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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第99号)

発行日:平成20年3月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 熟達の証明 「仕上がりが速くなる」〜「八木山小学校プロジェクト」顧問総括〜

2. 熟達の証明 「仕上がりが速くなる」〜「八木山小学校プロジェクト」顧問総括〜(続き)

3. 「熟年者たち」

4. 「後顧の憂い」 男女共同参画社会−もう一つの阻害要因

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

◆6◆  教育プログラムに人間生活の視点がない

  このことはすでに何度も書いて来たのでくどくど言うつもりはありませんが、子育て支援や子どもプログラムに「社会化」の思想がないのです。同じように、学校にも人間の生活の基本を教える視点がないのです。換言すれば、プログラムに「社会の視点」が欠落しているのです。学校は教科を教えていればそれでいいのでしょうか?子どもの居場所も、放課後子どもプランも楽で楽しいプログラムでたくさんの子どもを集めればいいのでしょうか?子どもの願いや欲求を聞いてそれに奉仕すれば良いプログラムであるということになるのでしょうか?それが「子育て支援」なのでしょうか?それで「一人前」が育つのでしょうか?
  「早寝、早起き、朝ご飯」のような恥知らずなスローガンが掲げられるのは家庭から学校まで、子どもの欲求に振り回されて、人間の生活の基本を教えるしつけと教育が破綻している証拠です。
  ヒト科の動物であり、欲求のかたまりである子どもを大人と対等な位置においた「子ども観」・「子ども当事者主義」に振り回されているからです。対処策は「しつけの回復と教えることの復権」です。しつけも教育も子どものためが「半分」、社会のため・共同生活のためが「半分」です。それが道徳教育の原点です。共同生活を前提とし、「半人前」を「一人前」に育てる視点をもたない限り、誰がやろうと子どもプログラムが子どもを変えることは出来ないのです。忘れられたのは「他者」の視点、「社会」の視点、「鍛錬」の視点です。これらの視点が具体的に「生きる力」を育てるのです。「他者」の存在を常に念頭に置いた厳しい集団練習を通して、結果的に八木山プロジェクトは子ども達に連帯と協調を教えたのです。

◆7◆  「生きる力」の順序性−「基礎」が先

  幼少期のあらゆる生活指導を通して「体力」と「耐性」の形成に心掛ける必要があります。「生きる力」にとって、「体力」が基礎、「耐性」が土台だからです。体力と耐性こそが「集中と持続」を支えることになるからです。この二つの要因を欠けばあらゆるトレーニングは成立しません。人間生活の秩序が崩壊し、あらゆる集団行動も、共同生活も混乱に陥るでしょう。「生きる力」の教育には「順序性」があるということです。
  八木山は常に心身の基礎トレーニングを発表の原点に据え、それに組み合わせて、学力や、社会性や、感性のプログラムを提示して行くことが大切だと思います。次の課題は学力ですが、上記二つの基本条件はいまだ「道半ば」であると自覚するべきです。今後とも旧来に倍する「鍛錬遠足」、「集団キャンプ」、体育の授業を通した教員全員による体力向上プログラム、長期休暇中の「特別プログラム」の実施が不可欠です。基本条件が整えば、「学力」は一気に向上させることが可能です。

◆8◆  「八木山エアロビックス」と朗唱の「師弟同行」は最大の英断でした

  戦後教育が最も軽んじたのは「実践」です。最も重んじたのが「説明責任」です。結果的に、くちが達者なだけの子どもが育ち、くちの達者な教員だけが偉くなりました。
  「師弟同行」は言葉による「説明責任」と「対極」にあります。「師弟同行」は実践と同義です。われわれは困難に直面して、親切ごかしの言葉よりも一緒にやってくださる同志を信頼します。子どもも一緒にやってくださる先生を信頼し、慕うことは当然です。そこから教育の奇蹟ともいうべき「同一視」が起こります。「同一視」とは学ぶものが、モデルを選び、「自分もあの人のようになりたい」、と思うことです。「あの人のようになりたい」と思った時、子どもの中に「あこがれ」が生まれ、「敬意」が育ち、その人に近づくための向上の自助努力が始まります。これから始まるであろうあらゆる鍛錬のプログラムに「師弟同行」が必要なのはそのためです。現代の家庭から各種の教育力が失われ、子どもが親を尊敬しなくなったのは、口達者の指導だけが蔓延ったためです。辛さに耐えた「親子同行」が復活すれば、家庭の教育力もまた一気に回復します。見学者は恐らく気がつかなかったでしょうが、「八木山エアロビックス」の練習過程と朗唱「父よ、母よ、ふるさとよ」の発表における「師弟同行」は最大の英断であり、収穫でした。子どもは教師に心服したのです。

◆9◆  教育計画は「具体的」で「検証可能」でなければなりません

  従来見て来た学校の研究計画は抽象的で、情緒的で、曖昧です。「研究紀要」などを拝見しても、「何がどう変わるべきか」、「なぜか」、結果として「何がどう変わったのか」が一向に世間に通じていません。八木山プロジェクトにも似たようなところが多々ありました。教育計画は「具体的」で「検証可能」でなければなりません。そのためには教育目標は「単純」で、「明確」でなければなりません。今回のプロジェクトでは、余計な説明は全部捨てて、教師の指導に従って集団行動がとれること、スピードやリズムの同調が出来ること、教材を空で覚えること、作法を体得することなどを目標にすれば十分だったのです。
  学校の研究紀要の大部分は空疎で、意味不明の情緒的表現に満ちていて、通常読むに耐えません。教育界をリードして来た大学教員や指導主事に大いに責任があることは明らかです。彼らもまた口だけが達者で、行動と実践を伴わない戦後教育の産物だからです。教育は子どもの変容こそが「勝負」であり、計画の美辞麗句が問題なのではありません。「生きる力」を身に付けた「一人前」が育っていない限りあらゆる教育論は敗北です。
  学校もそろそろ自分の足で立ち、自分の頭で考える教育に立ち戻らなければなりません。八木山の報告書はせめて企業の「商品説明」と同じように、「BeforeとAfter」を明示し、改善点・向上点を明記し、保護者と世間に納得していただける「近未来の子ども像」を提示して、外部の関係者に読んでいただける中身と表現にしたいものです。

◆10◆  八木山小学校を消しますか?

  現在の先生方の代で八木山小学校を地域から消しますか?少子化の実態が分かっていたとしても、発表会に詰めかけた人々は泣くでしょう。先生方は転勤で変わります。それを当然のこととしていらっしゃるでしょうが、地域の人は土地に根を下ろしているので、八木山から出て行くことは原則として出来ません。人々を悲しませないためには、学校にも「営業」が必要な時代が来たのです。過疎を食い止める唯一の方法は、政治的に、都会の学校を割って、田舎の学校に長期間寄宿留学させ、過疎地の交流人口を保持することです。しかし、日本の政治も。文部科学省も過疎問題の重要性をいまだ理解していません。
 われわれに出来ることは「営業」と「モデルの提示」です。したがって、八木山小学校が延命するためには「すぐれた学校」になることが不可欠です。「すぐれた学校」には必ず近隣から交流人口が流入し続けるということです。皆さんの代で八木山小学校を地域から消しますか?八木山プロジェクトはそういうことも問われているのです。
(*最終会議で校長先生から報告がありました。八木山の祖父母の方々が学校の努力に感激して、孫たちを呼び返して八木山小学校に入れようという集まりを持つということでした。プロジェクト成功の証の一つと言っていいのでしょう。)
 


 

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