる
  多くの人々は表題の小見出しを矛盾と感じるかも知れません。通常、「他律」は「自主性」の反語だからです。しかし、幼い子どもに、「自分でやれ」ということは他人が教えなければならないのです。「自分でする」ことは「自律」ですが、「自分ですること」は「他律」によって教えるのです。「他律」の中で「自主性」を育てる??、とはそういう意味です。 子どもに最初から自主性や自立心がある訳ではありません。あるのは自我と呼ばれる自己中心的な「欲求」に外ならないのです。子どもの「欲求」を放置すれば、言動が欲求に支配されることになるわけですから、わがままと勝手が自己増殖を始めるのは自然の成り行きです。?
  子育てや教育の基本原理が「なる」ではなく、「する」であるということは、現在の就学前教育や小学校教育の指導法を「子ども重視」型から「指導者重視」型へ、あるいは「自律」重視型から「他律」重視型へ転換しなければならないということです。特に、日本の幼児教育は圧倒的に「自律」重視型になっているので、教師による「他律」の方法と中身を再検討しなければならないのです。
  子宝の風土の人々の慈愛は深く、日本の子どもの大部分は大事に慈しまれ、保護されて育っています。しかし、慈愛もその分別を失えば、子どもに対する過保護・過干渉に外なりません。過保護も、過干渉も、「欠損体験」を発生させ、子どもの発達を阻害し、結果的に反社会的な結果を生むことはすでにさまざまな機会に論じて来ました。
  筆者が「教育公害」と呼ぶのは子どもの「逸脱行動」やその「反社会性」が許容の限度を越えたからです。バランスを失い、さじ加減を間違えれば、しつけも教育も不毛な甘やかしや放任に転落するのは必然です。諏訪哲二は本のタイトルに「オレ様化する子どもたち」という題を付けました。子どもは「変」になったのであり、「新しい子ども」が登場したのである、と書いています。しかし、世間は「子どもは変わっていない」と信じた、とも書いています(*1)。
  子どもが変わったのは確かですが、大元で変わったのは教育における子ども観であり、指導法だったのです。結果的に、「子宝」の風土の子育て原理が崩壊したのです。戦後60年を経て、諏訪の言う「新しい子ども」は崩壊した指導原理−指導法の産物として登場したのです。かつて「教えるもの」は「教えられもの」より「えらい」存在でしたが、その原理はとっくに崩れました。
  欧米の児童中心主義を信奉したアホな教員が子どもと友だちになったからです。教育界のモデルに従った親も子どもと同等になり、時には「お子様」の召し使いになりました。尊敬もあこがれも恐怖も感じない教員に、快楽原則と自己保存の欲求のままに行動するする子どもが従うはずはないのです。指導者がなめられれば、子どもは必然的に唯我独尊で行くか、対等を主張する未熟で生意気な独立人になるでしょう。それは確かに子どもの「オレ様」化と呼んでもいいし、「『自己中』の蔓延」と呼んでもいいし、あるいは、「わがまま勝手の自己増殖」と呼んでもいいでしょう。?
  幼少年期の教育原理が「なる」ではなく、「する」であるとすれば、子どもが「オレ様」になったのはそのように育てた結果に他なりません。教育界と保護者が自覚すればしつけの復活は決して不可能ではありません。初めから「半人前」を半人前として処遇すれば、鼻持ちならない「オレ様」もまた向上心のある児童/生徒に戻すことは十分可能です。その単純な現実が幼少年教育に関わる人々に見えていないだけのことです。?
  現在、家庭の教育力は衰退したと多くの人が指摘する。学校も指摘します。保育所や幼稚園の関係者も指摘しています。だったら、教育機関や保育施設は必要な手を打てばいいではないですか?保育所も、幼稚園も、学校もその道のプロの集まりではないですか。答は明らかでしょう。家庭におけるしつけがダメになっているのなら、家庭に成り代って子どもの体力、生活習慣、自主性などを育ててみせることです。
  体力・耐性が共にへなへななである上に、不作法で、わがままな子どもが繁殖を続ければ、崩壊するのは学級や授業だけに留まりません。家庭内暴力のように極端な場合には家庭自体が崩壊します。やがて子どもの反社会的言動は社会に波及します。それが「教育公害」です。
  子どもの暴力や犯罪の多発、労働に参加しない若者の増大は社会の負担で対応しなければなりません。子育てに手を焼けば親は幸せにはなれません。子育てプロセスの不幸は少子化の原因の一つにもなっていることは疑いないでしょう。教育の失敗から発生する問題の多くは善意の結果であるとしても「迷惑」は迷惑です。意図的に不幸を招いているのではない。子どもへの溺愛や教育観の間違いが意図的に不幸を招いているのではないとしても、「不幸」は不幸でしょう。教育のプロにはそれを正す義務があるのではないでしょうか?学校は改めて「守役」の機能を自覚し、しつけを回復し、共同生活のルールに耐え得る子どもを育てなければなければならないのではないでしょうか。保護者が自分の子のしつけが出来ないのであれば、社会の共同生活を維持するためにも、第3者がトレーニングを引き受けなければならないのは当然です。それが幼少年教育における「他律」の原則です。育てるべきものが「自主性」であるなら、他律の教育において、「自分でやりなさい」、「自分で決めなさい」という機会を作って行くしかないないのです。責任感」を教えるにも、「協力」を教えるにも他律の中に「責任を取らせる」機会を作り、「協力せざるを得ない」状況を設定する事です。換言すれば、指導者との約束の中で、子どもがそれぞれの課題を「自分でやってみる」ということです。その時にこそ指導者が従うべき「型」や「モデル」を提示し、「試行錯誤」の範囲を設定し、「君ならできる」と「応援」のメッセージを送り続けることが肝要です。戦後教育が導入した(させられた)「児童中心主義」教育の修正が不可欠なのは、「指導者の指導」が「中心」となることを禁じてしまったからです。?教師が指導せず、「自主性」という名のもとに子どもの「欲求」を放置すれば、彼らを「自滅」に導くことになるのです。今や日本の子どもが学力どころか、社会生活の基礎・基本を習得していないことは周知の事実です。かつて日本文化に存在した子育ての教訓の核心は「他律のすすめ」です。「可愛い子には旅をさせよ」も、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」も、「他人の飯を食わせよ」も、「若い時の苦労は買ってでもさせよ」も、すべて「他律のすすめ」です。結果的に「他律の中の自律のすすめ」である。と言ってもいいでしょう。幼少年期の自律は他律の中で達成されるということに注目すべきです。それゆえ、上記の格言はすべて「させよ」という他動詞で終っていることに注目すべきです。
??(*1) 諏訪哲二、オレ様化する子どもたち、中公新書、2005、p.146 

(5)子どもの「主体性」を最優先すれば、子どもの「拒否権」も最優先しなければならない
  教育の名において子どもの主体性を最優先すれば、子どもの「拒否権」も最優先しなければなりません。「楽しいこと」や「好きなこと」をやっている間は、「主体性」論が一人歩きをしても、それほどの「害」をもたらすことはありませんが、「子どもが嫌がること」で、「集団や社会が必要とすること」を教えたいと考えた時はどうするのでしょうか?子どもは「主体的」に、「いや」だと言い、「やりたくない」と言います。子どもの言動が単なる「わがまま」であっても、教育関係者が「自主性」を尊重せよと言えば、多くの親も指導者も「叱ること」や「強制」することをためらうでしょう。?  子どもとルールが対立したらルールを取る。それが教育です。しかし、家庭も学校も子どもの主体性に呪縛され、ルールを選べないのです。そこから教育の崩壊が始まるのです。子ども会が崩壊し続けているのは、役員が既に子どものコントロールができないからです。役員になったらわがまま勝手な子どもに振り回され、まじめなお母さんは子どもの世話で胃に穴があくでしょう。誰も子ども会の役員などやりたくないのは当然なのです。?子どもの単純な「好き嫌い」も、教育用語の粉飾と小理屈をつけて「自発性」とか「興味関心」という美辞麗句で置き換えれば認めざるを得なくなるのです。子どものわがままも「主体性」や「自主性」と呼べば、過保護と放任の理屈はつくのです。子どもの主体性を尊重するという事は、子どもの「拒否権」も尊重せざるを得ないということです。全国の「家庭教育学級」を通して、子どもの「興味・関心」が重要だといい、子どもの「主体性」・「自主性」を尊重せよと教育の専門家に言われれば、一般の保護者には何が「わがまま」で何が「勝手」であるかの線引きが難しくなるのは当然です。それゆえ、子どもの「主体性」論が巾を利かせるようになれば、「子どもの目線」が大事で、「社会の視点」は相対的に大事ではなくなったのです。子宝の風土と児童中心主義の結合は文字どおりの「屋上屋」を重ねたことを意味します。重ねてはならないものを重ねれば、子どもの決定権が異常に肥大化します。未熟で、自己中心的な子どもが日常を支配するようになれば、わがままと勝手が増殖します。「好きな事しかやらない」子どもを、「主体的」であると解釈する論法がまかり通るからです。子どもが「やりたくない事をやらないで済む」のは、子どもの「興味・関心」を抑圧するな、と尤もらしく教育論で語る人がいるからです。
  「好きなものしか食べない」のは子どもの「主体性」を重視した結果です。「嫌いなものは拒否する」のも子どもの「自主性」が一人歩きした結果です。食生活が乱れるのはわがままで、勝手な子どもが食いたい放題に食い散らかし、やりたい放題にやった結果です。教育行政が今ごろになって「食育」の必要を説くのは、天に向ってつばするごとき、誠に迂闊なことなのです。

(6) 「型」の指導は反教育的か!!?
  筆者が関わっている「豊津寺子屋」は「型」の指導を重んじています。礼儀にしても言葉にしても「型」の体得を指導法にしています。「型」の教育を語ると、進歩的と称する人々が「詰め込み」と非難し、「強制」と批判し、時には「軍国主義的」とまで攻撃します。要するに「型」の指導は、子どもの「主体性」を無視した反教育的な方法であるということでしょう。その方々は喜々として寺子屋へ通ってくる子ども達を知りません。前の晩から明日の寺子屋の活動準備をして眠る、という保護者の報告を知りません。指導にあたる人々が、決められた指導の枠の中で「自分でやってごらん」と子ども達に沢山の自由を与えていることも知らないでしょう。「出来ないこと」が「出来るようになる」ことの「機能快」を知らず、子どもたちが迎えにきた保護者に自分の技量を喜々として披露している状況を想像できないのでしょう。批判者の想像力が問われているのです。?
  寺子屋が反教育的なプログラムだったとして、わが子の教育への注文に厳しい現代の親が果たして子どもを送って来るでしょうか?人生に熟達した「有志指導者」が納得して指導の原理に従うでしょうか??
  現状の子どものへなへなぶりは明らかに現代教育の結果です。戦後教育の児童中心主義に対する思い込みは非論理的で、結果の検証を忘れているのです。自分達が関わった子どもの現状を棚に上げて、保護者を責め、政治イデオロギーに毒された見方しかできていないのです。日本の教育の不幸は単純な教育原理を忘れたことです。
  『やったことのないことは出来ない』。
  『教わったことのないことはわからない』。
  『反復して練習を積まなければ上手にできるようにはならない』。のです。
そのため少年教育の出発点は「型」の指導から始めるしかないのです!まして未だ発展途上にある「半人前」の子どもの自主性や自発性に基礎・基本の「学び」を委ねることくらい危険なことはないのです。


(7) 「体得」を重視、「型」の指導を導入
  人間が「分かる」ということのなかには、論理的に理解する「学習」と、肉体的・感覚的に実感・会得する「体得」があります。学習も、体得も「学ぶこと」には違いありません。それゆえ、二つの概念の理解に混乱が生じます。「学習」は主として脳を使います。能を使った学習では、主として、「知識」や「考え方」やものごとの「関係」を学びます。
  これに対して「体得」は身体全体;5感を総動員して学びます。学ぶのは主として「生き方」であり、「やり方」です。体得の対象は知識ではありません。実践の意欲ややり方です。?「身体で覚える」ということは、自分の状況を全肉体を動員して確認することです。何よりも言葉による「ごまかし」がききません。「身にしみる」、「腑に落ちる」、「自然に手が動く」、「身につく」、「身体が反応する」、というのが「体得」です。「体得」は「体験」と「練習」を通して学びます。それゆえ、昨今の「体験学習」という言い方は概念が混乱しています。最終的には、当然、「体験体得」と呼ぶべきでしょう。教科教育が学校を支配し、学校がその影響力を増した時、「学ぶこと」は「座学」に偏り、「学習」に偏り、「体得」は忘れられた概念となったのです。?
  しかし、事実は頑固でかつ明瞭です。幼少期の「生きる力」の大部分は「体得」によって獲得されたものです。

(8) 掃除も型、日本語も型
  いささか大袈裟ですが、掃除も手伝いも子どもの「義務履行の型」です。幼少期の日本語は「文型」として模倣の中から体得して行きます。同じく、礼儀作法は共同生活の「行動の型」として父や母をモデルとして反復練習の結果体得します。協力や責任も「共同生活の基本型」です。親切な行為、やさしい言葉は「思いやり」を「表現する型」と呼んでいいでしょう。
  子どもは未熟であり、今だ「半人前」です。それゆえ、「型」の習得は、指導者による他律を主とする反復と練習によって行います。「君だったらできる」と背中を推してやり、「筋がいい」と言って応援し、「将来が楽しみだ」と励まして楽しい時間にすることが指導者の「腕」の見せ所です。もちろん、こうした「型」を体得する基本条件こそ、子どもが反復と練習に耐える「体力」と「耐性」であることは前に述べたとおりです。?
  「豊津寺子屋」は「体力」を重視し、「耐性」を強調し、「型」の教育を再評価し、「知識の理解」より「『型』の体得」を優先したのです。「論より証拠」です。子どもは着実に変わり、集団生活の基本も身に付きました。当然、子どもの変容は保護者を納得させ、その評価は高くなりました。


(9)「後顧の憂い」の原因は育児書です〜「総花的」・「要素並列型」の育児書の弊害〜
  「生きる力」は体力、耐性、学力、社会性、感受性などの総合された力ですが、その組み合わせには明らかに「順序性」があります。家を建てる時の要素や手順に似ています。家の場合、まず基礎が固まっていなければ家はやがて傾くことを免れないでしょう。土台が揺らげば柱も壁も安定しないことは明らかです。柱がしっかりしていなければ屋根は支え切れません。それ故、家は「基礎」→「土台」→「柱」の順序で建てるのです。壁も、屋根も、インテリアも、外装も、個別の家具も、それぞれに大事ですが、家の要素にも、建て方にも明らかな「順序性」があるのです。「順序性」を無視したら安定した家は建たないのです。「生きる力」も同じです。
  育児書や保育指南書の最大の問題は子育や教育の要素が「並列的」であり、「総花的」であることです。誰もが体力が大事だと言い、がまんも大事だといい、叱る事も大事だと言います。しかし、体力が何よりも大事だとは言わないのです。どれがどれより大事であるとも言いません。結果的に育児論が総花的になるのです。高橋系吾の「幼児の心としつけ」は母親向けの読み易い、しつけのヒントがちりばめられた本ですが、「体力」も「絵本」も「叱る事」も「子どものけんか」も、色々な項目が並列的に書かれています(*1)。飛田貞子の「しつけしだいで子どもは伸びる」は、子どもの問題行動を3点に要約しています。いわく「がまんする力が不足している」、「生命を軽く考えている」、「人と接する力が弱く、自分の殻に閉じこもる」(*2)、の3点です。
  もし、飛田の言うように、問題行動の原因が上記の3点であるとすれば、育児はその3点に集中して対応策を処方しなければならない、ということでしょう。しかし、飛田の書は1章から3章まで47項目のしつけの助言を満載しているのです。本吉、武藤の共著による「生きる力の基礎を育む保育の実践」(*3)も同様に並列的です。論じられているのは、子どもの体験であり、挑戦であり、共感であり、持続であり、努力であり、タイミングであり、興味であり、保育者の姿勢であります。このように列挙すれば、読む方の力点は拡散せざるを得ません。保育士も親もこれでは指導の基本が分らないでしょう。同様に他の多くの参考書が「要因・要素並列型」の説明を繰り返しています。
  並列保育論や総花教育論は保護者の注意を散漫にするだけでなく、保育士や教師の指導の焦点化を著しく妨げることになります。一つ一つの指摘は正しくても、順序性や重要度の違いを無視すれば「子育ての家」は傾きます。基礎を固めずに、土台を置くことは出来ず、土台を無視して柱を立てることも出来ない筈です。もちろん、「総花的」・「要素並列型」の育児書は、順序に構わず、どこからでも、全部やりなさいと言っているかのようです。家の場合だったらまともに完成する筈はないでしょう。子育てや幼少年教育の場合も同じです。「総花的」・「要素並列型」の育児書、保育指導書は子どもの「生きる力」を育もうとする時、極めて有害なのです。「生きる力」の基礎は体力、土台は耐性です。残りの要因も大事ですが、上の2者を欠けば学力その他の要因は実現が極めて困難です。それゆえ、上の2者に比べれば、他の要因の重要度は相対的に低いのです。当面、緊急の応急措置として、「子宝の風土」の保育書には「体力の錬成」と「精神の修養」の必要だけを書けばいいのです。当面の実践も、体力の錬成とがまんの修養に力点を置けばいいのです。残りの課題は「子宝の風土」が誇る子どもへの慈しみと奉仕が解決するのです。
  子どもが真っ当に育っていないが故に、子どもの存在そのものが女性にとって「後顧の憂い」となった時、男女共同参画も、少子化の防止も、1歩も進むことは出来ないでしょう。幼稚園も、保育所も、託児施設も、小学校の低・中学年の担任も、改めて戦後日本の子ども観と教育観を見直す必要があるのです。

(*1) 高橋系吾、「幼児の心としつけ」学校図書、2001、PP.30〜52

(*2) 飛田貞子、「しつけしだいで子どもは伸びる」、主婦の友社、平成14年、P.4

(*3) 本吉圓子、武藤 隆 共著、生きる力の基礎を育む保育の実践、萌文書林、2004、目次
 


   

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