第70回生涯学習フォーラム論文概要:
小学校教育における指導原理の再考−「児童中心主義」理論に振り回されてはならない
1 家を建てる「順序」−教育・指導原理のシークエンシング法
家を建てる際に基礎を固めずに柱から立てる人はいない。住宅建築にはその順序が決定的に重要である。まず「基礎」を平らにして良く固める。固め方が足りなければ柱や壁を立てた後に沈んでくる。当然、基礎工事は最も重要である。次は固めた基礎の上に土台を平らに置く。この時初めて床の基礎を土台をつないで、柱を立てる準備が整う。柱は家の大きさや間取りや耐久性に深く関わっているが、その耐久性の根本は地固めから土台に至る基礎工事である事はいうまでも無い。
柱が立てば、柱をつないで壁をつくり、梁を乗せ、柱と柱の間、梁と床の基礎の間に更に柱をかすがいに入れたりして強度を補強する。こうしてようやく屋根の重みを支えることができる。屋根は風雨に耐えなければならない。風が吹き込んでめくれたり、雨が染み込んで雨漏りがしないよう幾重にも重ね葺きをする。出入り口をつければ辛うじて住む事ができる。窓や廂や、屋内外の調度や飾り物はあるに越したことはないが、不可欠では無い。子育てや教育の論理もその基本において住宅建設の論理と順序性に変わりは無い。基礎や土台を抜きに柱から始めるわけには行かない。子どもの発達要因、教育や指導の基本領域の「順序」性と「組み合わせ」の重要性に最も留意しなければならない。それが教育・指導原理のシークエンシング法である。
2 教育要素の配列・組み合わせ(シークエンシング)法
生物の個性は遺伝子の塩基の配列の違いによって決定される。政治の特性は政策の配列と組み合わせによって決まる。政治学の場合ポリシー・シークエンシング法と呼ばれる。想定される政策項目は変わらなくても、それらの優先順位や組み合わせによって、政治の方向も、政治姿勢も大きく変わる。子育てや教育も同じ事である。それゆえ、政治学の表現法を借りて「教育要素のシークエンシング法」と呼ぶことにする。想定される発達要因や指導項目は沢山ある。それらをすべて同時並行的に実行できない以上、どこから始め、どのように組み合わせるか、を決めなければならない。それが「シークエンシング」である。住宅建設に基本の順序があるように、遺伝子にも、政策にも基本の順序がある。マズローによれば幸福にすらも順序性があって、「生存の欲求」−「安全の欲求」ー「帰属の欲求」ー「社会的承認の欲求」−「自己実現の欲求」の順である。下位の欲求が満たされなければ、当然、より上位の欲求は満たす事が困難である。人間の世界では大抵の物事に基本の順序があるのである。
もちろん、子育てや教育の方向性や結果も子育て要因・指導要因の優先順位と組み合わせで変わってくる。子どもに指導すべき要素は無数に存在する。子どもに学ばせたい課題も無数に存在する。育児書を読んでも、教育書を読んでも、沢山の発達要因が並んでおり、山ほどの課題と助言が並んでいる。しかし、大部分の参考書の叙述は「並列的」で、「総花的」である。それぞれの要素が大事であることに異論はないが、実際にどこから始めるのか?限られた時間とエネルギーの中で全部に手が廻るはずはない。育児書でも、教育書でも、指導原理の配列や組み合わせの「順序」性の意識が欠落している。子どもに発達上の基礎/基本が整っていない時、識者が「並列的」に、かつ「総花的」に子育て論や教育論を説く事は著しく有害である。まずは、親が総花的な育児書の指導をつまみ食いしてあれもこれもと中途半端に試みる。親は素人なのだから育児書や教育書に振り回される事は仕方がないが、結果的に子育ての混乱は免れない。住宅建設において、基礎や土台や柱や壁や屋根の要素は並列的に論じられてはならず、同時並行的に建設ができるものでもない。
にもかかわらず、教職のプロが担当する現行の学校の多くは教育要素を総花的・並列的にならべて子どもを指導しようとしている。がんじがらめのカリキュラムの中で、総花的に「あれも」、「これも」を指導しても、基礎が固まっていないところに柱を立てようとすることに似ている。それぞれが真面目に取り組んだとしても、指導の順序を間違えれば、配列も、焦点化も適切にはできない。結果的に子どもは「生きる力」も、「一人前」の基本も修得できない。
そもそもどんな子どもに育てたいのか!?子ども像を明確にし、その構成要因に向かって努力を焦点化しなければ教育目標の実現は難しい。努力の焦点化とは子ども像を構成する諸要因の選択と集中を意味する。換言すれば、要因の優先順位を決定し、それらの配列と組み合わせを工夫しなければ、「生きる力」といわれる最も重要な教育目標を実現することはできない。発達にも順序性があり、教育指導にも基礎と基本がある。どこから始めるか、どの要素を組み合わせるかは決定的に重要である。どこに重点を置くかも決定的に重要である。そこが分らないで「知・徳・体」のバランスとか、「ゆとり教育」とか、「総合的学習」などと総花的でかつ抽象的な事を言っていても教育効果は上がらない。指導には明確な指導の論理と順序が不可欠である。それが「教育要素の配列・組み合わせ法」である。
3 指導は「他動詞」である
「学力」も「生きる力」も「つく」のではなく「つける」のである。「つける」が第3者の手が加わった「他動詞」であることを理解すれば、子どもは基本的に「育つ」のではなく、「育てる」のであり、少年は社会生活に必要な諸々の知識/技術を「理解させ」・「体得させる」のである。子どもの発達が別名社会化と呼ばれるのも同じ理由である。「教育」は確かに「教える」部分と、自然に子ども自身の内在する力によって「育つ」部分を含んではいるが、原則的には「教えて」、「育てる」というように他動詞を二つ重ねることが正しいのである。特に、幼少年期の教育は子どもの成長が「自転」を始めるまで、「学び」のあらゆる領域において、その子にかかわる人々が背中を押してやらなければ先へは進めないのである。社会が「教育」を「義務」にしなければならなかったのはその為である。少年教育の原点は「する」であって、「なる」ではない。「可愛い子には旅をさせよ」も、「他人の飯」を食わせよも、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」も、「若い時の苦労は買ってでもさせよ」など過去の子育て格言もほとんどすべてが「使役の他動詞」である。「子宝の風土」の子育ては当然「宝」である子どもが中心である。それ故にこそ、「子宝の風土」の教育は「指導者」が中心でなければならない。現代の学校は風土の特性に照らして本末が転倒している。子ども中心の風土の学校は断じて「先生」が中心でなければならない。指導が他動詞でなければならないのはそのためである。
戦後、占領政策によって導入された「児童中心主義」は、「大人中心社会」の教育論である。教育のあり方は当然文化の一端であり、それぞれの風土の固有の制約を受けているのである。「児童中心主義」が間違っているというのではない。「児童中心主義」を「子ども中心」の「子宝の風土」と組み合わせたことが間違っているのである。
4 「主体性論」に振り回されてならない
欧米流「児童中心主義」の教導者は二言目には子どもの「興味・関心」が重要だといい、子どもの「主体性」・「自主性」を尊重せよという。それゆえ、「子どもの目線」が大事で、「社会の視点」は相対的に大事ではない。これらの主張は「大人」が中心で子どもの主体性が軽んじられている社会では正しい。西欧社会のように子育てにおける「社会の視点」が重視されている社会においては正しい。
しかし、すでに子どもが中心で、子どもの欲求がほとんど野放しになりがちな「子宝の風土」では断固間違っている。考えるまでもなく、子どもの「興味・関心」も、「主体性」も最初から子どもに備わった所与の条件ではない。乳幼児は基本的に教育上は「白紙」である。自分の事もまだ自分では出来ない。自分の事もまだ自分では決められない。世の中の価値も当然、弁えてはいない。これらはすべて「育てる」ものである。自律的に学ぶものではない。他律的に教えるものである。「すぐれた少年」は彼らが「なる」ものではない。われわれが「優れた少年」に「する」のである。
子どもは「学習の主体」になる以前に「教育の客体」である。従って、子どもが備えるべき条件は基本的に教育や他律の結果である。社会や家族が子どもに教えるべき大部分のことは子どもが生まれる前から決っている。教えるべきことの大部分は生活の「型」であり、従うべき「しつけ」である。家族や幼児教育・保育施設の指導は指導者が中心である。子どもの「興味・関心」や、「主体性」という名の移り気なわがままや勝手に振り回されてはならない。学校が当面している「小1プロブレン」は、家族と世間が子どもの放縦を許した結果である。子どもの「食」の崩壊は子どもの「主体性」を野放しにした結果である。「食育」で対応することはできない。日本の学校は子どもの「主体性論」に振り回されてはならないのである。
5 学校教育失敗の根本原因
発達途上にある子どもの「興味・関心」から出発し、子どもの未熟な主体性や自主性に決定を任せれば、結果も未熟な独り善がりに終らざるを得ない。欧米の「児童中心主義」は、欧米の社会が「大人中心主義」であることを前提としている。欧米の子育て風土は原則として厳しい他律の中で子どもをしつける。言う事を聞かない子の「スパンキング(尻を叩く)」はしつけの常識である。かつては「スパンキングボード」と呼ばれる板で尻をたたいていたことも知る人は知っているであろう。そのような風土だからこそ教育者は、子どもへの過度の抑圧を防止するため、子どもが主役であり、学習者が中心であるべきことを説いたのである。
一方の日本は「子宝の風土」である。子どもは大事にされ、「たからもの」として護られ、大人は子どものためであれば、献身的に奉仕する。そのような風土を前提にして、「半人前」に日々の決定権を委ねるのは教育の放棄に等しい。失敗の根本原因は重ねてはならないものを重ねたことである。戦後日本の教育は「子宝の風土」に、欧米型の「児童中心主義」を重ねてきた。子どもに尽くす風土に、子どもを尊重する思想を重ねてきた。児童中心主義は子どもの「興味・関心」を尊び、子どもの「主体性」を重視する教育思想である。子宝の風土と児童中心主義の結合は文字どおりの「屋上屋」を重ねたことを意味する。重ねてはならないものを重ねれば、子どもの決定権が異常に肥大する。未熟で、自己中心的な子どもが決定すれば、わがままと勝手が増殖する。好きな事しかやらないのは、それが子どもの「主体性」であるという解釈がまかり通るからである。やりたくない事をやらないで済むのは子どもの「興味・関心」を抑圧するな、と尤もらしく教育論で語る人がいるからである。
「好きなものしか食べない」のは子どもの「主体性」を重視した結果である。「嫌いなものは拒否する」のも子どもの興味関心が一人歩きした結果である。食生活が乱れるのはわがままで、勝手な子どもがやりたい放題にやった結果である。今ごろ「食育」の必要を説くのは誠に迂闊なことであった。
6 「生きる力」とはなにか?その構成要素に順序性はあるのか?
筆者は「生きる力」を「体力」から始まって、「やさしい行為」に至るまで5つの基本要素に分解している。もちろん、その構成要素に順序性はある。
「生きる力」の分析とその構成要素の順序性へのこだわりは、文科省のいう「生きる力」の概念が曖昧かつ抽象的に過ぎる事への批判から出発している。教育施策も行政施策と同じである。先ずは「具体的」でなければ、解決の処方は見出せない。掲げた目標が重要であっても具体的な日常行動に「翻訳」できなければ、具体的な指導の中身も指導法も提案できるはずはない。しかも、限られた時間と財政とエネルギーのなかで実施しようとすれば取組み内容が制約を受けるのは当然である。一定の時期・期間で特定の教育目標を達成しようとすれば、達成すべき施策要因の優先順位と組み合わせを決定し、その理由を明確にしなければならない。
その点で現行の定義のような「生きる力とは、子どもの問題発見能力とその解決能力の総体である」などという概念の説明は全く指導上の参考にはならない。
「生きる力」は家の建築に例えることができる。「生きる力」を5要因−5段階
に分解して提案すれば、基礎工事に当たるものが「体力」である。体力が尽きれば、生き物は死ぬ。体力こそが生き物の「生きる力」の基本中の基本である。土台は固めた基礎の上に置く。社会生活の基本もあらゆる学びを可能にする集中と持続の礎石は「耐性」である。「耐性」は行動にも、気持ちや感情にも跨がる複合的な「がまんする力」である。通常「がまんする力」は、「行動耐性」や「欲求不満耐性」の概念に分けられ、肉体も精神も心も関係する自己制御の総合能力である。「体力」と「耐性」の上にあらゆる「修得」が可能になる。
「柱」や「壁」に当るものを何に例えるべきかは教育者の視点によって若干の違いはあるだろうが、「柱」は就業に備えた「基礎学力」、「壁」は社会生活・共同生活に備えた「社会規範への服従と道徳的実践力」とした。屋根は、潤いのなる人間関係を維持するためのやさしい行為や親切な態度及びそのもとになる感受性」であろう。
教員集団はこれらの目標を日常の指導プログラムに「翻訳」し、優先順位に従って、順次実践に移すべきである。教育の成果は子どもの発表会と教員のプログラム分析を公開して外部の評価を定期的に受けるべきである。
したがって、期待すべき成果の第1は体力の増強である。体力が向上すれば、肉体の試練にたえることができる。次は耐性の訓練である。子どもががまん強くなれば、日々の困難に耐えることができる。もちろん、「困難」とは「子どもの願いが願った通りにはならない状況」であり、子どもの「期待が期待通りにはならない状況」である。「耐性」はルールに従い、規範を守る力である。子どもには、やってはならないことはやりたくてもやってはならないことを教えなければならない。やりたくなくてもやるべきことは「やりなさい」と教えなければならない。それ故、耐性の基本は「欲求不満耐性」である。「辛さ」に耐えて子どもが丈夫に育つのも、「艱難」が子どもを「玉」にするのも耐性が成長の基本であるという意味である。学校のプログラムには「鍛練遠足」以外に様々な「鍛練プログラム」が必要となるのはそのためである。具体的には、親元を離れたキャンプや野外教育、世間の評価を受ける公開の発表会及びその準備のための集中的な訓練、体力向上を目指した記録会、学力の成果を問う試験と試験勉強、学校外へのボランティア活動など現行カリキュラムの範囲でできることは多い。
学校は田植えごっこや飼育ごっこや英語遊びのようなアホな総合的学習は止めて、すべてこの種の「鍛練プログラム」に振り向けるべきなのである。基礎と土台ができれば、学力指導も、道徳指導も決して困難ではない。体力がつけば、持続力がつき、姿勢も、行動も保つ事ができる。加えて「がまんする力」が向上すれば、「耐性」は子どもの意欲に反映し、物事に対する集中も踏ん張りも利くようになる。自侭な欲求に対する抑制力もつく。この時、計算の練習や漢字の反復、朗唱、作文練習などを組み合わせれば間違いなく基礎学力を積み上げる事ができるだろう。表現技術は特別な練習を積まなければならないが、それもまた学校と地域の協力があれば、指導して頂く人材の確保は決して不可能ではない。
あらゆる困難は「基準」次第である。だから子どもができるようになったことはすでに子どもの困難ではない。体力がついて集中ができれば、授業に参加することは困難ではない。がまんができればルールに従うことも、責任を果すことも困難ではない。要は、自己抑制の心身の力の育成から始めればいいのである。授業が崩壊し、子どもが好き勝手に駆け回る荒れた学校の失敗は教育指導における発達要因の順序性を理解しないところにあるのである。
|