熟達の証明 「仕上がりが速くなる」〜「八木山小学校プロジェクト」顧問総括〜
八木山小学校のプロジェクトは夏休み前に指導の合意をし、9月の2学期から実際の活動を開始しました。11月の発表会、3月の発表会を経て最初の構想の7割は実現したと思います。筆者が主張して来たとおり成功の理由は教師集団が子どもの可能性を理解し、教育の本質を「なる」から「する」に転換したことであったと思います。
実現したのは第1に子どもの「意欲」と「気合い」第2に集団の「連帯」、第3に「体力」、第4に表現力と舞台度胸、第5はマナー、第6は知識の向上であったと思います。しかし、これらは見える成果であって、見えない成果の第1は子どもの教師集団への信頼と指導への心服であったと思います。彼らは先生方のご指導で彼らの日々の「生きること」に熟達したのです。
教育界はややもすると彼らの体験を受動的な「させられ体験」などと寝ぼけたことを言うことでしょう。しかし、与えられた教育機会をフルに生かした子ども達は、他律の指導の結果として自らの「自立」と「自主」とあらゆる行為の連携とスピードを学んだのです。
◆1◆ 教師集団は「教える集団」に変わりつつあります
総括会議における校長さんの分析は救いでした。校長さんは子どもの「仕上がりが速くなった」とおっしゃったのです。この言葉こそが「熟達の証明」です。数年前の壱岐市立霞翠小の指導実践以来、筆者が探していたキーワードでした。熟達するということはなにごとによらず、次の課題の「仕上がりが速くなる」ということです。子どもの言動・演技に限らず、コックさんの料理も、大工さんの腕も、筆者の原稿に至るまで熟達すれば「仕上りが速くなる」のです。修練の原理は同じなのです。
子どもの場合、体力と耐性の基本が整い、先生と児童の師弟関係が出来ると、なにごとの指導でも「仕上がりが速くなる」のです。八木山プロジェクトが来年度も継続されることになれば、外部の皆さんは子どもの成長を手品のように想われることでしょう。幼少年は基本的に分かるように「なる」のでも、できるように「なる」のでもありません。分かるように「し」、出来るように「する」のです。教師が教育を理解し、子どもが教師を信頼し、自らの熟練度が増して行くとき、あらゆる指導の「仕上がり」が速くなるのです。
今回,意図的に、当該児童の理解や身体運動能力を超えたプログラムを導入したのには、2つの理由があります。一つは、「学習支援」などという、子ども自身に発達の責任を転化しかねない昨今の教育界の曖昧にして、いい加減な教育概念を糾すためです。そして、教師集団こそは、出来ないことを「出来るようにする主体」であることを自他ともに認識・自覚する必要があったからです。
二つ目は、子どもの能力を過小評価しないでということを訴えるためです。顧問として筆者が提示した「無理難題」にも関わらず、校長先生以下先生方はよくおやりになりました。心から感謝・お礼申し上げます。八木山プロジェクトは、子どもの可能性も、教師の可能性も合わせて同時に証明したのです。
◆2◆ 「教育的時差」に対する寛容度が向上しました
朗唱はいまや川島隆太教授(東北大学)の大脳生理学の研究を経てその効用が科学的に認められました。「詰め込み」だの、「個性を忘却した反動教育」であるという批判も影を潜めるようになりました。子どもは「分からないものでも覚えてしまうのです」。幼少期の記憶は、「何十年も経って、ふたたび甦ってくるのです」。それが「教育的時差」です。「今は分からなくても覚えていれば分かる時が来ます。」あとで「覚えておけば良かった」と思う時では遅いのです。
今回の朗唱プログラムには奈良時代の万葉集から昭和万葉集までの秀歌を集め、「父よ、母よ、ふるさとよ」の資料集を編纂しました。その多くはおそらく現段階の子どもの理解を超えていることでしょう。まして、1・2年生に歯が立つ筈はありません。しかし、これらの歌を暗唱してしまった子ども達の未来の幸福を疑いません。「父よ、母よ、ふるさとよ」は時空を超えて子ども達の未来に甦ります。それが「教育的時差」です。「辛さに耐えて丈夫に育てよ」という古人の教えは、幼少期の各種鍛錬は「教育的時差」を伴って甦ることを前提にしているのです。3学期の発表会は地元の方を含めて体育館が満杯になりました。5段階評価のアンケートで「朗唱」は全て「5」が並びました。お客様は満点を付けられたのです。
◆3◆ 学校はまだ「地域の核」に成り得、「社会規範のリード役」に成り得ます
運動会にも、2回の発表会にも、たくさんの地域の方々のご参集をいただきました。子宝の風土における学校の「引力」です。学校は子どもという「宝」を預かっている分、その動向が地域の世論を動かします。家庭の養育姿勢にも決定的な影響を及ぼします。
ところが、戦後日本の学校は外部の干渉を排すると称して、己の殻に閉じこもり、地域と縁を切り、家庭を突き放し、しかも自らを「教育労働者」と規定して、「守役」の責任を放棄しました。今や「早寝、早起き、朝ご飯」がスローガンとならざるを得ない教育の崩壊を招きました。まだ誰もいう人はいませんが、「崩壊」は家庭の責任ではなく、「学校」の責任です。学校という「守役」が家庭を教育することに失敗し、世論を形成することに失敗したのです。もちろん、最も無知で、無力だったのは、学校の指導に当たる筈の教育行政であったことは言うまでもありません。
◆4◆ 「親子の約束」運動は実現します
「親子の約束」運動は学校の取り組み次第で実現します。子どもの変容を見ていただく発表会のたびに、感動し、賛同し、感謝する保護者が増えて行きます。学校関係者が身を以て体現する子どもの姿こそが百万言に優る保護者への説得力になるからです。たくさんの人々が発表会に足を運んでくださる段階に至れば、家庭教育との連携はあと「半歩」です。だからこそ発表会は人々の参加を最大限に保障できる「休日」にやらなければならないのです。
八木山の「親子の約束」運動はまだ緒に就いたばかりですが、「どんな子どもに育てたいか」という養育の理念も、その方法論も、まずは学校が鮮明に旗を掲げ、教育の指針を出すべきです。要は、世間が納得する「一人前」を育て上げなければならないのです。そうすれば必ず家庭も、地域も学校に付いて来ます。学校は社会が認定した「守役」であり、子宝の風土の未来を決定する「ご養育係」なのです。今回の集団行動のトレーニングが持続すれば、子どもは共同生活の規範を体得し、自ら行動し、自ら判断するようになって行きます。仲間のきずなも深まり、陰湿ないじめなどは確実になくなります。彼らは「辛さに耐えて」、成果を共有し、人生の「戦友」に育って行くからです。
結果的に、家庭教育は格段に手がかからなくなり、学校は「生徒指導」等の脇道に時間とエネルギーをとられなくなるでしょう。文字通り、幼少期のプログラムは、「教えること」と「鍛えること」を通して、子どもの「発達支援」を体現し、子どもの成長が「自転」を始め、自ら学び始める思春期を迎える準備が着々と進んで行くのです。
◆5◆ 「子ども観」の転換−「他律」によって「自主性と主体性」を育てるのです
今回の発表会も、子どもたちはいまだ道半ばですが、彼らのひたむきさと一生懸命は多くの人々の心を打ちました。彼らの可能性に付いても新しい見方が生まれたことと期待しています。教師主導の他律を掲げ、「教えること」を強調した「八木山プロジェクト」は最初から最後までいわゆる「させられ体験」であったことでしょう。しかし、子どもは信頼する先生方と一緒に学んだ時、「させられた」とは思っていないのです。「させられ体験」を通してどれほど自律の態度と習慣を身につけたか、先生方であればお分かりでしょう。「他律によって自律を育てる」という表現は日本語として一見矛盾を感じるかもしれませんが、幼少年期の教育の事実なのです。鍵は「師弟同行」です。
この国は、戦後教育の中で、児童観についても、教師観についても、子どもの教育の方法論についても根本から間違いました。八木山プロジェクトはその間違いを修正し、子どもの可能性の一端を実践・証明してくれました。
幼少年期の子どもは、「君だったら出来る」と励まされれば、必ず先生方の求めに応えます。子どもに一定の秩序と服従を要求して、「教えること」・「鍛えること」は、子どもの主体性の侵害でも、自主性の否定でもありません。そもそも幼少期の子どもにあるのは方向の定まらない「欲求」であって、一般的にいう主体性でも自主性でもありません。幼少期の子どもは主として「快楽原則」に則って動きます。それゆえ、方向の定まらない欲求に方向を与え、アクセルとブレーキを装備することこそが教育の原点であり、主体性や自主性を育てて行くことに繋がるのです。
幼少期の子どもの潜在的能力や発達の可能性に付いても戦後教育は大きく間違っています。幼少年期の子ども達は戦後教育が求めて来た何倍もの潜在能力を秘めています。それを制約して来た代表が学校です。「出来なかったこと」が「出来るようになる」時の子どもの「機能快」=喜びを理解しようとしなかったのは教員です。発表を終った子どもたちが晴れ晴れとした顔をし、「どうだ!」と胸を張った時、「快感ホルモン:エンドルフィン」が体内を駆け巡っているのです。今こそ「子ども観」を転換し、「他律」によって「自主性と主体性」を育てるのです。子ども達を褒めてあげてください。彼らもまた懸命にがんばりました。しかし、子どもの出来なかったことを出来るようにしたのは先生方です。出来ないことを出来るようにするのは先生方のお役目です。
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