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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第84号)

発行日:平成18年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 『放課後子どもプラン』の卓越性

2. 男女共同参画オンチ!!

3. 進化する「宅配便」、挫折したか!

4. 向老期の生涯学習処方 −『読み、書き、体操、ボランティア』−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

向老期の生涯学習処方 −『読み、書き、体操、ボランティア』−

1  「安楽余生」論の「落し穴」

  The Active Seniorに対する生涯学習の「対処法」を最も簡潔に表現すれば『読み、書き、体操、ボランティア』になります。換言すれば、読み書きに代表される頭を使い続け、身体の手入れと鍛練を怠らず、社会に対する貢献と人々との交流を通して、気を使い続けることが重要だということです。労働の季節においては特に意識しなくても、心身の機能はフルに回転し、活用し続けて来ました。もちろん、労働は「社会の必要に応えた活動」であったことは言うまでもありません。多くの人の活動量は「定年」を境に一気に落ち込みます。賃金や給与に伴う社会的義務が消滅するからです。他律による強制がなくなれば、その後の活動量は個人の判断;自らの「自律」の結果に左右されるようになるでしょう。その時、「自律」の方向に最も重大な影響を与えるものこそ本人の生涯学習・スポーツの蓄積の歴史になるでしょう。人生の連続性を考えれば、壮年期は通常若年期の蓄積の結果を反映し、熟年期は同じく壮年期の蓄積を反映するはずです。定年前に定年準備教育を始めることの重要性がここにあります。
  それゆえ、引退後の最大の問題は、「安楽余生」論の副作用です。これまでの生涯学習や福祉政策は定年者に総じて「楽」を勧めました。熟年に対する助言の多くが「無理をするな」であり、「目標にこだわるな」であり「できる範囲で」いいんだということでした。暮らし方についても、「いい加減」でいいんだと言い、「目先のこと」にこだわるなと言い、「過去にもこだわるな」といいます。要は、楽しく、のんびり暮らせと言うことです。「安楽余生」論と名づけた所以です。
  しかし、「安楽」の勧めは「がんばらなくてもいいんだ」ということであり、「努力をしなくてもいいんだ」ということに繋がります。それゆえ、定年後に「楽」を続ければ、活動量が減少し、心身の「負荷」が減少するのは当然です。
  結果的に、心身の機能の活用は労働時代の3分の1にも4分の1にも減ってしまうことでしょう。「楽をして暮らすこと」は熟年期の最大の「落し穴」なのです。必要とされない機能は退化し、やがて消滅するでしょう。使わなければ衰えるのは筋肉に限ったことではありません。感覚体としての人間のあらゆる機能に共通しています。しかも、心身の機能は連続しています。頭も身体も心も感覚体の仕組みの中で相互に影響しあっているのです。熟年期の健康を維持するのに「健康体操」だけをやっていても部分的な効果しか上がらないのはそのためです。人間の心身のあらゆる機能が全部繋がっていると考えなければなりません。

2  人間の機能は繋がっています−心身の「連続性」を見落とすことは危険です−

  体力テストに象徴されるように多くの身体トレーニング論には心身の「連続性」についての考慮が欠如しています。それゆえ、体力向上や健康体操の参考書を読んでも総合的な健康能力については分らない場合が多いのです。社会科学の分野で「総合政策学部」が必要になったと同じ理由で、健康やスポーツの分野にも「総合健康学部」が必要なのは当然です。にもかかわらず、日本の現状は、専門が細分化し、研究者の多くが狭い領域の分業研究のトレーニングしか受けていません。それゆえ、人間の全体を考慮したいわゆる鳥瞰図的な「ホリスティック・アプローチ」ができていないのです。体力衰弱の問題はほとんどすべて、精神から切り離して論じられています。介護予防や健康プログラムの大部分も、本人の頭のトレーニングや社会との関わりはほとんど全く考慮されていません。しかし、人間の健やかな生活は、心身の連続性の原則に立ち、身体も、頭も、気も同時に活動させない限り、維持することは難しいのです。特に、引退後に社会から隔絶してしまうことが大問題です。社会生活こそが人間の心身の機能を総動員した生き方だからです。引退すれば、社会に期待され・要求された「勉強」や「労働」が消滅します。それゆえ、定年後は、特に意識して、『読み、書き、体操、ボランティア』のバランスを自らに課すことが重要です。どの一つが衰えても、心身の総合的な健康を維持することはできないのです。
  「心身症」を考えてみてください。「心身症」は心身が連続体であることを象徴しています。心身症を定義して「心で起こる身体の病気」(*1)というのは実に明解に両者の心身の連続性を指摘しています。このことは当然、「身体で治す心の病気」というものもあるはずである事を想定させるでしょう。また、「生きる気力物質」といわれるセロトニンという神経物質の自己生産ができなくなった人の中に衝動的な自殺者が多いということも報告されています(*2)。これも肉体と精神の連続を示唆しています。
  運動中の快感やある種の陶酔状態を「ランナーズ・ハイ」ということはスポーツの世界で広く知られていることです。これも脳内で分泌されるエンドルフィンというホルモンの作用であることが知られています。心と身体はエンドルフィンで繋がっているという意味です。また、「こころのもち方」が副腎皮質ホルモンに関係していることが証明されており、「免疫機構」に影響を与えるということも分っているのです(*3)。免疫機構と言うのは「防衛体力」という概念に含まれている考え方です。
  さらに、心身の連続が確認できるのは、スポーツに限ったことではありません。人間の「やる気」という精神作用は、脳の快感神経といわれるA10神経から脳内麻薬と呼ばれるドーパミンが分泌されるからだと言われています(*4)。要するに心身を連続させている物質や、その物質の働きを高める心身のあり方というものがだんだんに明らかになってきているのです。
  このように見てくれば、体力概念を頭や心から切り離して考察することは、「木を見て森を見ない」の例えのごとくなる危険性があります。逆もまた同じでしょう。精神や心の問題を身体のトレーニングや体調から切り離して考察することもまた危険なのです。
  心身が相互に影響し合うという前提に立てば、こころや精神の概念を体力や肉体の鍛錬から切り離して考えることもできないのです。健康が身体と頭と心のバランスの上に成り立つとすれば、「健康体操」だけで健やかな老後を実現することはできないのです。知的な活動や社会とのかかわりをぬきに「介護予防」のプログラムも成り立つ筈はないでしょう。身体だけの健康プログラムも、心だけの健康プログラムも、バランスの取れた総合的な健康プログラムにはならないのです。とにかく心身の連続性に配慮せずに現代の健康問題を考えることはあまりに片寄っており、時に極めて危険なのです。
  精神的ストレスが引き起こすといわれている疾患を列挙しただけでも、消化器官性潰瘍、虚血性心疾患、心因性心疾患などがあります。そして、精神的ストレスの多くが運動やスポーツによってかなりの程度解消されることもまた事実なのです。健康の問題を現在の研究分業の領域別の「窓」からのみ考察することの危険は計り知れないのです。その意味で、あらゆる領域を総合的に学ぼうとする生涯学習・スポーツの発想は、心身のバランスの取れた健康能力の向上に最適の処方をもたらすことができるのです。

(*1)小田晋、imidas'99, 集英社、P.761
(*2)鈴木弘文、「病いは気から」の健康学、かんき出版、1994年、P.97
(*3)同上、P. 48
(*4)同上、P. 111

3  使わなければ衰えます−「安楽」の害

  人間の生理学上の特徴は「感覚体の総合」にあるといいます。感覚体の最大特徴は刺激に忠実に反応するということです。筋肉に「負荷」をかければ、筋肉や関節が鍛えられます。しかし、「負荷」をかけ過ぎれば、筋肉や関節に故障が起り、かといって「負荷」を全くかけなければ筋肉も関節もあっという間に衰えて、最後は機能が消滅してしまいます。「負荷」は何よりも「ほどほど」が大切なのです。使わなければ「消滅する」ということも、使い過ぎれば「壊れる」ということも「感覚体」の法則です。頭も、運動機能も、五感も、精神ですらも同じ法則の下にあります。感覚体の不思議というほかはありません。
  熟年期の生涯学習と生涯スポーツこそ感覚体の法則が最も顕著にあらわれる領域です。トレーニングにおける筋肉の鍛錬も反応速度の維持も、正確さの獲得もすべて「感覚体」と刺激の組み合わせの成果です。心の修養も精神の活力も原理は基本的に同じです。
  筋肉や持久力と異なり、内臓の機能や気力、精神力の場合は、自覚症状がはっきりしない場合もあり、客観的な診断が困難です。しかし、「肉体も精神も使わなければ衰える」という原理は変わりません。特に、労働から引退した熟年期に活動量を一気に落とすことは心身の健康に取って最大の害をもたらすことは明らかです。「使わない機能」は「刺戟を加えないこと」であり、「刺戟が加わらないということ」は「必要でない」ということに繋がり、やがて機能が衰退・消滅するからです。
  頭も、心も、内臓も、適切な鍛錬によってそれぞれの機能を最大限維持することが可能なのはいうまでもありません。このことは定年後に活動を止めてしまった人々を観察すれば一目瞭然でしょう。頭は衰え、身体はがたがたになり、社会とのかかわりがない孤独と孤立と生き甲斐の喪失は、熟年の気力の低下に直結しているのです。なぜなら、活動とは「心身の機能を働かせる事」の別名だからです。
  もちろん、限度を越えた刺激の負荷は「感覚体」を損傷してしまいます。飲み過ぎも、働き過ぎも、睡眠が足りないのも、心配事で心を悩ますことも、運動のし過ぎも、「過剰」はすべて有害です。しかし、逆に、「使わないこと」もまた有害です。「感覚体」に加える刺激の負荷が少なすぎれば感覚体を維持することも、鍛えることもできないからです。それゆえ、衰えを防ぐためには、感覚体が反応して徐々にその能力を向上させるほどほどの刺激がもっとも重要になります。"ほどほど"の刺激は「適量の負荷」と呼ばれています。「ほどほどのがんばり」と同じ意味です。スポーツの世界では、「荷物を背負う」という意味で、「オーバーロード法」(現状に負荷を加える方法)と呼ばれています。「オーバーロード法」は適量の刺激を負荷として加えながら、少しずつ「肉体の機能」を鍛えていくことをいいます。頭についても、気力についても、「負荷」をかけることが有効であることは同じです。心身が連続体である以上、頭も心も精神もほどほどの「負荷」に反応して向上しようとするという原理で貫かれている事はまちがいないのです。したがって、「なにもしないこと」は極めて有害です。頑張っていてさえ、熟年期は生物的な衰えが顕著になる時期です。その時期に社会から隔絶し、活動から離れて、「安楽」な余生を送ることは、人間の機能と活力を一気に低下させる原因となるのです。

4  高齢社会の覚悟ー心身の「オーバーロード法」

  現代の科学を持ってしても、残念ながら老いによる衰えはとめられません。死亡率も100パーセントです。それゆえ、生涯学習と生涯スポーツの課題は心身の衰えをできるだけゆるやかに、穏やかに終焉まで移行させることです。老いのソフトランディングと言っても良いでしょう。それは心身の故障を避けながら活動を続け、社会的に機能し続けるということを意味します。それゆえ、心身に対する「負荷」の概念は、高齢社会にとっては特に重要な発想になりました。生涯スポーツと生涯学習は「負荷」をかけ続ける重要な方法論の一つです。定年の約束によって、再び労働に戻れない以上、生涯学習・スポーツは高齢社会の「必需品」となったのです。
  頭を使う事も、身体を使うことも感覚体としての人間に適切な「負荷」をかける工夫にほかなりません。老いによる衰えをソフトランディングさせるためには、実行可能で、継続可能な適切な負荷をかけ続けることが大切です。「適切」とは、程々に辛く、程々に鍛錬となる程度としか言い様がありませんが、筆者の日常では、現有能力の5〜10パーセントのがんばりを続けるということです。もちろん、運動生理学のいう「オーバーロード法」の原理は「読み、書き、ボランティア」のような頭のトレーニングから心や精神の修養、社会参加の実践にまで当てはめることができます。
  運動処方が配慮するのは身体への負荷が「適量」の限界を越えないようにすることです。「生涯学習処方」というものがあれば、それは「読み、書き、ボランティア」の「適量」を調整するための発想です。前段で論じたストレス対処法にとっても適量の負荷の意味は重要です。ストレスや緊張感がすべて有害である筈はないのです。昔から言われてきた「養生」の概念は決して「楽」をすることと同義ではないはずです。「養生」の極意は、心身のバランスを取りながら適量の「オーバーロード法」を実行して行くことを意味しているのです。それぞれの「養生実践」が着実に継続できない時、老いは確実に故障や老衰の悲劇に近付くのです。社会も個人もいまだその自覚が明確ではありません。「老人憩いの家」はそこを間違っていなかったでしょうか?老人学級や高齢者大学もこの点を間違っていなかったでしょうか?
  日本社会は高齢化に対処する方法を「安楽」論と誤解し、個人は「養生」を勘違いして、「安逸」を追い求めて、壮年期までの努力を忘れ、老いを迎え撃つ覚悟と方法に戸惑っているのです。

5  活動方法の多様化が不可欠です−自分のぺースとリズムを大事にしよう−

  心身の生物学的老化の実態が判明しつつあるにも関わらず、体力テストも競技スポーツの大部分も、身体能力の時間の速さを競い、特定時間内の作業量や運動能力を競っています。それゆえ、体力評価の大部分は"一分間に何回やれるか"、"三分間にどこまで行けるか"というように常に「時間内作業量」を測定の基準にしてきました。壮年体力テストの測定基準はあまりにも短絡的で熟年期の特性が分かってはいないのです。
  壮年体力テストの測定基準を基準として、労動条件の設定にも単一の「時間内作業量」の論理が適用されてきました。8時間労働の単一的基準も、時間当たりの単一的賃金基準も、熟年の体力や活動能力の評価も単純かつ短絡的な「時間内作業量」の発想の結果です。
  しかし、高齢期の体力研究の結果が示すように、高齢者にとってハイ・パワーやミドル・パワーの運動は無理であるとしても、ロー・パワーの運動については、休息や作業ペースの条件が考慮されれば、十分可能であることが証明されているのです。熟年の労働−活動条件を考える時に、中高齢者の作業能力の測定に「時間内作業量」という単一の基準を適応することは、そもそも最初から無理なのです。同じ作業量を実行する能力についても、一定時間で達成する場合と休憩を入れて、半分ずつ2回に分けて行なう場合では、労働−活動条件が異なるのは当然のことです。壮年体力テストに象徴される「時間内作業量」という基準による作業能力測定の方法はあまりにも短絡的であり、その悪影響が社会のあらゆるところに及んでいると思わざるを得ません。ローパワーによる高齢者の活動は「時間内作業量」のみを基準とする測定方法の矛盾を明らかにしたのです。熟年期の活動には、休息が必要で、機能の衰えを考慮した作業ペースとリズムが不可欠なのです。個人の心身機能に適合した活動方法の多様化と転換こそが高齢社会の急務なのです。
  体育やスポーツに関わる人びと、引いては中高年者の労働に関わる人びとの発想の転換と柔軟な思考がもっとも肝要な時代に突入しているのです。

6  多様な「登山道」を考えよう

  「老い」は生物学的に「衰弱への降下」と同じ意味です。人は誰でも老いによって心身の活力を失うということです。又、今のところ、死は人間の宿命です。人間はどんな努力をしても避けようもなく衰え、やがて死にます。しかも、熟年期の衰え方は各人バラバラです。それゆえ、熟年の体力や作業達成能力を「時間内作業量」のみを基準として測定することは全く理にかなっていないのです。
  それゆえ、老いが加速する熟年期に単一の8時間労働の論理を適用することは無茶というものでしょう。もちろん時間当たりの賃金基準も若い人に対してフェアでない場合も出て来るでしょう。競技スポーツの論理や壮年体力テストが仕切ってきた「時間内作業量」の論理は、「人生50年時代」の論理というべきでしょう。人生80年時代の熟年は、「エネルギーの総量」、「回復のスピード」、「暮らしのペース」、「作業のリズム」、「生きることについての考え方」等々全てが「人生50年時代」とは違うのです。作業にも、運動にも、考え方にも、「人生80年時代」の論理を導入しなければならないのはそのためです。
  多くの活動において、高齢者も、当然、若い人びとと同じ作業量をこなすことはできます。しかし、達成の時間やリズムやペースは大いに異なるのです。同じ山に登るにも多様な登山道と多様な登山方法が認められてしかるべきでしょう。現在の「一定時間内作業量」を基準とする体力テストの論理を適用した労働時間や賃金の仕組みは、山登りにおいて、単一の登山道や単一の登山方法しか認めないことと同じなのです。
  老いが未だ遠い先の課題である働き盛りの研究者や行政職員は、熟年が当面する衰えの基本的課題と危機が実感として分っていないのです。それゆえ、いまだ老いを知らない「現役」だけが老いの問題を研究したり、政策を立てることは必ずどこかに配慮が欠けてくることになるのです。介護の問題についても同じです。人間は基本的にやった事のない事は分からず、その人に成り代って理解することは不可能です。「誰も代わりには生きられない」のです。孫のような若い福祉職員にあやされて、つまらない遊戯をさせられたり、子どものように扱われている高齢者の姿は見るだにやりきれない光景です。現役世代に老いた者の屈辱の悲哀が分るでしょうか?
 

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