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生涯学習通信

「風の便り」(第84号)

発行日:平成18年12月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 『放課後子どもプラン』の卓越性

2. 男女共同参画オンチ!!

3. 進化する「宅配便」、挫折したか!

4. 向老期の生涯学習処方 −『読み、書き、体操、ボランティア』−

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

『放課後子どもプラン』の卓越性
 ■1■ 『放課後子どもプラン』の卓越性

  放課後子どもプラン』の卓越性は、第1に子育て支援を「女性支援」と組み合わせた点である。第2は、子育て支援を「お守(保育)」に限定せず、プログラムを伴う「発達支援(教育)」と組み合わせた点である。第3は、行政の縦割りを越えて「福祉」と「教育」をドッキングして複合化しようとした点である。第4は、公立小学校を拠点とし、学校のコミュニティ・スクール化を目指した点である。第5は、「発達支援」のプログラムの指導を2007年以降定年を迎える団塊の世代など熟年の方々を想定し、結果的に、向老期の活力の保持を発想しているところである。

 ■2■ 2007年を子育て支援の「後退」年にしてはならない

  50年後には日本の人口が著しく減少することをメディアが報じたが、『放課後子どもプラン』はその対策案ではなかったのか!!?
  記者発表で示された『放課後子どもプラン』は子育て支援を複合的に捉えている点でこれまでの国のどの施策よりも断然優れていた。「学童保育」と「子ども教室」推進事業をドッキングすることによって、両事業の弱点を克服できる卓越した発想であった。それが現状はどうであろう!?大臣同士の合意によって示された(と聞き及んでいた)方向性は全く論じられていない。保育と教育の統合の発想は、行政の縦割り分業におりて来た途端、縄張り争いの中でほぼ雲散霧消した。行政の不作為はここに極まっている。筆者の聞いた範囲では、どこの県も教育行政と福祉行政が同意に達せず、プラン通りの「少子化対策−子育て支援」は宙に浮いている。
  福岡県に至っては、『放課後子どもプラン』の真の目的を論ずるどころか、従来の子どもの「遊び場広場」(アンビシャス)運動を延長した方式で行くという(京築教育事務所)。アンビシャス・プログラムは地域の熟年を起用する点を除いては、上記『放課後子どもプラン』の卓越した特性をすべて欠落している。県庁にも真面目で賢い人々はたくさんいるであろう。なぜ、政治家に「遊び場広場」運動が上記の『放課後子どもプラン』に遠く及ばず、公金投資の甚だしい「非効率」を生むことを説得できないのであろうか?あるいは、すでに権力の座に長い政治家の方が既存の事業に囚われて聞く耳を持たず、己の無知が見えない「裸の王様」の状態に陥っているのか!?
  聞き及んだ象徴的現象の一つは、アンビシャス・プログラムに精勤した子どもに与えられる「メダル」は必ずしも子どもには届いてはいないということであった。学校現場は、上部機関の要請に応じて、子どもの参加者数を水増しして報告しても、さすがに「活動していない子ども」を「活動したことにして」メダルを渡すことはしていない。どこまでが「やらせ」で、どこからが学校の「良心」であろうか!?
  少子化防止策の核心は、「子育て支援」と「女性支援」・「発達支援」を同時に実行することである。政策としての「少子化」防止の重要性を説き得ず、『放課後子どもプラン』の意義を伝え得ない愚かさには驚きを通り越して絶望を禁じ得ない。いじめだ、やらせだと外野席から大口を叩いて来たメディアの不勉強も哀しいものである。このまま行けば、旧豊津や旧穂波の実践は停滞するであろう。「発達支援」には「プログラム」と「指導者」が不可欠であり、「女性支援」には、女性の就労スケジュールに合わせた子どもの活動スケジュールを計画しなければ「支援」したことにはならない。今にして思えば、現場に出て、子どもの実態を見、保護者の感想を読み、担当者の解説を聞いて、複合問題の何たるかを理解した旧豊津の町長さんは立派だった。
  子どもは安全に、事業は効率的に実行しなければならない。従来の保育と教育を統合し、指導者を付けて、全国の公立小学校を子育て支援の拠点として開放せよ、という『放課後子どもプラン』の構想は安全の視点、発達支援の視点、財政軽減の視点という総てにおいて革命的な提案だったのである。2007年を子育て支援の「後退」年にしてはならない。放置すれば、官民協働の「モデルハウス」と成り得た「豊津寺子屋」も、「穂波子ども学び塾」も滅ぶだろう。

 ■3■ 子育て支援は女性支援である

  子育て支援をめぐる問題は複合的であり、その停滞の原因も多種多様である。しかし、最大の原因は、現行の行政制度の「縦割り」の壁であり、保育と教育をバラバラに行っていることである。学童期における保育と教育の分離は、結果的に、子育て支援のシステムもプログラムも、人、もの、金、時間等社会的資源の無駄と徒労を生み出し、地域の複合的課題に応えるシステムを作り得ていない。
  地域社会が当面する課題は、少子化であり、高齢化であり、男女共同参画の条件整備の不十分であり、少年問題の多発であり、財政難であり、最終的には、これらの問題に対処する分業化された現行システムの制度疲労である。これらの諸問題は、同時多発的に発生し、それぞれに絡み合って、地域課題を複合化している。
  それゆえ、子育て支援の最適のシステムを構築するためには、保育と教育を結合することに留まらない。財政難を考慮し、高齢化も視野に入れ、社会に参画する女性の条件整備を果たし、学校のあり方を含め、従来の分業を見直し、行政の硬直的な縦割りを正さなければならない。
  国は初めて複合課題に対する総合的な施策を発想した。『放課後子どもプラン』は待ちに待った対策プランである。なかんずく、その「卓越性」は「学童保育」の保育機能と「子ども教室」の教育機能をドッキングしようとする発想にある。保育機能の提供は女性の社会参画支援を想定している。教育機能の準備は子どもの発達支援を想定している。それゆえ、あらゆる子育て支援策は子どもの事だけを考えてはならない。女性支援を同時に考える事が不可欠である。福岡県のアンビシャス運動はまずこの点で落第である。

 ■4■ 「子育て支援」は「発達支援」である

  戦後の60余年を振り返れば、近年の日本社会は子育てにも、学校教育にも成功していない。子どもを巡る問題の多発がなによりの証拠であろう。結果的に、単に「お守」をしていればいいという時代は終ったのである。「広場」をつくっても「居場所」をつくっても、子ども集団は成立せず、現代の子どもは自らのグループを作って遊ぶこともできない。それゆえ、単に遊びを奨励すればよいという発想はすでに過去の「神話」なのである。だったら、どんなプログラムを提供して、誰が指導するのか?
  真に、家庭の子育てを支援する為には、「保育」と「教育」の両方が不可欠であり、対応策は子育て支援施策における保育と教育との結合した「保教育」プログラムの実践である。『放課後子どもプラン」の卓越性は、行政の仕組みの上でも、プログラムの中身と方法の上でも、「保育」と「教育」を総合化しようとしていることである。「豊津寺子屋」も「穂波子ども学び塾」も「保育」と「教育」を同時に遂行する「保教育」を先行させたのは、「子育て支援」は「発達支援」だからである。アンビシャス広場には発達支援を想定したプログラムは稀薄である。したがって、支援プログラムを実行する計画的に配置された指導者も少ない。目指すべき「子ども像」も不明である。そのような事業は、「発達支援」の観点で「失格」である。
  家族、中でも女性が安心して子どもを育て、安心して社会に参画でき、安心して次の子どもを生めるようにすることが政策の目的ではないのか!?親の「安心」の条件は、子どもの「安全」と健全な「発達」である。あるべきプログラムはこの2点に収斂して作成されなければならない。

 ■5■ 指導者を「ただ」でお願いしてはならない

  教育を行うのに、人の善意だけに依存してはならない。「善意」だけでは決して長続きしない。人々の「負担感」も増大してしまう。まして事業の中身は子どもを預かる「子育て支援」である。ボランティアへの「費用弁償」は不可欠であり、指導者の「存在必要」の証明も不可欠である。
  日本社会の大きな失敗はボランティアを「ただ」でお願いしたことである。人間が働けばお腹は空く。移動すれば交通費もかかるだろう。それらを総て「手弁当」で賄った上、他者のための活動を続けてくれというのでは、頼む方に無理がある。「ボランティアただ論」の理論的根拠は、欧米社会が掲げたボランティアの「無償性」であるが、日本社会は「無償」の概念に対する理解が浅薄である。
  「無償性」とは「労働の対価」を受けない、という意味である。無償性に含まれた「償い」とは報酬や賃金を意味し、活動に必要な経費すら受取らないという意味ではない。第一、活動費用の弁償がないのに、活動を継続できる人は基本的に恵まれた人だけである。ボランティアは恵まれた人だけの特権ではない。さらに、社会が「費用弁償」の制度まで整えて、「有志」の参加と貢献を呼び掛けるのは、それが社会的に意義のあることであり、必要なことだからである。それゆえ、「費用弁償」は「社会的必要」の象徴であり、そこからボランティア参加者のやり甲斐と社会に「必要とされているという実感」が生み出される。彼らが受取る「費用弁償」は彼らの「存在必要」の証明である。社会に必要とされることが彼らのエネルギーを生み出し、やりがいや生き甲斐に通じることは論を待たない。「海外青年協力隊」も、「海外シルバーボランティア」も、国が渡航費や最低限の生活費を保障している。それがあるべきボランティアの振興策である。ボランティアの「無償性」原則を「ただ」と解釈したことが日本社会;特に教育行政と福祉行政の最大の失敗であった。「無償」とは報酬や賃金など「労働の対価」を受取らないという意味に限定すべきであった。
  筆者の見聞の範囲では「ただ」のボランティアは次々と挫折している。費用弁償を受取っていなければ、遊び場広場の指導者も同じであろう。地域の教育力という「立て前」とみんなで育てよう地域の子どもという「きれいごと」で「タダ働き」をさせられれば、挫折も、脱落も当然の結果であって、責めることはできない。また、無償のままでがんばり続けているボランティアは、「オレ達は一銭ももらっていない!」と豪語することになるだろう。何一つ社会的見返りを必要としない方々は、誠に羨ましい限りであるが、費用弁償を受取っている方々を威嚇する必要はない。黙って返金すればいいのであって、そちらの方が「奥床しい」!!

 ■6■ プログラムの「質」・「量」を吟味しているか

  保育の機能に教育の機能を付加するということは、子どもの「安全」に健全な活動を付加することを意味する。目的は立派に「一人前」を育てることである。「一人前」の定義は「保護」から「自立」へ向かうことだと簡単に考えればいい。保護の前提は「自分のことが自分では出来ず、自分のことも自分では決められない」ということである。それゆえ、自立の基準は「保護」が必要でない状態に達する事である。換言すれば、「自分のことは自分でやり、自分のことは自分で決めること」である。その前提がたくましい心身の育成である。
  しかし、現代の子どもは心身共にへなへなである。それゆえ、プログラムの重点は心身を鍛える「体力」と「耐性」の育成である。具体的には、躍動的な遊びと教育活動を組み合わせて、心身の挑戦を応援し、集団生活、社会生活の予行演習をたっぷり実施することである。
  プログラムの中身と方法こそがいわゆる「教育力」の主要な構成条件である。家庭の教育力の貧困化を指摘し、地域の教育力の衰退をなげくということは、それぞれの場で実施されているプログラムの質と量が問題であるということに外ならない。特に、重要な問題は、実施されている多くのプログラムには、導くべき「子ども像」が不在である。「子どもの居場所」や「遊び場広場」へ出かけた子どもの態度や行動がいっこうに改善されないのはそのためである。子育て支援はプログラムの質を問い、指導上の教育原理と方法論を再検討しなければならないのである。

 ■7■ 拠点は「学校」である

  子どもの「安全な居場所」ー「最適な活動場所」を確保しようとすれば、拠点は「学校」である。利用施設は体育館、運動場、プール、図書室、家庭科室、理科室などである。学校を活用すれば、子どもは放課後の移動の必要がない。施設も環境も、子どもが日常親しんだ、子どものために設計された専門施設である。学校施設であれば、参加者数が増大した場合でも十分に対応でき、地方自治体にとっては最も経済的であり、保護者にとっては最も安心出来る施設である。『放課後子どもプラン』が拠点を「公立小学校」としたのはまさに卓見であった。学校を使えば、必ず、学校の閉鎖性の打破に繋がり、コミュニティ・スクールの創造に繋がる。
  子育て支援が全町(市)的に展開されるとすれば、居場所と活動の拠点は社会教育施設では不十分である。児童福祉施設でも不足である。
  理由は主として3つある。第1は子どもの参加者数が増大した時、公民館も、児童福祉施設も、その収容能力はパンクする。第2に放課後の子どもも、長期休暇中の子どもも学校以外の施設に通わなければならない。校区内の子どもはともかく、子どもが校区外の施設に通うことは、負担であり、危険であり、結果的に利便上の不公平が生じる。慣れない施設までの子どもの道行きは安全上の問題も喚起する。交通事故しかり、犯罪への巻き込まれしかりである。指定の公民館に辿り着かないで、子どもが"蒸発"して大騒ぎになった事例も枚挙に暇がない。第3は公民館も、児童福祉施設も、通常は小規模であったり、成人との共用である為、子どもの多様な活動の同時展開には適していない。それゆえ、子育て支援の拠点には学校が最適なのである。全県にたくさんの小学校があるのにわざわざ多くの公金を投じてネコの額のようなお粗末な「広場」をつくらなければならないという発想がそもそも理解できない。遊び場広場を拠点にして、週1〜2回の単発の遊びが仮に行われたとしても、少年のアンビションも、女性のアンビションも、社会のアンビションも育てることにはならないだろう。
 

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