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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第74号)

発行日:平成18年2月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. 夢の過疎対策構想 「森林ボランティア」は可能か!?

2. 夢の過疎対策構想 「森林ボランティア」は可能か!?(続き)

3. 第64回フォーラムレポート 『みんなちがってみんないい』

4. 子育て支援−「ボランティア指導者」の評価と意見

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

第64回フォーラムレポート 『みんなちがってみんないい』

  今回は山口県での移動フォーラムであった。正式名称は「第1回人づくり、地域づくりフォーラムin山口」への特別参加の形式をとったのである。

1. 「みんなちがってみんないい」

  大会は関係者の理解をえて、山口県生涯学習センターが企画した指導者養成講座の研修生が全面的に大会の企画に参画した。大会が成功裡に終った要因の一つは明らかに企画と運営の両面に渡った研修生の智恵と主体的参画であった。大会を貫く基本理念は金子みすずが歌った詩の中から「みんなちがってみんないい」とすることにした。大会要項のそこ彼処に金子みすずの名詩をちりばめ、合わせて挿し絵を書いた方の許可もいただいて詩と組み合わせてイラスト風にページを飾った。研修担当者の熱意がシンガーソングライターのちひろさんをお招きしてセミナーパーク大ロビーでオープニングのみすずコンサートを実現した。山口県は我が愛する中原中也や種田山頭火を輩出しているが、時代は個性や多様化や明るいやさしやを求めている。生涯学習はみすずさんの時代なのである。祭もない、安売りバーゲンもない、お土産のプレゼントもない、客寄せパンダもいない会であった。ひたすら固い「実践研究」と専門家によるフォーラムに500数十名の方々が泊まり掛けで出席し、夜の更けるまで議論に興じたことは特質に値するであろう。
  唯一、柔らかいところを受け持ったのが研修生ボランティアであったろう。空き時間のピアノ演奏も、ふぐ汁の手配も、着物リフォームのファッションショーも、競り市の実施も、お客さまの接遇も、エンディングの歌も研修生が担当した。筆者としては「実践」を前提とした「研修」の有効性を再確認した思いである。

2. 「実践のために学ぶ」

  山口県生涯学習センターの講座運営の目標は「実践する事を約束して学ぶ」である。暴論は承知の上だが、実践を約束しないのに無料の生涯学習講座は基本的に税金の無駄使いに終る。個々人が身銭を切って実行する分には何をどのように学ぼうと文句はないが、公金を投入する研修は別である。山口の研修では、「自分が行動に参加する気のないものは去っていただきたい」、と申し上げて研修を始める事にしている。生涯学習の実践は、他の人間行動と同じく、「学んでから実践する」のではない。「行動への意志」を前提にするから学ぶ事が多く、学ぶことが主体的になるのである。行動への意志を前提にしなければ理論は身に付かず、頭が理解できても本人は理論と実践の谷間を跳ぶ事はできない。
  大会の中で筆者がお聞きした実践事例のすべてが実践から始まり、実践の中で進化したプログラムであった。穂波町の「子ども学び塾」も、高知県の山中節子さんの図書館クラブの読み聞かせも、広島の中村由利江さんの紙芝居交流も、佐賀市女性の会の「パートナーデー」や男女共同参画の寸劇活動も、同じく佐賀県の谷口仁史さんの少年問題相談事業もすべて実践から出発している。これに対して従来行政主導型で実施してきたほとんどのボランティア養成講座も、老人学級も、高齢者大学も、その他の趣味・教養講座も、「学んだ成果を社会に還元してください」というように「学習」から出発する。実践と学習の位置づけが逆転しているのである。学んでから実践ができた試しは少ない。現象的に、「学んだ人」が「実践している」ように見える場合もあるが、大抵はすでに実践中の方々が学ぶから実践に繋がっているように見えるだけである。学校の教室で学んだ者が地域で実践をした例など寡聞にして聞かない。教育界は指導者の理屈が先行し、自らの実践が稀薄である。「学んでから実践する」がどんなにまことしやかに語られても、事実上、理論と実践の深い谷を埋める事はできない。生涯学習行政においてすでに何十年も沢山の研修を重ねて実践の結果はほとんど出ていないではないか!!山口大会が実践研究を重んじたのはそれ故である。沢山の方々が集まってくださったのもそれ故であろう。今回、九州女子短期大学の学生諸君がボランティアとして参加してくれたのも「志は行為の中から生まれる」ことを古市教授以下の関係者が期待した故であろう。果たして学生諸君は何をどのように学んだのか?それとも企画に参画せずに大会を支援する作業に関わっただけでは疲労感だけが残ったか?是非お聞きしたいものである。

3. 運営の修正は「今」こそ好機である

  大会は成功したと思う。移動フォーラムもそれなりの役割を果す事ができたと思う。何よりも多くの人々の参加と感想がそれを証明している。終了後、さっそくに中原所長からお礼のメールをいただいて恐縮したが運営の問題点を修正しようとするならばそれは「いま」であると書き送った。特に大会の企画に参画し、合わせて運営の陰の部分を担った講座研修生の思いが熱いうちに夢や希望を聞いてみたかった。運営の具体的状況に付いても、どこに問題があったか、何をどうすれば次の会の改善に繋がるのか。すでに後の祭りであるが、研修講座の最終まとめの「番外編」を大会後に組んでおかなかったことを後悔している。実践後の修正提案と評価こそが実践者の最大の学習機会である。Plan-Do-Seeの管理運営サイクル論の核心はそこにある。筆者の感想は沢山あるがとりあえず書いておきたいのは以下の2点である。

(1)  対等の原則
  生涯学習の大会は参加者対等の原則を貫徹すべきである。最小限の礼儀は当然としても要人や講師の度を越えた特別待遇は大会の理念と雰囲気を破壊する。出席もしない講師や要人の名前を貼って会場の前部座席を空席にし、熱心な参加者に立ち見をさせるという事などが一例である。食事も同じである。出迎えも同じである。度を越えた特別待遇は「分離」や「隔離」になりかねない。特別待遇にこだわって対等の原則を拒否しそうな講師や関係者は呼ばないに越した事はない。生涯学習の実践は社会的地位で行うものではない。才能のある人でもスターになりたがって、人々を「鑑賞者」と「創造者」に二分する傾向のある人を呼んではならない。生涯学習は国民の底上げが目標である。一人ひとりのエネルギーと発想が勝負である。

(2)  研究と交流
  実践研究とその向上のための交流が目的であれば、余興はいらない。美しいものに余計な飾りがいらないように実践研究に余計なエンターテイメントは不要である。余興が必要な人はサーカスかレジャーランドへ行けば良い。所詮、生涯学習はパチンコやさんには歯が立たないのである。余興を提供する事は、時に、グループにとっては実践の一環であるが、その場合はプログラムに「遊び」を持たせて見る側の選択の自由を保障できるスケジュールにすべきである。見たくない人の自由を奪い、移動できない人々をその場に"監禁"して参加を強要するのは「いつでもどこでも」の基本原理に反する。懇親の食事も同じである。食事は大切であるが、大会の参加者は食事に来たのではない。パーティーは席を固定せず、立食で人々の移動を保障しなければならない。旧交を温めることも大切であるが、実践研究交流会は「実践」を手がかりにして未来の同志に出会う人間探険の舞台であるからである。生涯学習のキーワードは「主体的な選択」である。

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